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有鄰


平成11年8月10日  第381号  P3

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 占領下の横浜 (1) (2) (3)
P4 ○ちょっと変わったトンボたち  刈部治記
P5 ○人と作品  島村匠と『芳年冥府彷徨』        藤田昌司

 座談会

占領下の横浜 (3)


 

  日米がもっと直接対話をしていたら戦争は避けられた

バトラー 僕は、それで戦争が無意味だと思った。戦争になる前にアメリカがもっと日本と直接対話をしていたら戦争は避けられたと思った。それで、当時、アメリカで専門的に日本のことを知っている人がいなかったから、僕が海軍を出て、日本のことを勉強して両国が仲よくできるための仕事をやろうと思った。

斉藤 アイグルハートという宣教師が一九五○年に来日しますが、朝鮮戦争でマッカーサーが原爆を使用する考えがあるのを知って、原爆反対の署名運動を伊勢佐木町でやる。それでアメリカに送還になったんですが、講和条約発効後、再び横浜に来られた。

バトラー 朝鮮戦争のときは、軍人は絶対に戦争反対ということは言えなかった。言うと、一生牢屋の中です。ベトナム戦争から、軍人でも、反対が言えるようになった。

高木 太平洋戦争時代は。

バトラー あのときは誰も反対していなかった。日本を民主主義国家にするんだということで。

斉藤 朝鮮戦争当時、キャンプが一晩で空っぽになることがあった。その前の晩は、ガードマンもMPも見て見ぬふりをしている。日本の女性がたくさん来て、自分の好きなアメリカ兵と一晩中、泣き明かしている。そして一夜にしてアメリカ兵が消える。それを何回も見ましたね。戦死して帰還する者もいた。

 

  接収解除まで経済が歪められていた横浜

高木 ペリー来航で、まず横浜を舞台に歴史が始まる。戦後の第一歩は、まさに本牧沖のミズーリ号で始まる。それから朝鮮戦争になって、いろんな外需の拠点が横浜で始まる。節目節目に横浜が重要なポイントを占めてきましたが、横浜は日本の戦後再建でどういう歴史的意味を担っていたのでしょうか。

寺崎 確かに横浜は、第一の開国、第二の開国という形で、非常に大きな意味を占めていたし、それをきっかけに変化していった。特にペリー来航以降は、アメリカ・ヨーロッパ文化の交流の場所で、貿易を中心にして、横浜の発展に大きく関与してきた。

第二の開国も、ミズーリ号で降伏文書の調印が行われた後、横浜自体が接収された。横浜港は、当初は、港湾施設の九○%以上が接収され、もっぱら軍用港だったから民間貿易は非常に制限された。

ところが、朝鮮戦争を契機に、軍需物資の供給基地として潤っていく。京浜工業地帯は震災以降つくられていくので、その発展にとって横浜港は当然大きかったんですが、戦後、接収が解除されるまでは経済的発展は歪められていた。特に京浜運河とか、東京湾の問題とかもあります。

 

  戦争中を上回る生産能力を持っていた京浜工業地帯

斉藤 ただ、震災後の再建過程で、貿易中心ではなく、製造業にどう目を向けていくかと考えていた。それで鶴見に火力発電所をつくり、鶴見工業地帯を建設して川崎と結びつける。原富太郎(三渓)らもどんどん投資をしている。

そういう意味では、アメリカの占領という第二の開国が横浜・神奈川県にとって意味を持ったのは、占領されたことによって朝鮮戦争時、特需受注があったことです。

例えば、京浜工業地帯は空襲されていないので、石油精製施設をフルに活用した。占領軍のジョスコ(JapanOilStorageCo.)という組織は野澤屋に事務所があって、占領軍が日本国内で使うガソリン、石油を全部握っていたんですが、ここの石油精製は全部京浜工業地帯です。

バトラー 不思議に思うんですが、こんなにアメリカ軍が爆撃して何も残っていないはずなのに、五年後には日本の工場は、みんな朝鮮戦争のために動いていたんですね。

斉藤 一九四七年(昭和二十二)七月に発表された第一回の経済白書などを見るとわかりますが、すでに戦争中を上回る生産設備能力を持っていた。その中心が京浜工業地帯で、石油、アルミ、工作機械、電気関係などは戦前を上回っている。ところが綿布とか食料品はみんなだめ。それらの工場は住宅地に混在する町工場なんです。つまり都市爆撃でしたから、やられた。

 

