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有鄰


平成11年6月10日  第379号  P2

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 ペリー来航と英学事始め (1) (2) (3)
P4 ○ゲーテの心  小塩節
P5 ○人と作品  上野正彦と『毒殺』        藤田昌司

 座談会

ペリー来航と英学事始め (2)



アメリカの捕鯨船が日本近海に

川澄  アメリカの捕鯨船が日本近海へ来たのは、アメリカの記録では、 一八一九年にナンタケット島を出たジョセフ・アレン船長のマロー号が最初です。 一七一二年頃、クリストファー・ハセーというナンタケットの鯨捕りが、 マッコウクジラを一頭しとめて帰ってくる。 それまではセミクジラを捕っていたのがマッコウ油の方が優れていることがわかると、 彼らはもっぱらマッコウクジラを捕るようになる。 やがてアメリカの鯨捕りたちはマッコウクジラの群れを追ってホーン岬を回り、 太平洋に出て、だんだん日本に近づいてくる。ナンタケットが日本開国の原点だといえます。
 

  ペリーは日本の開国を捕鯨業界から提言すべきだと主張

川澄  僕は、日本の漂流民とかアメリカの鯨捕りのような庶民の立場からペリー来航を考えてみたいと思います。 土佐の漁師の中浜(ジョン)万次郎が漂流して、アメリカの捕鯨船に救助されたことはよく知られてます。 一八四一年のことです。ジョン万はアメリカで教育を受け、捕鯨船に乗り組み、 鯨を捕って世界の海を巡りあるきます。 日本に帰ってきたのは、「将軍に直訴」してでも捕鯨船のために港を開きたいと決意したからです。 港は琉球あたりを考えていました。たった一人の日本遠征です。命がけの仕事です。 しかし、鎖国の掟を破った罪に問われ、故郷から外に出られなくなってしまう。 将軍に直訴する夢ははかなく消え去ってしまった……。

  そこへペリー艦隊がやってきて、万次郎は、老中阿部正弘に直訴する機会が与えられる。 そのとき切々と、アメリカが日本に開国を求めている真意を訴えています。

  ペリーと鯨捕りとの関係も密接です。 ペリーが捕鯨業界の大元締のジョセフ・デラノ船長に宛てた私信が数通残っています。 それを読むと、ペリー来航はペリー自身が仕掛けたものだということがわかります。 ペリーは、武力を使ってでも、日本の鎖国をなんとかしなくてはならない。 自分は表に出られないので、捕鯨業界から日本の開国を提言すべきだというようなことをデラノに言っています。

  ペリーに日本の開国を思いたたせたのは、長崎を訪れたプレブル号が自国の漂流民を引き取った事件です。 遣日使節に任命される一年も前のことです。遣日使節に任命されたあとの手紙の内容は具体性をおびてきて、 石炭を日本の近くに運んでほしいとか、鯨捕りを艦隊員として募りたいという具合です。 また、捕鯨の中心地ニュー・ベッドフォードにでかけてデラノに会って、協力を求めています。

  ペリーは日本を開国するにあたって、 東インド艦隊とアメリカの捕鯨船団との合同作戦を考えていたのではないか。 ペリー艦隊が日本に来た七月は、日本漁場での捕鯨シーズンの真っ盛りです。

  興味深いのは、ペリーは、日本語の通訳として、日本の漂流民を連れて行きたいと考えていたふしがあります。

 

  国務省ではなく東インド艦隊が条約交渉をおこなう

加藤  アメリカでは条約交渉を担うのは国務省なんですが、日本に対しては、どうして海軍省、 東インド艦隊だったのか。やはり海軍内部の事情が大きかったと思われる。 ペリーを派遣した時点でZ・タイラー大統領が任期途中に死に、 M・フィルモアという共和党系の副大統領がそのまま大統領になる。 議会は全部反対派だから行政府の中だけでできること、 それも海軍省の範囲でおこなうという制約が政治状況としてはあった。

 

  アメリカの鯨捕りの間では「日本を開国するのは捕鯨船だ」

川澄  いってみれば、万次郎の私的な日本遠征とペリーの公的な遠征がうまくかみ合って日本が開国した、 というように僕は考えています。あるいは、メルヴィルが予言して、万次郎が実行したと。 万次郎が日本開国の立役者だという人は、とりわけアメリカ人の中にたくさんいます。

  ただ、アメリカの鯨捕りの間では、日本を開国するのは捕鯨船だと意気込んでいるんです。 例えば、一八四八年十二月の『フレンド』紙には、 「世界の商業国や海軍国はまだ日本の開国を模索している段階だ。 しかし、我々はもう日本開国に一歩踏み出している」と。

  メルヴィルも『白鯨』の第二十四章で「日本を開国するのは捕鯨船である」と書いています。 この本の刊行は一八五一年十一月ですから、ペリーが東インド艦隊の司令長官に任命された時期です。


