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有鄰


平成11年10月10日  第383号  P3

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 源頼朝の実像 (1) (2) (3)
P4 ○岡本太郎と川崎  岡本敏子
P5 ○人と作品  別所真紀子と『雪はことしも』        藤田昌司

 座談会

源頼朝の実像 (3)



『吾妻鏡に記録されていない頼朝の死』

編集部 頼朝が正治元年(一一九九)に亡くなりますが『吾妻鏡』にはその記載がないんですね。

五味 『吾妻鏡』は、将軍の年代記ごとに分担執筆しています。そうするとどうしても、担当者の違いによって、途中で終わってしまうところがでる。だから、それぞれの将軍記の始まりからはちゃんと書いてあるけれど、終わりの部分のないことが多い。もちろん途中で欠損しているものもありますが、それは書けなかったのではなくて、というのが私の説です。かなり書きにくかったことはあろうかと思うんですけれども……。

例えば、実朝の暗殺についてはあれだけ詳しく書いてあるのだから、書けないわけがない。淡々と書けばいい。それでいうと、書けなかったわけではなく、たまたま書かれなかったから、それが謎になってしまった。『吾妻鏡』は正治元年二月の二代将軍記の始まりから記事が出てくるということです。

八幡 そう考えれば、なぜ二月から出てくるかというのはごく自然になってくる。

山本 ただ頼家も、『愚管抄』に書いてあるようなすさまじい死にざまは『吾妻鏡』からは全然うかがえないし、そういう意味では、逆になぜ実朝だけ書いてあるのかなという気もしないではない。

五味 確かに実朝の死を細かく書いてあるのは珍しい。
 

   相模川の橋供養に行き、落馬したのが原因

編集部 頼朝は相模川の橋供養に行き、そこで落馬したのが原因で死んだといわれますが、どうなんでしょうか。

山本 あれ自体はあれでいいんじゃないですか(笑)。脳卒中とか、いろいろうがった説もありますが、あの時代の人だから怨霊を見たということはあるかもしれない。でも、陰謀とか、毒殺は考えたくないような気がします。自然死でいいと思う。

五味 ただ、その後の将軍は、一人として鎌倉できちんと亡くなっていない。みんな追い返されるか、暗殺されるか、伊豆で殺されてしまう。だからある意味では、最初の頼朝もそうした可能性がなくはない。

山本 王殺しですか。

五味 いや、もちろん私も単純に落馬したんだろうと。ただ、落馬したことが、その後のいろんなものと付会されて、いろいろな解釈が出てくる要素が相当あったと思う。死というのはそれだけ非常に微妙な問題をはらんでいる。

 

   もし頼朝も大姫も生きていたら入内がなったのか

八幡 頼朝は亡くなったけれど、例えば大姫や次女の問題も頼朝を考える上では結構重要な問題ですね。もし頼朝も大姫も生きていたら、大姫の入内がなったのかどうか。そういう頼朝は見たくないと書いている人もいる。(笑)

編集部 入内させたら、ある意味で清盛と同じような形になるわけですね。

五味 でも、入内させても頼朝が京都に行くわけじゃない。もし入内して子供が生まれたときに天皇に据えるように努力するのか、あるいは生まれた子供を鎌倉のトップにつけるとか、いろいろ考えられます。しかし建久元年に上洛したときぐらいから、もう入内工作は始まっているので、やはり後継者問題は大きいかなと思います。自分には貴種性はある。しかしその貴種性は東国の武士団との婚姻で二分の一ずつどんどん薄まっていく。実朝の婚姻はその貴種性を取り戻すという性格をもっていました。

 

   重要な役割を果たした側近の梶原景時

編集部 頼朝の側近であった梶原景時を山本先生はご著書で紹介しておられますね。

山本 私はひねくれているので、景時は好きなんです。なぜかというと、讒言によって義経や御家人を破滅に追い込んだことで、非常に評判が悪いから。

権力論からいうと、頼朝のように自分の手勢をもっていない人間は、一つは情報力、もう一つは、主君に依存しなきゃならない連中がいないと権力が維持しにくい。その辺で見ると、浮上してくるのは一つは景時であり、一つは雑色という人々ではないか。特に景時の場合、評判が何であんなに悪いのか。義経との争論でも、あんな一方的に言われるほど景時がおかしいとも思わない。

八幡 景時は屋島の合戦で義経と逆櫓のことで争う。舳先に艫の方へ向けて櫓を立てて、船が前に進んだり後ろに退くこともできるようにと主張する景時に対して、義経はあらかじめ逃げる支度をしておくことを潔しとしない。

