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有鄰


平成11年10月10日  第383号  P2

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 源頼朝の実像 (1) (2) (3)
P4 ○岡本太郎と川崎  岡本敏子
P5 ○人と作品  別所真紀子と『雪はことしも』        藤田昌司

 座談会

源頼朝の実像 (2)



旗揚げ−京都と伊豆を結んでいた情報のルート

編集部 治承四年(一一八〇)に頼朝は伊豆で挙兵します。

山本 まず通常は、頼朝は清盛を討てという以仁王の令旨が到着したことによって蜂起したと。これについて五味さんは、もうちょっと早いんじゃないかと疑問をお書きでしたね。私も伊豆という場所柄、都の情勢がわかるし、少なくとも三年前の鹿ケ谷事件が起きた時点で、自分が次に蜂起することは考えていたと思う。この人は粘着質だから、ずっと考えていたかもしれない。頼朝は令旨の到着以前から準備していたと思いますが、文覚が頼朝の決断を促すため後白河の院宣を受けて伝えたという説もあります。

五味 私には、以仁王の令旨を受けて源頼政が挙兵したというのがよくわからない。以仁王は安徳が天皇の位について、みずからの可能性が失せたということがあるでしょうが、頼政にしてみれば出家しているんですね。どこからか情報がない限りはちょっと危ない旗揚げです。

けれども、またたく間に全国的な内乱になっていったことを考えると、ある種の情報は駆けめぐっていた可能性はなきにしもあらずでしょう。

ただ、いくら挙兵のタイミングをはかっても、失敗はつきものですから。

八幡 しかし、長期的な見通しがあったかどうかはわからないけれど、もし失敗した場合、次の手をどう打つかぐらいは考えていたと思う。例えば千葉氏とか三浦氏を頼れば何とかなるとか。

山本 その辺の一つのネットワークという感じでいうとやはり水上交通の問題はもう一回検討し直したほうがいいと思う。以仁王の宣旨をもって源行家が諸国を回るわけですが、行家を使ったのはなぜか。私はやはり熊野水軍や修験じゃないかと思う。

もう一つ、頼政と摂津の水軍渡辺党のつながりが強い。そうすると、海を使って情報ルートをつくる場合、あまり目立たずに、かなり広い範囲でできるんじゃないか。京都と伊豆を結ぶルートは以仁王に蜂起を勧めた頼政の一党が鍵を握っていたわけです。

 

  石橋山の合戦での敗北が教訓に

編集部 石橋山の合戦のときは、三浦氏と海上で一緒になって房総へ逃げた。それから、頼朝は上総や秩父などの武士団を従えて鎌倉に入る。あの辺で頼朝は変わったといわれましたね。

山本 はい。やはり負けて薬になったのが一番大きい。これはごく一般論ですけど。ただ、よくわからないのは、武士団の規模の違いの問題。武相あたりは全体に小さく、上総、北関東に行くと、かなり大きい武士団になる。逆にいうと、石橋山の合戦は、武相の武士団のある限界が出ているのかなと。ただ、そこまで短絡的に結びつけてもいいのかなという気もしている。

五味 武相といっても、秩父系は各地に散らばっているから、旗揚げの手はずがうまく整わなかったと考えます。何でも目先の一撃はいいんですが、その次の段階が、なかなか難しい。そこで教訓を得たのは当然だと思います。

それから、頼朝は基本的には進路に大路を選んでいる。これはある意味で頼朝の一つのよりどころで、ほかの武士団とはやはり性格が違う。それが上総介への対応などにあらわれていると思う。

 

  富士川の合戦後に京都を攻めなかったのは義仲との差

編集部 鎌倉に入って幕府を開いた時点については、いろいろ説がありますね。

五味 幕府をどういう性格にみなすかによって、さまざまに出てくる。

八幡 十二、三、説がありますね。

五味 その後の政策につながるようなものを出したということで、相模の国府で所領安堵をおこなった治承四年(一一八〇)が鎌倉幕府の成立の一つの画期になるかと思います。ただ、領域的にも非常に狭いから。

編集部 富士川の合戦で平維盛を破って、帰ってきたときですね。

五味 はい。関東にきちんと居座るぞという表明にもなっている。

編集部 頼朝自身は、富士川から京都を攻める気持ちもあったんですか。

山本 普通はそう書いてありますが、そこまで考えていたかなという気がする。というのは東国との連絡が絶たれたときに京都にいる源氏がいかに弱いか、平治の乱のときに多分感じていると思う。

