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有鄰


平成11年6月10日  第379号  P3

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 ペリー来航と英学事始め (1) (2) (3)
P4 ○ゲーテの心  小塩節
P5 ○人と作品  上野正彦と『毒殺』        藤田昌司

 座談会

ペリー来航と英学事始め (3)




 

  耳から入った英語をそのまま覚えたピジン・イングリッシュ

小玉 日本人のものでは、片言まじりの英語が車屋英語とか、チャブ屋言葉などと呼ばれた、耳から入ったピジン・イングリッシュで、異人屋敷に出入りする人たちが話すにはよかったんでしょう。

元治元年(一八六四)の『横浜みやげ』という小冊子の巻末に記された異国言葉と、明治初年の『外国商通異国言葉付』の語彙が『横浜市史稿』風俗編(昭和七年刊)に転載されているので、よく知られています。

 例えば、「うすけ」がウィスキー、「さしづ」がソーセージ、「コン四郎」がコンスル(領事)といったりしています。

編集部 義松の絵は、ワーグマンに習って、それで大体完成してしまって、パリでボナに習ったからといって余り変わっていないですね。

 

  自国語を踏まえて外国語を覚える

川澄 自国語を踏まえて外国語を覚えているんですね。例えばオハヨーは、朝から晩まで使うんですが、アメリカ人の発音はオハイオ州の「オハイオ」なんです。あるアメリカ人が日本に来て、オハヨーは「オハイオ」だということを教わった。ところが、それを忘れてしまって、あくる日、「ニューヨーク」といったと。(笑)まず、マクドナルドが北海道にきて、日本語を覚え始めますが、やはり英語を踏まえて覚える。例えば、アイヌ人はアイ・ノウズ、「ごちそう」はグット・ソウ、酒はグロッグ・イエスという。どうしてグロッグ・イエスかというと、彼より一か月ほど前に来たラゴダ号の鯨捕りたちが、酒を出され、「グロッグ(酒)か?ああ、飲むよ」、グロッグ・イエスだと。それで、日本の酒はグロッグ・イエスということになった。酒といえば、ぶどう酒について下岡蓮杖や久里浜の応接所で手伝いをした人の回顧談が残っています。ギヤマンのコップに赤黒い水を出され、みんなが真っ青になった。「メリケン人は人間の血を染物に使うだけでなく飲んだりもするのか」と思ったんです。逆にアメリカ人は、日本人のお歯黒とか公衆浴場、混浴に非常に不快感を持ちます。

 

  「聞く、話す」は表音文字、「読み、書き」は中国人との漢字が媒介

加藤 言葉の話ですが、欧米人は自国の言葉に引き合わせて二十六掛ける二の表音文字で書いている。日本人も日本語にかこつけて、「カム・ヒヤ」と犬を呼んだのを聞いて、洋犬のことをカメといったり、それも片仮名か平仮名か、表音文字で表記した。

つまり、四つの技法、「読み、書き、聞く、話す」のうちの「聞く、話す」を表音文字でお互いにしあった。

それに対して、居留地の人口の約三分の二は中国人ですから、日本人は彼らとは筆談でいくらでも交渉ができた。中国人の漢字と日本人の漢字がつながる。つまり四技法が二つに分かれて、文字の「書く、読む」という形で交流した部分と、口頭の「聞く、話す」の交流になる。

中国人はほとんど技術者です。床屋、料理人、大工、仕立て屋。こういう高等技術者しか入れなかった。それから鑑定人。貨幣の鑑定や生糸の鑑定、なかでも、大変な取引では、欧米人は中国人を連れてきて、日本人と筆談を通じて契約する。

新しい外国語を習得するとき、既知の言葉が媒介になる。ポルトガル人が初めて種子島に来たときは、中国人との筆談を媒介にして通じた。もう少し後には、ポルトガル語を通じてオランダ語を学び、ついでオランダ語を媒介にして英語を習得する。その間に中国語が大変長い間、媒介言語として存在していた。

