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有鄰


平成11年7月10日  第380号  P2

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 現代読書事情 (1) (2) (3)
P4 ○横浜・龍華寺で発見された天平の乾漆像  水野敬三郎
P5 ○人と作品  鈴木明と『新「南京大虐殺」のまぼろし』        藤田昌司

 座談会

現代読書事情 (2)



内容だけでなく生活全体の美意識の中で本を見ている読者

篠崎 どうして日本では本がそれほど軽い存在になったんでしょう。

岸本 前は、それこそ応接間にジョニ黒と、百科事典があればというのがありましたよね。

長田 それが一番の問題。この間も、投書で読みましたが、百科事典がCD・ROM一枚になった。これはつくる側の傲慢だと。応接間に飾っておく百科事典の役が立たなくなったじゃないか。CD・ROM一枚後ろに飾って「どうだ、かっこいいか」と威張れるかって。

読者はそういう生活全体の美意識の中で本を見ているんだけど、業界は内容だけだと思っているんですね。本のある場所が、一番問題なんだろうと思う。今、生活の中でどこに本があるか。それは本屋さんにとっても同じで、本屋さんのある場所と、生活とがすごくずれていると思うんです。

一番の問題は、大学がどんどん郊外に出ていること。特に地方に行くと、はっきりわかりますね。例えば、金沢大学は、かつてはお城の中にあったけど、今は郊外に出てしまった。本屋さんも一緒に郊外に出たかというと、違う。学生は週末しか金沢の市街には出てこないから、町の本屋に学生がいないのは当たり前ですね。だから学生が本を読まないというのは気の毒だというのが僕の意見です。

アメリカ、ヨーロッパでも生活の中でどう取り組むか、日本よりずっと本屋さん自体も努力してきた。

一番いい例は、老眼鏡のことを英語ではリーディング・グラス(読書鏡)と言うことではないでしょうか。読書のメガネなんです。それを日本では老眼鏡と言うわけです。

違うのは、読むためのものですから、クリントンでもバーシェフスキでも、日本で言う老眼鏡をかけて、みんな原稿を読みますが、日本ではほとんどいない。やっぱり「読書」と「老人」という差だけでも、随分違うと思う。

今、本が生活の中でどこかに消えているんじゃないか。あるいは、かっこよくないという理由によって、隠れているんじゃないかと思う。
 

  かつて本屋さんは今のコンビニのような存在だった

岸本 わたしは八○年から八四年が学生時代だったんですが、そのころはまだ、そこまで本にとってかわる、かっこいい何かというものはなかったような気がします。

長田 うんと簡単に言わせてもらえば、ワンルームマンションがかっこいいマンションとして登場してきたころじゃないかと思うんです。ワンルームマンションには本箱の位置がないんです。それまでは下宿でも何でもあったんですよ。

岸本
岸本葉子さん
岸本葉子さん
確かに収納というのが、繰り返し雑誌のテーマになるように、本当に単純な意味での"場所"が、なかなかないだろうなと思いますね。

 
杉本 ワンルームマンションでも、本はどこかにこっそり入れるしかないし、都会ではマンション、団地暮らしの形態が非常に多くなって、本箱とか書斎とか、われわれが子どものころ非常に多かった応接間にガラス扉つきの本棚がある家が今、ない。

さっき家具としての本箱という話が出ましたが、本という物理的なものが近くにあって、読んではいないけれど、本棚にずらっと並んでいる。その存在は我々にとって非常に重要だったと思う。

それから、近所の商店街に小さな本屋さんがあって、日ごろ前を通って、ちょっと寄ってみる。そういう場として本屋がある。

岸本 今のコンビニに寄る感覚ですね。ふらっと寄って、ちょっと時間つぶしとか。

長田 だから、本当の意味で、本屋さんはずっとコンビニだった。帰りに必ず、みんなが寄る場所だった。うちの近所で遅くまであけているのは、今でもコンビニと本屋さんだけです。


かっこよさと結びつけば本の復権はある

杉本 本の存在と、我々との距離やかかわり方は非常に面白いと思う。私は人の研究室に行くと本棚を見るし、自分の研究室に来た人も必ず本棚を見る。しかも、私は"積読"というか、とにかく本棚に入れてあるだけの本が非常に多い。そういうのが自分と本とのつき合いの中で、非常に大事だと思うんですが、そういう部分が、本の中身の議論の中では全部落ちる。そういうところも含めて、本とのかかわり方を考えなくてはと思います。