条約文は日・英・漢・蘭の4か国語


加藤  もう一つは言葉の問題です。オランダ語は口頭では使うが、文書では使わない。 ところが条約文は文書に落とさなくてはいけない。 ペリーは最初は日本語でやろうとする。 そこで、アメリカ人の中で一番日本語がわかる男は誰かと探して、 S・W・ウィリアムスだということがわかった。 彼は広東とマカオで宣教師をしていた。ペリーはウィリアムスに通訳として同行を頼む。 ところがウィリアムズが困惑してしまう。 「私の日本語は十年前に、岩吉らの日本人漂流民を師匠に習ったものである。 漂流民は大部分が回船の乗組員で、読み書きがほとんどできない。ましてや幕府との公的交渉で、 候文など書けるわけがない。自分はそんな能力はない」と断る。

  代わりに、中国語ならできるということでウィリアムスは中国語の通訳として来る。 書には自信がなかったので、羅森という中国人の文人を連れて来た。

 

  清朝と結んだ条約の漢文版を縮小して幕府に提出

加藤  最終的にはアメリカは条約草案を一八五四年三月八日に幕府に提出する。 ところが、そのときに、問題がもう一つ出てきた。海軍の提督は条約草案を起草する力を持っていない。 言葉の問題と内容の問題、両方で困った。

  それで、事前の資料に、 アメリカがかつて結んだ一番新しい条約の中で、 英語と中国語を正文(条約が依拠する特定の言語で書かれた条約文)としたものを使った。一八四 四年に清朝と結んだ望廈条約の漢文版の三十四カ条。

  その中から通商の部分を外して、(平)和と親(睦)の部分だけとし、 二十四カ条に縮小した漢文版を幕府に出す。つまり、通商に伴う港湾の使い方、 居留地、開港場、そういう問題を全部外した。

  ところがタイトルから「通商」を削除しなかった。そこまで気が回らなかったんですね。 そういうところを幕府につかれる。それで結局、アメリカの条約草案は形をなさないほど分解されて、 最後に和親条約になったわけです。

 

  双方の全権が同じ文面に署名した条約文がない和親条約

加藤  もっと面白いのは、三月三十一日に、横浜の現在の開港資料館の辺りで調印式がおこなわれたのですが、 幕府の林大学頭は事前に署名したものを交換するというやり方をとり、最後に、 「日本語以外の条約文に署名することはできない」と発言する。

  その結果、日本語版には日本の代表の四人の署名のみ、英文版には、ペリーの署名だけ。 漢文版は松崎満太郎という日本側の漢文通訳の名前だけ。 それからオランダ語版には通詞の森山栄之助の署名だけ。 この四種の条約文がアメリカの公文書館に保管されている。 つまり、双方の全権が同じ文面に署名した条約文は存在しない。

  ホークスという歴史家が編さんした『ペリー提督日本遠征記』の末尾につけてある条約文は、 日本語と英語だけ。それを見れば、双方の全権がサインしていないのがわかるんですが、 誰も上院で文句をいわなかった。万々歳だというので、議会(上院)も忙しくて、 ポッと通したんだと思います。

 

  追加条約で日米両方の国語にオランダ語をつけて署名

加藤  調印式が終わった翌日、ペリーが幕府に対して前日の署名問題に注文を出す。 それに応接掛の林は返事をせず、老中に上申する。 自分は連署連判しなかったから「御国威を相立て申候」と書いてあって、なかなか面白い。

  しかしペリーとしては、帰国して「連署がないじゃないか」と言われると困る。 大分あせっている。そこで林が、開港場、つまり避難港として開港した箱館と下田を艦隊が訪ねるとき、 六月に追加条約を結びましょうと提案する。そこで初めて、 日本語と英語にオランダ語の訳語をつけるという追加条約に双方で署名した。

川澄  外交交渉では、たとえ多少の英語の知識があっても、オランダ語で交渉した。 ペリーが来たときも、ハリスが来たときも、遣米使節が行ったときもオランダ語です。 遣米使節が帰ってくるときもポートマンが一緒に来る。 最後まで、オランダ語が条約交渉のための言葉として使われていたんですね。

 

  ジョン万次郎が隣室でペリーの外交文書を翻訳したという説

篠崎  先生のご研究によりますと、ジョン万次郎は約十年間アメリカにいたことになるのですか。

川澄  実際には、アメリカ本土にいたのは三年ぐらいです。あとはほとんど捕鯨船に乗っている。 ですから、彼の英語は、捕鯨船という、 いろんな国の人たちが乗っている国際社会の中で習得した英語なんです。

  万次郎は江川太郎左衛門の手付ですから、万次郎を通訳に使いたかったけど、 反対にあって使えなかったというのが通説です。しかし、外交交渉がおこなわれている隣の部屋で、 万次郎はペリーから手渡される外交文書の翻訳に当たっていたという説があります。グリフィスの説です。