つまり、初めて会ったときに仲人役をする何かがある。それはもちろん言葉であると同時に、それを体現している人間がいて、そのときに「読み、書き」という沈黙の世界と、耳と口という、もっぱらしゃべる世界がある。それは今でもずっとつながっているような感じがします。

 

  ペリー来航の功績は日本人が英語を学べるようになったこと

川澄 幕末から明治初年の横浜の貿易量は、全国の九○%以上だといわれています。それを横浜言葉と、それに中国語を加えたものでやったわけですから、大変です。そういう意味で『横浜方言集』というのは意味があると思うんです。普通の会話に使ったのではなくて、主として貿易用語ですね。

小玉 ですから、横浜言葉というより、むしろ港言葉じゃないかという方がいます。長崎とか、神戸も共通じゃないかということで。
川澄 ペリー来航で一つ大切なことは、日本の庶民が英語を学んでも非難されなくなったということです。

江戸時代には、実際に庶民が英語を覚えたら、「ねぢけびと」といわれた。これは、ご政道を批判しかねない悪いやつだということです。ところが、ペリーが来てからは、庶民が英語を学んでも罰せられないような風潮になったんですね。


福沢と万次郎が『ウエブストル』を初めて輸入

川澄 万延元年(一八六〇)に咸臨丸がアメリカへ渡ります。そこで『ウエブストル』の字引が問題になりますね。

小玉 あれを初めて持って帰ったのが福沢諭吉とジョン万次郎ですか。

川澄 福沢は通弁の中浜万次郎と一緒に買ってきたというんですが、実は万次郎に教わって買ってきたといったほうが正しいかも知れません。これが日本への『ウエブストル』輸入の第一号といいますが、安政二年にペリーが『ウエブストル』の字引を持ってきて、名村五八郎というオランダ通詞に与えている。名村五八郎はそれでcomplaint(訴訟)という単語を引いている。

福沢が咸臨丸で行ったときに、一番大切なのは"ワシントンの子孫"だと思うんです。というのは、福沢は咸臨丸の中で万次郎にいろいろアメリカ事情を教わるのですが、信じられないことばかり。それをサンフランシスコで実験する。アメリカ人に、ワシントンの子孫はどうなっているかと聞くと、誰も知らないという返事がかえってくる。これには驚いたというんです。

ヨーロッパに行ったときも同じような経験をします。パリで福沢が書店に立ち寄ると「書林の主人」の兄弟がフランスの国務大臣だというんですね。日本では士農工商の最下級に属する人と、士のトップに立つ国務大臣とが兄弟というのは、とても信じられないというんです。

『ウエブストル』の字引とワシントンの子孫の話、これが、福沢がアメリカから持ち帰ってきた大きな土産だと思いますね。

篠崎 階級社会じゃないことを、知ったことですね。

 

福沢は咸臨丸の中で『西洋事情』を書く目を開かれた

川澄 ペリー艦隊が出航して、福沢諭吉に「親の敵」ともいえる門閥制度の厳しい中津(大分県)を飛び出す機会がやってきます。蘭書を読んで、西洋の砲術を学ぼうというのです。福沢は、長崎、大坂と蘭学を学んで、江戸に出てくる。最初は蘭学に生きがいを感じていたけれど、蘭学に裏切られて、英学に転換する。そのときに、マクドナルドに英語を学んだオランダ通詞の森山栄之助が出てくる。

小玉 そうですね。英語の先生を探さなければというので、いろいろ聞いた結果、江戸に森山という人がいる。ところが森山は大変忙しくて、朝に晩に訪ねたけど、なかなか教えてもらえなかった。それで、横浜で買ってきた蘭英会話書を一緒に勉強する人を探そうということになった。神田孝平や大村益次郎(村田蔵六)に断られ、原田敬策(一道)を見つけて、一緒に勉強するわけです。

川澄 福沢にしても、森山のところに行って、会話ではなく、読み方を習っているんです。発音は万次郎から習う。福沢が蘭学塾を開いていた中津藩中屋敷の隣に江川太郎左衛門の屋敷があって、万次郎は、そこに江川の手付として住んでいた。万次郎が大変な人物であることがわかり、それで咸臨丸の中で万次郎からいろいろ教わる。