岸本 うちは狭い家だったので、押し入れはふすまを外して、上と下におもちゃとか本が一緒くたに入っていた。そうすると、ハイハイしてかじったり。だから本の端がかみ跡とか、よだれでぐちゃぐちゃになって。家具と同じような感じで本があった。

杉本 子どもと本の最初の出会いは絵本じゃなく、その前にかじるもの、破るものとして出発している。

長田 そういう近さがやっぱり今はない。生活の中に本がなくなっている。

 

  マーク・トウェインの初版本は全部持っているというかっこよさ

長田 だから、そういう本のあり方が変わってきた。マンションの生活が加わってきてから、マンションの設計に本棚の位置がないんです。

一億円以上のマンションだろうと、一千万円の古いマンションだろうと、本箱の数はせいぜい二本。二本の中に入る本を計算すると、一生でそこにしか入らない本を買うと思うと、とても本屋さんをやる気になれないほど、本は入らない。いくら大きいマンションでも本棚は壁面がないとだめです。ところが、床面は二十何畳と広くしても壁面はわずかです。アメリカやヨーロッパの金持ちの自慢の一つは書籍のコレクションです。ところが、日本の金持ちは全然といっていいほど書籍のコレクションはない。

僕はそういうお金持ちの家に連れて行かれて、驚いたことがあるんです。トイレに行ったら、シャガールの絵がかかっているんです。その人は何の本も持っていないんだけど、マーク・トウェインの初版本は全部持っている。これはすごい。つまり、そういうものが、かっこいいんです。

僕はそのときから、かっこいいと結びつけば、結構いろんな本でもみんな楽しむんじゃないかなと思いました。

岸本 古本市場でも、例えば何とかの漫画の初版本とかをすごく高く買ったり、ナイキのシューズじゃないけど、レアものとしてのかっこよさがあれば、高値で取引されるんです。

長田 それが特にビジュアルな時代になってくると、かっこいいかどうかは非常に大きな問題になってくるので、そこに本がうまく対応し切れなくなっているんじゃないかと思うんです。

篠崎 「本はかっこいい」を復権させるには、本にたいするかかわりかた、例えば、積読や蔵書の質まで広げて考える必要がありそうですね。

 

  「太陽がいっぱい」でアラン・ドロンは浜辺で本を読んでいた

長田 例えば岸本さんの本で、楽しく読んでいるなというのがかっこいいと思えば、みんな読むようになると思います。ちょうど、たばこはおいしいですよと言ってもだめで、ジェームス・ディーンがくわえて、かっこいいなと思うとたばこを吸うわけです。「太陽がいっぱい」のときのアラン・ドロンは、浜辺でちゃんと本を読んでいたんですよ。

岸本 釣りでも、ひと頃まではおじさんのスポーツだったのに、木村拓哉が糸井重里とブラックバスを釣るのが好きだと言ったら、CMでも、やたら釣りざおを持って出てきたり。早いのは、木村拓哉に本を読ませる。

長田 日本でも『モモ』のときに、小泉今日子が面白いと言ったことが一つのきっかけになりましたね。

篠崎 タレントの活用も大切ですね。

 

  オプラがテレビ番組で取り上げる本は大ベストセラーに

長田
長田弘氏
長田弘氏
それはアメリカの場合一番有名で、テレビでオプラ・ウィンフリーという人気ナンバーワンの黒人の女性司会者が、再放送しかやらない午後四時という時間帯にトーク番組をつくり、その最後の五分間に本を取り上げるコーナーをつくった。著者が出てきてしゃべるんです。

今、アメリカの本屋にはオプラズ・チョイスというコーナーがあるんです。そこで取り上げると、次の日に六十万部増刷になる。初版が二十五万部の本が、次の日に百二十万部増刷になる。これは本当なんです。

公民権運動から今まで時間がたって、大学卒が圧倒的にふえているのは黒人女性だった、ということに出版界は気がつかなかった。それでオプラ・ウィンフリーが出て、一番有名なのは、テリー・マクミランの『ため息つかせて』をそこで取り上げたら大ヒットし、映画にもなった。ホィットニー・ヒューストンがその役をやったんです。それでみんな本を読んだ。テリー・マクミランという黒人の人気作家も出てきた。

それから、トニ・モリスンがノーベル賞をもらうということで、テレビ側で本を読むのはかっっこいいんですよと言った。たったの五分、毎日毎日。五年くらい続いた。残念ながら、あまりに影響力が強いので、今年でもうやめるそうです。