  朝鮮戦争当時神奈川県内の基地労働者は七万人

斉藤 だから、基本的には京浜工業地帯の生産設備能力は崩れていません。爆撃調査団の映像に、一九四六年(昭和二十一)二月十九日に天皇が神奈川県内を巡幸したときのものがあるんです。それを見ると、神奈川区宝町の日産重工業は一部接収されていますから、建物はある程度残っている。それに、建物の上側は焼けても生産はできるわけです。昭和電工も肥料とアルミの生産は戦前を上回っている。アルミは戦前の最高時の七倍ぐらいです。

高木 横浜の戦後復興について、朝鮮特需影響は非常に大きかったんでしょう。
斉藤 朝鮮特需以前に、今言ったような米軍特需が大事です。例えば日本鋼管が仕事を続けられたのは、米軍用のパイプをつくっていた。東芝は電球全部を納入している。

バトラー 工場だけではなく、横須賀の基地で働いていたのは、ほとんどが日本人。

斉藤 神奈川県内の米軍基地で働いている日本人は平均して四、五万人。朝鮮戦争時には七万人にもなった。当時の神奈川県の人口は百五十万ぐらい。そこで七万人を養ってくれたのだから、決して貧しくはない。そういう意味では希望があった。それで朝鮮戦争で基地がフルに操業し出せば、現場労働者も増える。

バトラー 船の修理をやっているアメリカ人の友人の下に二十人ぐらいの日本人がいた。彼らは皆、戦争中、レーダーの技師とか、電気の専門家とかで、彼らがそれをやっていなかったら、アメリカの船の修理はできなかったと。


  

講和条約発効後も進まなかった接収解除

高木 朝鮮特需が戦後復興の大きな決め手になったということですが、そのほか忘れてならない要素は…。

斉藤 二つあります。まず、電話などは全部東京なんです。昭和三十年代、横浜は交換台を呼び出して東京につないでもらう。ダイヤルではつながらないんです。それから産業構造の変化に横浜財界が必ずしもついていけなかった。そして横浜をもとのように貿易で復興させようという気持ちが強かった。ところが、貿易会社はほとんど東京に移っているし、政治・経済の中心はやはり東京ですから。

高木 でも、貿易中心でやっていこうと考えると、戦後の港の再興は大きな意味があると思いますが。

斉藤 ありますが、私は、横浜は貿易だけで生きようというのは時代の流れに沿っていないと思う。朝鮮戦争前後に伸びてきた新しい形の製造業、コンピューターなども含めて、そういうもののほうが横浜が生き延びる上では意味があるんじゃないか。

 

  長期の接収のため復興が後れ「関内牧場」の異名

斉藤 それからもう一つ。都市計画をやろうとしても、横浜の中心部は、一九五五年(昭和三十)ぐらいまで接収されていたし、それから占領軍がブルドーザーでバーッと平地にして、地面の中の鉛管まで掘り出して境界がわからなくなった。

もっとひどいのは神奈川県も横浜市も、一九五二年四月の講和条約発効と同時に、占領中の記録を全部焼却した。つまり、損害賠償の要求を市や県にされたら困るから。

そういった意味では、接収解除されたときには、貿易業者は東京へ本社を移していたし、地権も複雑なうえに、永い間接収されていた地元資本には、これを買収して新しい施設をつくる余力などなかった。ですから関内のあちこちに空き地が残り、一九五五年のみなと祭りの新聞記事に、関内牧場で馬が草を食っていたなどと大きく載るんです。

高木 いつごろから接収が解除されたのですか。

斉藤 講和条約が発効された一九五二年(昭和二十七)四月ころまでに日本大通りなど市の中心部の解除は始まっていましたが、関内のビジネス・センターに限られていた。

篠崎 伊勢佐木町は遅かったんじゃないですか。有隣堂は表半分の解除が一九五二年九月、残り半分は一九五五年四月です。それでようやく五六年から伊勢佐木町で営業を始めたんです。

斉藤 野澤屋の二階以上と寿の解除が一九五三年。税関ビルもその年に解除され、米極東軍司令部は座間に移る。野澤屋が全部返還されたのは五五年。病院だった松屋も五五年。不二家はもっと遅くて五八年。横浜駅西口は五二年八月に返還されています。

それでいて、伊勢佐木町は地権が高かった。一九四七年(昭和二十二)六月で、横浜で一番高かったのは野毛と伊勢佐木町なんです。ポツン、ポツンとスーベニアが出ていたでしょう。スーベニアって一番もうかる。だから、地権だけ上がっていく。

山下公園は一九五四年(昭和二十九)六月に一部が解除、全部解除されたのは一番遅くて一九六〇年六月です。

バトラー それは安保条約に基づいてやったんですか。

斉藤 一九五一年(昭和二十六)に講和条約が調印され、同時に調印された安保条約に基づいて日米行政協定が五二年二月に調印されます。これは米軍の日本駐留に関して、施設・区域や経費分担などを取り決めたものです。これによって全国の四百四十九か所の基地、五十三工場が改めて米軍に提供された。その三分の一が神奈川県にあった。

