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有鄰


平成11年6月10日  第379号  P4

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 ペリー来航と英学事始め (1) (2) (3)
P4 ○ゲーテの心  小塩節
P5 ○人と作品  上野正彦と『毒殺』        藤田昌司



ゲーテの心
──生誕250年に──
小塩節





『若きウェルテルの悩み』に心を奪われた少年の日

 個人的な小さな思い出話で恐縮だが、小学六年生のある秋の日に、いまでもよく覚えている、 歴史学の有名な石原謙という先生がまだほんの子どもの私にこうおっしゃった。

  「君、もうすぐ中学生だね中学に入ったらゲーテの『若きウェルテルの悩み』を読みたまえ。 そのときは涙をぬぐうためのハンカチを用意しておくことだ」。

  中学二年生になり、戦時下のことで軍需工場へ勤労動員があって出かけることになり、 教室での勉強がなくなった。そのときにふと石原謙博士のことばを思い出し、 岩波文庫でおすすめの作品を読んだ。ちっとも涙が出てこないので、自分の鈍感さにがっかりしたものである。

  しかしやがて戦争が終り、 旧制の松本高校に四修で(つまり五年制の旧制中学の四年を終ったところで)入学すると、 ドイツ語の初歩を学び始めて三か月目に、『若きウェルテルの悩み』の原典訳読が始まった。 乙女ロッテの描写もみずみずしいが、白樺やブナの緑が萠える春に恋の花が咲き、 木の葉が散って暗い冬が近づくころには悲劇的な終りを迎える。 その自然描写と構成のみごとさに少年の私は心を奪われた。

  北杜夫さんや辻邦生さんたち先輩に促されて、ゲーテやリルケの詩をドイツ語で読むようになった。 とくにゲーテの詩の明るさには驚いた。

  ゲーテは、ドイツが生んだもっともスケールの大きい、明るく明朗な詩人だった。 今年一九九九年に生誕二五〇年が世界のいろいろなところで記念され祝われているゲーテは、 生来の詩人だった。

  その作品には、モーツァルトが作曲した「すみれ」、 シューベルトが曲をつけた「魔王」や「野ばら」(これは約百人もの音楽家による作曲がある)、 「君よ知るや南の国」など、世界中でいまも愛読愛誦されているものが数多くある。

公国ワイマルの内閣に連なって首班となる

 ヨーハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは、一七四九年、 ドイツ中部の金融都市フランクフルトで、豊かな都市市民の家に生まれ、幸わせな幼少年時代と、 自由で活動的な青年時代を送った。

  母方の祖父は同市の市長だった。 二十五歳のときの書簡体恋愛小説『若きウェルテルの悩み』でヨーロッパの域を超え、 世界的な作家として知られるようになる。

  二十六歳のとき、ドイツの緑の心臓といわれるテューリンゲン大森林の東にある小さな公国ワイマルに、 君公の相談役として招かれ、請われてたちまち行政官となり、政務をゆだねられ、 閣僚が四人しかいない内閣に連なって首班となる。危機的な国家財政のたて直しや道路・河川工事、 鉱山開発、大学の管理運営など実に多くの実務を果たした。

自然への「畏敬」「愛」を訴えてやまなかった自然科学者

 文学の領域では小説に多くの名作をのこし、エッセイ、評伝、紀行文学、自伝文学、 戯曲とくに悲劇『ファウスト』の作者だったが、それだけではない。 社会、政治の世界の有能な実務家であり、 幅広い自然科学者としては自然への畏敬をとうとしとする非常に進歩的で手がたい学徒であって、 種々の科学史上不朽の功績をのこし、画もよくした。 あらゆる分野に多彩な才能を発揮し、 ミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチと同じような普遍的知性と行動の人だった。

  三十年戦争の荒廃からようやく立ちなおってきたとはいうものの、 当時はイギリスやフランスの十分の一の経済力しかなかった貧しいドイツ。 それでいながらゲーテが畏友シラーたちとともに小都市ワイマルをヨーロッパ文化の一大中心地たらしめたのは、 歴史上の偉観といっていい。

  くり返しになるけれども、自ら科学者であって、 それでいて近代的自然科学が進歩すればするほど自然破壊や公害をひきおこすことを予見し、 大きな関連としての自然への「畏敬」、「愛」を訴えてやまなかった。ヨーロッパでいまなぜゲーテなのか。 その理由の大半はここにある。

美しい魂の持ち主である女性たちを愛しまた愛された

 そして彼は多くの美しい魂の持ち主である女性たちを愛し、また愛された。 ただし漁色家ではなかった。そうであったら(カザノヴァのようだったら)、 かくも数多くの美しい愛の詩は生まれなかったことだろう。たとえば、 二十一歳の学生時代に作った「野ばら」三節の詩の、第一節だけをとり出してみよう。