篠崎 まさに盲点を突いた企画ですね。

長田 オプラは四十歳過ぎで、収入ナンバー・ワンです。「私、ここが好きなの」と言って、好きなところをかっこよく読む。彼女が「面白い」と言ったらみんなが読む。結局、基本的にはそれをかっこいいと。黒人女性たちという新しい読者層の開拓もある。


生活の中に本がある工夫をしないと子どもは本を読まない

長田 大人が本を読まないから、読まなくてやっていけるんだとみんな思っている。大人が本を読めば読むようになる。ただ、実際には大人が本を読んでいない。

北杜夫さんが書いていますが、斎藤茂吉は怖いおやじで、いつも勉強していたように見えたけど、実は本を広げて、引き出しからチョコレートやチーズを出して食べていたにすぎなかった。しかし、そのときに本を読んでいるふりをするというのが印象に強く残っている。今は、本を読んでいるふりもしないですね。

篠崎 親が読書してるのを見たことないから、子どもも。

長田 ええ。それで本を読まないんじゃないか。実際に電車の中で見ていると、依然として本を読む人は圧倒的に多い。イヤホンで聞いている人と、大体半々ぐらい。でも自動車になったら、完全に本を読んでいる人はいない。

生活の中に本がある工夫をしないと、子どもも本を読まない状態が続くと思う。ライフスタイル全体の問題だと思うんですね。絵本なんか特に大きいでしょう。

篠崎 それにサイズがいろいろですから、書棚におさまりにくいですよね。

杉本 そうなんですよ。

長田 本がハードカバーになって、立てて本箱の中に片づけるようになって、日本は百年しかたっていない。その間何の工夫もない。それまでは絵草子で柔らかい表紙だから、みんな横にしてある。

これは世界的に見てもそうで、この百年、発明発達が全くなかったのは本箱だけだそうです。一九四○年代に一回限り、本屋さんの一番下の本棚がちょっと丸くなった。

 

  吉行淳之介や北杜夫の世代は蔵に本があった

長田 例えば吉行淳之介さん、北杜夫さんの世代ですと本を読んだ所は蔵なんです。蔵に本があるわけです。それが戦争があって、みかん箱になって、押し入れになって、納戸になって、そのうち何もなくなって。

篠崎 杉本先生のご家庭ではどんなぐあいですか。

杉本 私の本は、ほとんど大学に置いてあり、家には置く場所がほとんどない。スチールの書棚を二本並べたのを二重に置いています。子どもはまだ一歳なので、本はおもちゃと同列になっています。

篠崎 先生のご家庭では、お子さんを本になじませることを、具体的にお考えなのでしょうか。

杉本 あまり考えていませんね。ただ、子どもの本のコーナーを見て、絵本を買ってきたりはします。将来ちゃんと本を読むような子になってほしいとかいうような意識は全然ありません。子どもの本を見るのは楽しいので、自分が面白いかどうかで、つい買ってくる。

子どもはボール紙でできた子ども用の本などよりも、触ってほしくない大人の本のほうが好きですよ。本棚からバーッと一段まるごと出して散らかして得意ですね。今後、どういうふうに本と付き合ってくれるのか、わかりませんが。


電子文化の中で自己が崩壊すると暴力がうまれる原因にも

篠崎 杉本先生が訳された『本が死ぬところ暴力が生まれる』の中に書かれている、人間の本来性と、本とのかかわりについてお聞かせいただけますか。

杉本 バリー・サンダースはこの本を含めて三冊シリーズを書いています。一冊目は『ABC・民衆の知性のアルファベット化』。イリイチとの共著で、翻訳が岩波書店から出ています。二冊目がこの本で、三冊目は日本語に訳されていない。その三冊の本を書いた動機を彼に聞くと、今の若い人たちは、彼の世代と非常に違うと。何が違うんだろうというのが彼の出発点なんです。

彼自身は、中世の英語、言語、それから読書というものを研究するのが一番中心だった人です。そういう視点で中世の時代、印刷術が普及して本が広まってきた時代を研究してきた。主に西洋です。本や文字が生活の中になかった時代と、本が我々の生活の中に入ってきた時代の転換点、そこと似たような大きな変化が、今の電子メディアの時代だと。つまり、本が我々から疎遠になってきている。若者たちの中で起こっている、そういう大きな変化を細かく追求しようとしたのがこの三冊の本なんです。



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