山本 義経のほうが正しいというのが過剰に言われてきた。でも、むだに命を捨てることもないし、進むときに退くことも考えるのは当たり前じゃないか。むしろ景時のほうがまともで、義経はある意味では暴勇だったと思う。それなのに、なぜ義経ばかり、ということで景時に注目した。また和田義盛の侍所の別当職を盗んだという話にもなっていますが、証拠はない。だから、梶原のほうがずっと上だったかもしれない可能性すらある。実際に行動を見ていると、ある時期までは景時は相当いろんな役割を与えられている。

それを考えると、平家方についていた景時が石橋山で頼朝を見逃したという話は私は相当怪しいとは思いますが、それに値するほどの重要性を頼朝の挙兵のときからもっていたのではないか。景時は側近にいて、かなり重要な役割を果たしたんじゃないか。

 

   分身を見ていくと頼朝の実像が見えてくる

五味 梶原というのは、ある意味では、頼朝のある部分の分身ですね。将軍権力は演出される必要があった。手足になって働く人間はぜひとも必要で、そういう人間を見ていくと頼朝の実像が見えてくる。だから、景時とはやや異質ですが、実朝が暗殺されるときも、源仲章が殺されている。仲章は実朝の学問の師匠ですね。そういう存在からながめていくと、今まで見えないようなものが見えてくる。

権力を握っても、ただ自分一人でやっていくわけではない。それをある程度担いながら、多少とも泥をかぶりながらやってくれる存在が必要になる。それは畠山重忠などと比べると、当然非難の対象になるのでしょうが、畠山から頼朝像を探るのは無理な話ですが、景時のような存在から頼朝像を探ったことは、非常に意味があった。頼朝が亡くなった後、没落していくのもよくわかる。

 

   将軍の個人的な使者の役目を果たした「雑色」

編集部 今、お話に出た雑色も、頼朝には重要ですね。

山本 雑色というは、文字どおりいろいろの雑ですし、身分的にも御家人、武士よりはるかに下、凡下より以下です。けれども、そういう階層は、主君にある種の絶対忠誠をもつ階層になり得る。なぜかというと、身分が低くて、目立ったことをやると、ほかの人間からは、たたかれる。つまり主君以外の人間は誰も使ってくれないし、主君が倒れたら、自分も完全に倒れるわけだから、主君との一体感がものすごく強い階層です。

そういう人間を、例えば非常に重要な使いなどで、しかも、口頭での言上も含めて使っていくのは、頼朝の代が初めてじゃないか。

八幡 簡単にいうと、頼朝の個人的な隠密というか、頼朝の身辺に仕え、機密を要する使者としての要務にあたっています。だから名字がなくて名前だけなんです。鶴太郎とか里長とか。

五味 一種の舎人なんですね。近くに仕えてはいるけれど、身分的には低い。しかしある種の権威に対して、剛勇も働くような存在。これも将軍の分身ですね。

編集部 御家人社会の体制外の人間ということですね。

五味 はい。だから、頼朝が亡くなると、ほとんど消えてしまう。


御霊信仰が強かった鎌倉幕府

編集部 頼朝は鎌倉にきてすぐ、鶴岡八幡宮を造営する。

山本 八幡というのは私はよくわからない。単に「楚忽の間」につくったという創建時の社をどうこういうだけではすまない。由比若宮を現在地に移した後、建久二年(一一九一)に焼けた。その後の再建時にもう一度石清水から勧請しているので神格は二つになっている。しかも新しい所に入っていく時はその土地の霊をしずめる儀式をやります。あそこは大庭御厨の土地ですし、鎌倉権五郎景政の伝承の地ということになると、そういう部分もどこかにあったのではないかと。それが後にわからなくなり、単に石清水から持ってきたというだけが残ったんじゃないか。

それと、先ほど頼朝が死んだときに、怨霊の話が出ましたが、御霊信仰というのは、頼朝に限らず鎌倉幕府は非常に強い。それは頼朝のときにはまだ安徳天皇ですが、後には、崇徳・安徳以外にも後鳥羽が大変な怨霊になって、鎌倉幕府にたたってくる。怨霊にたたられた話が出てくるということは、そういう信仰が非常に強かっただろう。すると、鎮魂という問題を抜きにして、鶴岡を考えていいのかという疑問がある。
 

   さまざまな機能を担って変化した鶴岡八幡宮

八幡 八幡神は、奈良時代以来、権力が移ると一緒に動くわけですが、鶴岡については、あそこで幕府の儀式がずっとおこなわれているので、鎮魂というより祈祷の場とか幕府の公的なものを扱う場所として、頼朝が町の中心に持っていったんじゃないかと思う。

