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有鄰


有鄰の由来・論語里仁篇の中の「徳不孤、必有隣」から。 旧字体「鄰」は正字、村里の意。 題字は武者小路実篤。

平成11年5月10日  第378号  P1

 目次
P1 P2 P3 ○インタビュー 永井路子 歴史小説の周辺 (1) (2) (3)
P4 ○ロシア文学は今  水野忠男
P5 ○人と作品  中島京子と『だいじなことはみんなアメリカの小学校に教わった。』   藤田昌司

 インタビュー

永井路子 歴史小説の周辺 (1)
─史伝・紀行 気になる人びと 実母のこと─

              

 

編集部  永井路子先生は大正十四年東京にお生まれになり、小学館の編集者を経て、作家活動に入られました。 『炎環』で第五十二回直木賞を受賞されたほか、女流文学賞、菊池寛賞、吉川英治文学賞などを受賞され、 主要な作品は『永井路子歴史小説全集』全十七巻(中央公論新社)にまとめられています。 また先生は昭和三十七年からは鎌倉にお住まいで、昨年鎌倉市の名誉市民になられたのを機会に、 現在鎌倉文学館で特別展「永井路子」が開かれています(六月二十七日まで)。

  本日は、幅広い先生のお仕事のなかでも、歴史小説の周辺の作品、 また展覧会に際して初めて公表される生い立ちについてお聞かせいただきたいと思います。


新歴史の発見や史料を見る面白さを伝えたい

編集部  永井先生の歴史小説には多くの愛読者がいらっしゃいますが、 二、三年前に「もう新しい小説は書かない」と宣言されて、 残念ながら新しい作品を発表されなくなりました。先生には全集に収録された歴史小説のほかに、 史伝や史論、紀行文などのお仕事もございますね。

永井  小説以外のものは、一つは番外編というか少し軽い気持ちで書いた 「歴史をさわがせた」のシリーズがあります。私は戦中・戦後の体験から、 それまでの歴史とは随分見方が違うことがあるのではないか。 つまり、戦前の教育からは教えてもらえなかった新歴史の発見というような気持ちがありまして、 そして書いた始まりが『歴史をさわがせた女たち』です。 これは日本経済新聞に連載のときには『スーパーレディー外史』というタイトルでした。

  そして、歴史の中ではこういうふうにいわれているけれど、実はそうではない。 史料によって見ると、全く見方が変わるような人もいるということを、軽いタッチで書いたのが、 シリーズの第一回で、それから「外国篇」とか「庶民篇」とか、 新聞連載のチャンスを与えていただきました。

 

  関ヶ原の合戦はおねねと淀殿の合戦でもある

永井  例えば、後で『王者の妻』という小説で、北政所のおねねを書いていますが、 これまでは秀吉の裏に隠れて見えなかったけれど、 これはなかなか日本一のおかみさんではあるまいかと思います。 関ヶ原の合戦のとき、北政所側の連中は、はっきり淀殿とたもとを分かって家康側につく。 小早川秀秋が最初は西軍についていたのに家康側(東軍)に寝返る。 これが戦機を変えて、家康軍が非常に有利になったといわれている。

系図を見ると秀秋はおねねの甥で、よく調べてみると、 おねねの所に行って出陣までにいろいろ相談をしている。 そういうことで見ると、関ヶ原の合戦は、実はおねねと淀殿の合戦でもある。 『歴史をさわがせた女たち』では、史料を見る面白さをベースに置いて、 短編小説ぐらいの気持ちで書いてきたんです。

  そこにある女性の歴史は、戦前は非常に軽視され、戦後でも、 教科書に出てくる人物のうち女性は男性の一割にも満たない。 ですから、女性も実は歴史の中に大きなかかわりを持っていることをいいたくて、 少しくだいた調子で書いてみたんです。

 

  優雅な人、紫式部は清少納言にいや味たらたら

永井  初めは有名人を書いた。例えば紫式部。 『源氏物語』というすばらしいものを書いた優雅な人かと思うんですが、 清少納言について「あの人は将来はろくなことはないだろう」と悪口をいったり、 その裏では「私は一の字も知らないような顔をしているのよ」など、いや味たらたらだったりする。