  これは、グリフィスが一八八七年に書いた『ペリー提督伝』に出てきます。 その本が出るきっかけとなったのはデーモン牧師です。デーモンは『フレンド』紙の一八八四年十月号で、 グリフィスの『皇国』にも日本の歴史書にも、 日本の開国に活躍した万次郎のことが一言も書いてないと不満を述べるんです。

  それを受けてグリフィスが『ペリー提督伝』を書き、その中で、 会議の隣の部屋で誰にも見られないで万次郎がペリーから手渡される外交文書の翻訳に当たっていたと書かれている。 これは、一般には否定されています。例えば、アメリカの万次郎の研究家、エミリー・ワリナーは否定説です。

  しかし、水戸斉昭から江川に宛てた書簡やグリフィスが参考資料とした『フレンド』紙の記事をていねいに読んで検討してみると、 「万次郎隣室通訳説」も一概に否定することはできません。


開港場でのコミュニケーションは英語、漢文の筆談

篠崎  ペリーが条約を結んだ五四年から四年後に、ハリスが主になって日米修好通商条約が結ばれ、 横浜が開港場になり、外国人がやってくる。 幕府の御用商人や一攫千金を夢見た商人たちも全国から集まってくる。 ここでのコミュニケーションはどんなふうに交わされていたんでしょうか。

小玉  福沢諭吉の『福翁自伝』に書かれているように、彼が江戸から、開港したばかりの横浜に来ると、 書いてある看板も読めない。自分は今までずっと蘭学を勉強してきたのに、それがちっとも役立たなかった。 今、世界で使われている言葉は英語だというから、きっとあの文字は英語であろうと。 それから英語を一生懸命勉強して、後の慶応義塾をだんだん英語に切りかえていきます。

  一方、横浜では、 外国人とのコミュニケーションの言葉が必要であるということで英語をはじめとする外国語を仮名で書いた即席の外国語会話書がたくさん出ている。 日本人による『横文字早学』とか、外国人による『ヨコハマダイアレクト』(『横浜方言集』)とか。 こうしたことについてチェンバレンが『日本事物誌』の中で、 中国人は言葉をよく覚えたので片言の英語でも話したけれども、 日本人は片言の英語も使えないから自分たちが片言の日本語、 いわゆるピジン・ジャパニーズを覚えなければならなかったといっている。

 

  ピジンとはビジネスがなまったもの

篠崎  ピジン・ジャパニーズとかピジン・イングリッシュとはどういうものですか。

小玉  ピジンというのはビジネスがなまったものだといわれています。 中国では、英語に中国語・ポルトガル語・マレー語などを混ぜたピジン・イングリッシュが使われましたが、 日本ではむしろ外国人がピジン・ジャパニーズを使った。

  日本人が英語を日本語風に発音したように、外国人は日本語を英語風に発音して覚えた。 面白い表現がありますが、日本語をよく知っている者でないと、その面白味を味わえない、 とチェンバレンも言っています。

 例えば「おまえ」をOh my、「色」をウナギのEeloh、「仕立て屋」をStarthereと英語に当てはめています。「お寺」はOh terror恐ろしいといういい方です。それから「芝居屋」はShebuyer、「悪い」をWorry、「長い」はNang eyeと、日本語の発音を英語で表している。
 

  『横浜方言集』の著者はアトキンソン

小玉  最近、『横浜方言集』をもう一度、調べ直したのです。 改訂増補版を出したのはビショップ(僧正)・オブ・ホモコと書いてありますが、 ウェンクステルンの『大日本書史』二巻(明治四十年刊)には、アトキンソンが書いたと。 その根拠は、チェンバレンの『日本事物誌』に著者はアトキンソンと書いてあるとあります。

  私も『日本事物誌』を初版(一八九○年刊)から第六版まで見たら、初版では、 ビショップ・オブ・ホモコが著者であると。ところが、翌年の再版ではもう訂正してアトキンソンとなっています。 このホフマン・アトキンソンがどういう人だったかわからなかったんです。 最近、一八七九年(改訂増補版が出た年)の『ジャパン・ガゼット』紙に『横浜方言集』の記事があるのを見つけ、 そこに、著者はアトキンソンであると書いてありました。

  アトキンソンは日本に数年いて、スミス・ベーカー商会に勤めていたことは、居留地の住所録にも、 重久篤太郎氏の『日本近世英学史』にも、すでに出ています。日本を去った後は、 ペテルベルグのアメリカ公使館の書記官になったと記事に出ていました。 もう一つ、最近知ったことは、F・V・ディケンズが日本の文学作品をいくつか訳していますが、 その中に『忠臣蔵』があり、横浜で出た初版にアトキンソンが序文を書いていることです。

  『横浜方言集』はパンフレットですが、これをまとめるだけでも大変だったと思います。 とても面白いんですが、言葉としては、あまり上等ではないですね。



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