だから、そのままの勢いで駆け上っていったら、後どうなるか。やがて木曾義仲が同じような羽目に陥るわけですが、あれをやったかやらないかで、頼朝と義仲の差があるんだと思う。
 

   頼朝を引き止めて軍議をおこなったのが幕府政治の原型

山本 そこを引きとめられてというふうに書いてありますが、私はその辺は、軍記の話は眉につばをつけている。

五味 ただ、宿老たちが、これからどういうふうにやっていくのか軍議をこらしている。それが幕府政治の原型になる。義仲の場合にはそういう存在がないから、とめる者もいないし、そう思ったら京都まで突進して行く。

そういう意味から、幕府的な体制といいますか、将軍がいて、軍議をこらして政治をどういうふうにやるか、それができてきたことで、かなり重要な分水嶺になった。

山本 根拠はないですが、他の要因があるとすれば、政子がとめたんじゃないか。政子は東国に対する執着が非常に強い。頼朝が死んで以後の行動様式を見ても、そう感じる。頼朝を引きとめられるのは宿老以上に政子だと思う。

五味 日本の政治勢力において、夫婦でもって、幕府なり、何かをつくったというのは最初でしょう。それ以後もない。頼朝という貴種と、東国武士団の象徴である政子とが結びついて鎌倉幕府はできた。偉いのは政子であって、頼朝は政子の夫にすぎないという説もある。


平清盛と違い、手本とする人間がいなかった頼朝

編集部 この後、頼朝は鎌倉を本拠に、『平家物語』にあるように、西国に攻め上らせますが、清盛と頼朝についてはどうでしょうか。

五味 やはり二人とも苦労人ですから、周囲に気を配ってやっている。これはもう、現代人が忘れているぐらいの気配りです。

清盛がいろんな形で成長していく過程には、なかなか難しい問題がありましたし、どんどん分派していく一門全体を統合していくための気配りは、やはり相当だと思うんです。

ただ、頼朝の場合は、一門統合の気配りみたいなものはないだろうと思うんです。それは、幼いころから一門の中に囲まれているのではなく、むしろ孤立していますから、気配りをするのはどこかというと、さまざまな武士団と京都です。あと、奥さんの政子ですね(笑)。奥さんへの気配りは武士団への気配りでもあります。これはやっぱりすごいですよ。

 

   一門の広がりがなく源氏の系統がつぶれる

編集部 五味先生は『平清盛』の中で清盛はある時代ごとに自分の手本とする人間がいたと書かれていますが、頼朝の場合は……。

五味 頼朝の場合は、清盛が一つの像になったと思うんですが、それ以外は、結局、手本とするものがないから、いろいろなものを使ってつくり上げていかなければいけない。その意味ではたいへんだった。

清盛の場合は、コピーみたいに繰り返していきながら、あるところまでいったら、壁にぶつかった。

頼朝は東国にいて、孤立しながらそういうものを築いたことで、新しい段階までいったと思う。

逆に言うと、もう少し構想力のある藤原信西みたいな統治の理念をもった人物がいたら、頼朝はもう一つ上の段階に行ったかもしれない。だから、幕府もあの程度。

山本 例えば清盛の場合によくいわれるのは、家盛、頼盛との対立。頼朝の場合にはせいぜい個人として範頼とか義経が出てきますが、ああいう格好では出てこない。この違いは大きいですよね。

五味 ただ、頼朝には横への広がりができません。武士団の勢力拡大は、どんどん横へ広がっていくことで成る。基本的には子供がたくさん産まれて、産めよふやせよというのが広がりです。しかしそうすると、今度は統合力がなくなってくるという問題もある。

ですから、一つのきちんとした権力を築いていくということになると、矛盾した存在でもある。頼朝はそういう意味での広がりが本当にない。義経の問題にしろ、範頼の問題にしろ、かなり厳しいものではあったと思う。

山本 頼朝が義経、範頼を切ったような選択を、清盛が頼盛に対してやらなきゃならないような状況はあったんでしょうか。

五味 ないでしょうね。朝廷の中で氏族の広がりを伸ばしていくのが清盛の選択で、頼朝の方はそうではない。

編集部 統合の象徴のような形で、貴種として自分が君臨するためということもあったんでしょうか。

五味 いろんな対立をはらみながら、一門結集が出てくる。頼朝はそういう線を切って、自分の子供に継承させることばかりに血眼になったから一門の広がりがなくなり、源氏は途中でつぶれる形になる。そのあたりの選択がどうだったのか難しい。

 