野辺に咲く
赤いばら
朝日のような美しさ
 少年は見るなり駆けよってうっとり眺めておりました。

赤い野ばら
野辺に咲く
ばら
 ──少年は、結局このばらをむごくも折ってしまう。

   ばらは防いで刺したけれども、嘆きも叫びも無駄だった。 やっぱり、ばらは折られてしまった。

赤いばら
野辺に咲く ああ赤いばら
というリフレインで終る。何気ない、ごく自然な詩だ。すなおなイメージ、明るいことばづかい、 明確明快な韻律で多くの人に愛されてきている。弾むようなひびきが美しい。 朗読しているとこの自分が作品中の少年になって駆けだしていき、 日本の白い野ばらとちがって高さ一メートルほどにもなる大きな株の、 大輪の真紅の花の前に立つような思いになる。 清純な乙女そのものの花は、「痛い!」と嘆くのに折られてしまう。 大空にばら=少女の嘆声が聞こえ、生と死のドラマが一気に展開する。

自己に対しても距離を置いているロマン派の詩人たち

 ところが、ゲーテのほんの少しあとのロマン派の詩人たちとなると、 もうこのように素直で自然そのもののような詩をつくることはできない。 たとえばハイネ。彼には「花かそも汝」(君は花のようだ)という、有名な短詩がある。 なんて美しくてやさしくて清らかなことだろう。 君を見つめると心に憂いの思いがしのびこむ。 君の頭の上に手を置き、神さまが君をいつまでもいまのまま清らかに、やさしく、 美しく守って下さるようにと、祈らずにはいられないような、そんな気がしてくるのだ・・、そう歌っている。

  結局のところ、ハイネの世界では少女に近よって頭に手を置くことも、祈ることすらも、実はしない。 対象に距離をおいて、「そんな気がしてくるのだ」と歌うばかり。これがロマン派の本音である。 相手ばかりではない。自己自身に対しても距離を置き、自分で責任を負う実際の行動には出ない。 ゲーテの率直さとは正反対である。

小さな一篇にも全世界が映っているゲーテの詩

 ゲーテはけっして盲目的行動派でも、生命主義者であったわけでもない。 しかし、対象に向かっては、大自然に対しても人間に対しても、 真正面からとびこんでいく素直さと明るさがある。 八十二年七か月の生涯を通じて、彼の魂のありようはついに変らなかった。 つまり彼は根っからの、みずみずしくものびやかな詩人だった。 人びとに人生への朗らかさを贈る芸術家だった。 彼の作品に触れると、人生は生きるに値するものだと実感させられる。 すばらしいことだ。

  彼の詩は、どんな小さな一篇にも、草の葉先の露の玉のように、森も山も野も谷も、木も人も、 全世界が映っている。 そう、詩人の手が掬うと、水は水晶の玉となる。 その作品は声に出して朗読すると、いずれも美しいことばの音楽だ。 天成の詩人である。たとえてみれば音楽の分野でのモーツァルトと実によく似ている。

今年のヨーロッパ文化都市はゲーテの町ワイマル

 そんな詩人の彼が、一生のあいだ毎日の外出には鉱山用のハンマーを持って出て山野の岩石を採集し、 鉱物学研究を進め、鉱山開発を行っていたと知ると、 その多面的でしかも人間性豊かなありように驚かされる。 いまEU統合を成功させ、彼の生地フランクフルトにEU中央銀行を置いて、 単一の共通通貨ユーロ・システムを開始したヨーロッパが、 今年一九九九年のヨーロッパ文化都市としてゲーテの町ワイマルを選んで、 さまざまな祝典を行っているのは、 全ヨーロッパがいま改めてゲーテの生涯と作品の意味を見なおしているからである。

「もっと光を」の一語をのこして八十二歳の生涯を閉じる

そのゲーテ。晩年は妻にもひとりむすこにも、君公カール・アウグストや親友シラーにも早く先立たれ、 深い孤独と寂寥のうちにあったはずなのに、詩作に老いの痕跡はまったくない。 最後まで内面と世界との光を求め、光を信じ、 朗々たる詩をいくつもつくり続けて生産的な長寿の生涯をまっとうした。

  1832年3月22日、早春の大気のまだ寒いワイマルの自宅で、八十二歳七か月のゲーテは、 「もっと光を」の一語をのこして世を去った。




おしお たかし
 1931年長崎県生まれ。
 フェリス女学院院長。ドイツ文学。
 著書『ゲーテ街道を行く』新潮社1,680円(5%税込)、『ライン河の文化史』講談社学術文庫798円(5%税込)、
『私のゲーテ』(新装版)青娥書房1,575円(5%税込) ほか多数。





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