  一方の清少納言は、「春は曙」とか、季節の感覚のすばらしさを中心に注目されていますが、 彼女の語る恋愛美学は真に迫った体験から出てくるような面白さがある。そういうことを書いたものです。 「庶民篇」は注目されていませんが、私自身の女性史の見方が少しずつ進んできて、 無名必ずしも無力ならずというような気持ちで、かなり力を入れて書いたんですが、 売れ行きは、やはり有名人には及びませんでした。

編集部  読ませていただく と、歴史上の人物が身近に感じられるのも魅力ですね。

永井  歴史はつまらないと思っていたら、なかなか面白いという手紙がたくさん来ました。 『歴史をさわがせた女たち』以来、私の読者は、中学生から八十歳の方まで、非常に幅が広くなりました。

  それから、例えば『悪霊列伝』は、悪霊を人間がどれだけ信じていたのか。 日本人は常に信じていたようにいわれていますが、実はそうではなくて、 ある程度までは政治的な手段として、本当に巧妙に使われている。 そういう悪霊の後ろにいるものを書いてみたかったんです。

 

  現地を訪ねて歴史上の人物を追体験する歴史紀行

永井  それから、歴史にかかわりがある現地に行って、 自分が考えたことを書いた『「平家物語」を旅しよう』とか、『太平記紀行』などがあります。 歴史ものを書くときには、史料を読むことが一つですが、現地を訪ねてみると、 空気を本当に肌で感じることができます。山の姿なんかはほとんど変わっていないし、 あの人もこういう角度でこの山を見たんだなということから、実にその人間が親しく感じられる。 それを追体験しながらたどっていくのが、歴史紀行だと思うので、本にさせていただいております。

 

  大地に足をつけた中世武士を実感した『相模のもののふたち』

永井  私が一番印象に深いのは『相模のもののふたち』です。これは有隣堂さんがお膳立てをして、 あちらこちらに連れていってくださって、 それこそ相模の風土というものにじかに触れながら書かせていただきました。 思いのほか、そのあたりの風土がそのまま残っていたり、あるいは変わってしまっても、 例えば惣領分とか庶子分とか、中世の地名が残っているということは、ちょっと驚きでした。

  そこに生きた武士団たちが鎌倉時代をつくった原動力だと私は思っています。 そういう人たちが、例えば「ここの水は俺のだ」とか「これはそうじゃない」 とかいって争ったとか雨が降って、「きょうはしようがないな。 嵐になってしまって、稲が水浸しだわい」と嘆いたろうとか、 相模の大地に足をつけた連中が走り回っていたという実感が一番したのは『相模のもののふたち』なんです。

  取材に回る直前に、知人の別荘がある熱海に招かれ、そのとき大変いいお天気で、伊豆半島、真鶴半島、 三浦半島、房総半島まで全部見えた。それがちょうど、あれを書かせていただく初めでしたね。

 

  頼朝の旗揚げが勝利したのは海伝いに届いた情報

永井  そうして見ると、いかに海の武士団というものが頼朝の旗揚げにみんなで協力したか。 しかも、海の連中は船で行き来すれば、非常に簡単に連絡がとれる。私たちは陸(おか)あがりした人間ですから、 車で行くとかしか考えられないから、伊豆半島の人間が、千葉まで行くのは大変だなとまず思う。 けれども海を伝って、いかに情報が速く伝わるかを忘れていたことを、そのときに気がつき、 それで「輝ける海のつわもの」というタイトルで三浦氏のことから始めました。

  旗揚げに動いたのは、全部海の武士団です。北条氏、土肥氏、三浦氏、それに千葉氏でしょう。 しかも、山側は反応が鈍く、波多野氏なんかは昔の官道の所にいて、情報が速いかと思うけれど、 そうではない。 それから事大主義というか平家様様だから、決して頼朝の時代なんか来るはずないやと思っている。 そういうものの情報の伝わり方が、やはり時代を変えているなと。『相模のもののふたち』で大変勉強させていただきました。



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