 

  朝鮮戦争以降アメリカ軍との間に違和感が

斉藤 だから横浜市民の中で、アメリカ人に対する考え方が変わったのは二つあると思います。一つは朝鮮戦争。朝鮮戦争で来たアメリカ兵は質が低かった。

バトラー 僕がそうです。(笑)

斉藤 申し訳ありませんが例えば、たばこをワンカートン日本人に売る。ところが、そこにMPが待っていて、その日本人をすぐつかまえる。そういうことをグルでやっていた。それで、横浜市民とアメリカ軍との間にちょっと違和感ができてきた。横浜市民といっても、朝鮮戦争のときは、多くは全国から流れ込んできた人たちですから、反感は余計なんです。

もう一つは講和発効後のアメリカの人たちです。一九五五年(昭和三十)一月に横浜公園のフライヤージムで横浜市の教育委員会が県民少年団の集会を開催した。そこに、朝鮮人も北と南の両方、中国人も台湾、大陸の両方を呼んだ。そうしたらアメリカ領事が「共産圏は出ていけ」と言って追い出した。講和条約が発効して何年もたつのに、自分が日本の主人公のような言い方をしたことに対する反発はかなり根強い。

バトラー このころ、アメリカではまだマッカーシーによる反共運動の影響が残っていた。

斉藤 そうなんです。そういうマッカーシズムが日本にも持ち込まれた。それが日本人の中に大変残っている。

そしてそのころから、横浜の基地が中心部から周辺部に動き出す。横浜北部の岸根基地が接収されるのが五五年です。当時はわからなかったんですが、そのころ、限定核戦争のために、中心部の基地を周辺部に移動させる計画があったと、最近わかった。

 

  多文化が共存する二十一世紀の社会を実践してきた横浜

高木 二十一世紀に向けて横浜はこうあってほしいということを一言……。

寺崎 独特の横浜らしさがどうも今はないような。どんどん平均化してきている。二十世紀の横浜を振り返ることは、これから進むべき文化とは何なのかを考える、いい材料になるんじゃないか。

バトラー 今までペリーとかマッカーサーとか、地震とか、コントロールできない要因による変化があったけど、これからは、横浜の人たち自身が横浜の将来をつくっていってほしい。日本の将来の可能性は、横浜が中心になってやるべきだと思います。

斉藤 わたしのうちはもともと新潟で、日清戦争のとき一族郎党全部、横浜に来て、商売を始めた。そういう挙家離村型の人たちが大勢いるのが横浜なんです。しかも、横浜の都市施設は貧弱で、隣同士で力を合わせないと生きていけない。そういう新しい共同体をつくったのが横浜だと思うんです。

それが典型的に表れたのが戦時中の学童疎開です。横浜市民には疎開する田舎がないんです。それで、市内をはじめとして神奈川県内で賄わなければならなかった。

篠崎 だから、箱根とか湯河原に疎開したんですね。

斉藤 横浜の学童疎開にはそういう特徴があるんす。

寺崎 それともう一つ、外国人が多い。今、神奈川県の場合、およそ七十三人に一人が外国籍の方です。

斉藤 だから二十一世紀は多文化が共存する社会なんです。それを実践してきたのが横浜なんです。

 

  展覧会では日米両公文書館の映像記録などを上映

高木 今度の展覧会では、写真で二十世紀をたどるほかに、占領期の横浜を中心にした日米両公文書館の映像記録や写真の上映・展示、読売映画社制作の当時のニュース映画の上映や号外の展示などをおこないます。

それから、八月十四日、午後二時から横浜市教育文化ホールで「科学技術は人間を幸福にしたか」のテーマで、作家の日野啓三さん、考古学者の吉村作治さん、宇宙に行った秋山豊寛さん、物理学者の米沢富美子さんで、 公開座談会をおこないます。ご希望の方は読売新聞社20世紀企画室(千代田区大手町1−7−1)まで往復ハガキでお申込み下さい。大勢の方に来ていただきたいですね。

篠崎 きょうはありがとうございました。



 
Kenneth D. Butler
一九三〇年オレゴン州生まれ。
著書『黒船幻想』(共著)河出文庫591円(5%税込)。
 
さいとう ひでお
一九二九年横浜生まれ。
著書『占領の傷跡』(共著)有隣堂714円(5%税込) ほか。
 
てらさき ひろやす
一九五七年新潟県生まれ。
 
たかぎ きくろう
一九四一年三浦市生まれ。
著書『ニューヨーク事件簿』現代書館2,100円(5%税込) ほか。
 
※肩書きについては座談会当時のものです
 




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