ですから、僕は、咸臨丸は「万次郎教室」といっているんです。心ある人は万次郎からアメリカの事情を習う。当時、アメリカについて知っている人は漂流民しかいませんから。福沢は賢明だったと思います。

咸臨丸の中で、福沢は万次郎によって『西洋事情』を書く目を開かれる。つまり、咸臨丸の中で、万次郎のアメリカが福沢に伝えられ、福沢を通じて日本は文明開化していくのです。


横浜に「留学」した幕臣たち

篠崎 中国語を媒介として日本語と英語が結びついたというお話もありましたが、蘭学から英学へという時代の流れのなかで、横浜に直接、英語を学びに来る人たちもいたし、またアメリカ人宣教師たちの活動もありましたね。

小玉 福沢諭吉は横浜に来たのがきっかけで、英語の勉強を始めたわけです。

そのほかに益田孝とか高橋是清とか、井深梶之助といった人たちが横浜に英語を学びに来た。留学という言葉も使っていたようです。彼らはみんな幕臣ですね。

益田孝はヘボンにも習っているし、横浜鎖港の談判の使節に随行してヨーロッパにも行っています。横浜で通訳をしたり、外国商館に勤めていたこともある。その後、三井物産の初代社長になります。

篠崎 イギリスの兵隊にも習ったそうですね。

小玉 イギリスの海軍は当時、赤隊と呼ばれていたのですが、山手に駐屯している赤隊に、教えてくれといっても聞いてくれないから、その近くに住んで毎日見に行き、話をしたということも書いてあります。

川澄 福沢だって、江戸に英語を教える所がないといいますが、横浜まで来ればいいんです。

ところが幕府の制約が厳しくて、幕臣は横浜には来られなかったと。高橋是清は仙台藩から派遣されて来た。ですから、派遣されるか、フリーな人は横浜で勉強できた。

小玉 そうですね。高橋は数え年十二歳のときに横浜へ来て、初めは横浜にいた通訳の太田源三郎の所からヘボン塾に通った。その後、働きながら実用的な英語の勉強をしたといっています。

それから井深梶之助は、会津藩士ですが、初め、江戸に出てきて、江戸の学校で勉強しようと思ったところ、それが閉鎖されてしまったので、横浜にきて、働きながら修文館に入り、S・R・ブラウンに習った。それが井深の生涯を大きく変えて、後に明治学院の総理になった。

 

ブラウンは聖書を使って文法を説明

川澄 彼らは、どんな教科書を使って、何を習ったんでしょうね。

小玉 ブラウンはよく聖書を使って文法を説明した、と書いていますね。

川澄 人によって違うと思うんですが、村田蔵六みたいに幕府から派遣されてきた人には、派遣する側の目的もあるんじゃないですか。

小玉 ヘボンは、幾何と化学を教えるように依頼されましたが、彼らの学力の高さに驚き、しばらく英語だけを教えることにしました。

加藤 漢学は割と中身の精神みたいなものと、道具としての言葉、この両面がかなり均衡していますが、蘭学になると、自然科学、医学、新約聖書からと、つまり、対象が多様になって、人々に合った形で言葉を道具化してくる。いわゆる先進文化と思っていたものの中身を習得する、その道具として残った。そうすると、英学はその意味では、道具化がもっと意識的におこなわれたものでしょうか。私は昔から気になっていましてね。

 

英学最初は異国人追い払うため

川澄 江戸時代の蘭学は、幕府の封建体制を維持するために必要な理科系の医学、天文学、後には兵学だった。

渡辺崋山みたいに異端の徒は、本当は異端じゃないけれど、西洋の社会制度に関心を持つようになる。すると罰せられる。

英学の場合も、幕府の役人がどういう目的で勉強したかというと、日本に開国を迫ってくる異国人を追い払うためなんです。英語でコミュニケーションをするためじゃなくて、ディスコミュニケーションのために英語を勉強しているんです。

小玉 でも、どちらにしても西洋文明を吸収しようということだったんでしょうね。

篠崎 どうもありがとうございました。





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