   頼朝も清盛に劣らず戦略家

山本 清盛はモデルをいつももっていたという。頼朝はモデルがないけれど、マイナスモデルは源氏の中にいっぱいいた。骨肉の争いを繰り広げ、それによって平家が浮上する状況になるので、ああしてはいけないという意識はあったんじゃないか。

五味 これをやってはいけないと思いながら、そうなってしまう。義経にしても範頼にしても、すごく愛情をかけてやったとは思う。

山本 だから、そこで切れるか切れないかは、学んでいるかいないかだと思う。そこで愛情に引かれて許すと、それぞれ自立する。その辺は頼朝はかなり苦しんだと思う。

五味 そういう意味では、頼朝は、現代人に比較的わかりやすいと思う。当時の人としては、範頼や義経などを基本的に包含して、うまくやれると考える。

山本 それが、やはり家なんでしょうね。

五味  と思うんです。だから、ある意味では自分の家を縮めてしまった。それは実朝なんかに継承されたと思う。結構、血筋というのは大きいですよ。

山本 純粋性の維持というか、嫡宗というのははっきり筋を通しておかなきゃいけないというのが、頼朝の中にあると思いますね。

五味 それから、頼朝は幕府をつくってやっていくときに、平氏がつくってきたものを最大限利用した。所領も知行国にしても。そういう意味では頼朝も清盛に劣らず戦略家であり、さまざまなものを学び築いてきた。頼朝は骨身を削って幕府をつくりあげてきたのではないかと思います。

八幡 清盛の厳島納経は有名ですが、埼玉の慈光寺に残る装飾経の法華経一品経はそれに匹敵するもので、頼朝と朝廷との間の連絡役をつとめた九条家一門が書写したものといわれてますので、今回、展示させていただくことにしました。

 

   戦乱が終わった後奥州を植民地に

編集部 義経が藤原氏を頼って逃げる。頼朝には藤原氏をどうするかという問題があり、奥州へ義経が行ったからつぶす理由もできた。

五味 もちろん義経を追っていけばそこに行くだろう、というふうにも考えられる。

山本 そこまで泳がせておく。

五味 ええ。義経が行かなくても口実は何とでもつく。幕府の体制がある程度築かれ、東国支配権も認められたから、秩序への反逆者で片づけられる。だから、必ずしも義経が行かなくてもやったと思う。

朝廷との関係が多少ぎくしゃくし、幕府の内部に不満も生まれてきたので、一応戦乱の終わった段階になって、どこか植民地みたいなものが必要になってくる。西国にはもう行けない。すると奥州だということになる。

山本 植民地というのは、言葉として本当にぴったりすると思います。行政機構自体はそのまま引き継ぎ、いきなり東国のものを持ち込んだりしない。それから中尊寺もそうですが、藤原氏が大事にしたものは、できるだけ大事にするような格好をとる。先進国が後進国を植民地支配する時、単に暴力で搾取するんじゃなくて、イギリス型の非常にうまい支配があります。ああいうものを頼朝が奥州に対してやったような気がする。その場合の一番のメリットは金でしょうか。

五味 金の問題もあるけれど、やはり広大なフロンティアが必要だったと思う。その際、前の体制を温存しながらというのが大きい。普通、近代日本がどこかに出て行ってやったような形になると、いろんな問題が出てくる。

八幡 その結果、奥州合戦の鎮魂の寺として、鎌倉に永福寺を建設している。永福寺を見ると、規模的には平泉よりも数段大きく、今までになかったような三堂形式の伽藍配置をやっていますね。

 

   妻子を伴い上洛、東大寺の落慶供養に参列

八幡 頼朝は奥州を平定して建久六年(一一九五)に上洛し、東大寺の大仏殿落慶供養に出席しています。

頼朝は壇の浦に平家を滅ぼして心にゆとりもできたようで、文治元年(一一八五)に、平重衡により焼亡した東大寺の復興造営に力をかすことになり、大仏の鍍金のために砂金一千両を送っています。

その後も勧進上人重源が周防国(山口県)から木材を使うことができるよう院宣を出させたり、畠山重忠、梶原景時ら有力な御家人たちに大仏の脇士像などの製作の費用を負担させています。これらは運慶や快慶ら名だたる仏師が制作したものですが、今は失われています。

今回の展示では、東大寺に残された頼朝自筆の書状や、鎮守の手向山八幡宮に頼朝が奉納した螺鈿の鞍なども、ご覧いただけます。

五味 頼朝は妻の政子と嫡男頼家、長女大姫も一緒に連れていき、落慶供養が終わって京都にもどると、頼家を参内させたり、大姫の婚姻のことを依頼したり、後継問題に心を配るようになります。



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