山本 それがオーソドックスな説で、なかなかひっくり返せないところですけど。

五味 私は、鎮守的な意味はあったと思う。でも、鎌倉の鎮守かどうか、源氏の鎮守かどうかもわからない。御所をつくるので、御所の鎮守の可能性もある。しかも、単に八幡宮じゃなくて、八幡宮寺ですね。ですから、さまざまな性格が初期の段階にあったんだろうと思います。

ですから、鶴岡八幡宮がその後も重要だったのは、一つの機能を果しているんじゃなくて、次々にさまざまな機能を担わされたことが大きい。だから、どんどん変化していく。東国の鎮守の機能も担わされていく。だから源氏将軍でなくなってもあまり関係はないし、そういう意味では八幡宮の存在は相当大きかったと思います。

八幡 頼朝の居館の西側が八幡宮、そして東側の二階堂に平泉を模した永福寺、南側に菩提寺の勝長寿院をつくる。それらの寺社造営には京都や奈良から人や仏師を呼んできたりで、鎌倉に文化が根づいていった。

「頼朝公八百年祭」−頼朝像研究の新しい段階へ

八幡 今年は頼朝没後八百年にあたり、鎌倉ではいろいろな記念行事がありました。歴史博物館でも、東国発展の基盤をつくった頼朝の記念の展覧会をやろうということになりました。一つは、頼朝がかかわった全国の寺社に残っている多くの資料の展示です。それらは非常に重要な文化遺産ばかりですから、可能な限り集めたい。それから頼朝というと、京都の神護寺の頼朝画像、あるいは東京国立博物館の頼朝像が浮かびますが、今回、ほかにも頼朝の肖像がたくさんあることが判明しましたので、肖像を集めて、頼朝のイメージが各時代にどのように伝わってきたかを展示したいなと。

それから頼朝の古文書も重要だと思います。自筆書状もありますし、花押だけを書いたものもありますが、頼朝の個性を実感できる貴重な資料です。これを何通か集めて比較してみようと思います。頼朝の花押の形や大きさがだんだんと変わっていく、それを実際に史料で展示できたら、ということです。

もう一つは、頼朝の建立した寺院の一つで、最近の発掘調査で全貌がわかってきた永福寺の出土資料をできるだけ展示したいと思っています。

五味 非常に興味深い展覧会になりそうですね。特に、最近話題になっている源頼朝画像。神護寺の画像が頼朝像かどうかという問題、あるいは、あれがなぜ頼朝像といわれてきたのか、また神護寺とどう関係あるのかなど、頼朝像研究は新しい段階に入ってきつつあります。

八幡 例えば、頼朝が亡くなって一周忌に当たる正治二年(一二〇〇)に、頼朝の母方の菩提寺にあたる岡崎の滝山寺で、頼朝の背丈を写してつくったという聖観音像が制作され、三回忌に供養されたという縁起があります。この像は運慶と湛慶がつくったと書かれています。今回の展示では、運慶作の脇侍の帝釈天が出品されます。

それから国宝になった東大寺の古文書の中の頼朝の自筆の書状二通も展示されます。

五味 花押なども従来、にせ物が多いと漠然といわれていましたが、最近、詳細な変化が分析されています。花押は、その人の動きと変化とを映し出しますからね。
 

   幕府の組織化がわかる古文書も展示

八幡 頼朝政権を考えたときに、建久元年(一一九〇)に政所ができて、頼朝袖判下文にかわって、頼朝の花押のない政所下文が出されるようになった。これに対して、御家人たちは、花押のある下文を求めたことが『吾妻鏡』に出てきますが、唯一、同日付で将軍家政所下文と頼朝袖判下文の両方が残っている建久三年九月十二日のものがあるんです。片一方は当館にあり、小山朝政宛てです。それには頼朝の花押がある。非常に大きくて堂々とした花押です。一方、花押のない将軍家政所が出したものが結城市に伝えられており、同じ日付のものが今回一緒になります。幕府の組織化と御家人の意識のずれを考えるうえで興味深い資料です。

五味 政所の機構をつくって、地頭職の給与を政所の下文でおこなうように変化させていくのは、すごく大きいことだったと思う。それが幕府として永続性をもつようになっていく一つのきっかけかもしれませんね。

編集部 長時間どうもありがとうございました。




 
ごみ ふみひこ
一九四六年山梨県生まれ。
著書『吾妻鏡の方法』吉川弘文館 1,529円(5%税込)、『平清盛』吉川弘文館 2,205円(5%税込)  ほか。
 
やまもと こうじ
一九四六年東京生まれ。
著書『頼朝の精神史』講談社 1,575円(5%税込)、『穢と大祓』平凡社 2,625円(5%税込) ほか。
 
やはた よしのぶ
一九三九年神奈川県生まれ。
共著『神奈川県の歴史散歩』山川出版社 上下各910円(5%税込) ほか。
 




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