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有鄰


平成11年12月10日  第385号  P3

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 今、歴史に学ぶこと (1) (2) (3)
P4 ○茅ヶ崎と小津見たまま  石坂昌三
P5 ○人と作品  山本文緒と『落花流水』        藤田昌司

 座談会

今、歴史に学ぶこと (3)



その場その場の判断が鋭敏な信長。長篠の戦いをテーマとした英国の本も

藤田 徳川幕府に至るまでの戦国時代を通じて日本の統一国家が生まれた。その辺から学ぶものは何か。まず織田信長ですが。

津本 やはり天才ですね。祖父や父親の素質を受けた。勉強することを拒否した。いろいろ耳学問はあったでしょう。それがバッと彼の鋭敏な頭脳に反映して常識外れのことばかりやる。それがビシャッと当たる。信長のときは、食うか食われるかという状況で、そういう戦いを百何十回繰り返してあそこまで行くわけですから、それは運も強いけど、その場その場の判断が非常に鋭敏というか。

藤田 直感の人ですか、決断の人ですか。

津本 どっちもですね。それはそう簡単にできないものです。この間、中西輝政さんと対談したときに聞いたのですが、イギリスの政治学者が長篠の戦いをテーマとした本を出したそうです。

日本は第二次大戦でこっぱみじんにやられたのに、今は生産力はドイツの二倍、アメリカの半分で、ドイツとフランス、イギリスを合わせたぐらいだ。EC連合で過去二十年間、発明したことはいっぱいあるが、それを日本が全部利用してやった。何でこんな結果になるんだということを再検討するために、長篠の戦いをテーマとしたそうです。

戦国時代は弱肉強食みたいな状況が百年も続く。日本の国力はむちゃくちゃに強大になってくる。それでゴールドラッシュの資料を見たらすさまじい。家康、秀忠、家光まで続いている。お勘定所の帳面を見たらどんどん金がふえている。

戦国時代、日本は技術がものすごく高級だったから、鉄砲の銃身の尾栓なんかすぐつくれる。ヨーロッパ人以外できなかった。引き金を引くと、パチンと落ちて点火して弾が飛び出す。それを考えるのにヨーロッパ人は二百年かかったといいます。

藤田 信長は非常に進取の気性があって、キリスト教や向こうの文化も取り入れた。

津本 一向一揆に対抗するものだったらいいんです。

城山 僕は、信長はロマンチストだったと思う。安土城も、ただの戦略上のものだったら、あんなものはつくらない。西洋への夢というか、宣教師もびっくりするくらい綺麗なものをつくる。秀吉もそういう流れを受けてお茶とかをやった。

 

  「親切」ではなく「親身」だった豊臣秀吉

藤田 秀吉は、信長と違って下積みから上がった人ですね。

津本 出世したのは人徳があったから。下の者に対して慈愛があるから彼は押し上げられる。それで蜂須賀小六、つまり地下人の知恵を使っているでしょ。ところが、一方で百姓出身のずる賢さ、とにかく尻の毛までむしり取ってやろうというところがある。両方使い分けている。

城山 津本さんのご著書にもありましたが、秀吉は哀れみがあって、傷病兵は普通は見捨てて、みんな死んでしまうんだけど、秀吉はちゃんとケアをする。そういう精神が長い目で見れば非常に力になる。

この前、中山素平さんと話したとき、今、トップが部下とか取引先に対して親切にするとか言うけど、親切じゃだめで、親身にやらなくちゃいかんと。親切と親身は似ているけど違う。秀吉は傷病兵に対して親身になっている。親切なら「頑張れよ」とか適当に言っておけばいいけど、本当に医者を送ったりする。これは親身になっている。秀吉の魅力は非常に大きい。

 

  一般社会と隔絶されず世情に通じていた徳川吉宗

藤田 家康は別格として、徳川将軍の中で誰が一番いい政治をしたと思いますか。

津本 吉宗と言われますよね。吉宗は変に世情に通じた人です。彼は四番目の子だったから、加納という四千石ぐらいの家に里子に出される。だから、一般社会と隔絶されずに育った。そのあたりで賢い。数学がものすごくできるし、何でも吸収するんです。

根来組という忍者の情報とか、紀州藩主のときもあんまの組織、座頭も使っている。あんまは方々の秘事を聞いてくる。それを聞いて、すぐに「おまえはこんなことをやっている」と人をつかまえてのいじめは絶対にしない。知らん顔をして、何かのときにじんわりとたしなめる。

吉宗の前の藩主のときは、使い込みをしても、親や親戚が弁償したら許した。ところが、吉宗の代になったら、ほかのことは一切やらないかわりに、使い込みをしたら即座に切腹です。それだけは厳しかった。

吉宗が将軍になっても、鷹狩りに行って、足軽が鉄砲を肩に担いで、動いた拍子にボーンとひたいに当たって、切れて血がダーッと出た。それでも全然とがめない。普通の感覚じゃないけど、押さえるところはよく押さえていた。

ただ、経済事情はわからないから、賄賂とか乱費を抑えたり、新しい物産をつくらせたりする。ところがその結果米が六、七十万石もふえたりして、米の値段は下がる。それで困った。しかし、田沼意次のその次の時代は、吉宗のおかげで実に穏やかな世の中になったから、歴代将軍の中では一番賢い人というんですかね。

 

  今とは違っていた人命に対する考え方

藤田 津本先生は歴史上の人物で、この人だけは書きたくないという人はいますか。

津本 僕は書くまで全然知らないんです。書くにあたっていろいろ勉強して、たまたま意表をつかれて面白いと思ったのが信長。秀吉はさっぱり面白くなくて、家康のときはちょっと面白かった。家康は、独特の古漬のタクアンみたいに味があるでしょう。

城山 本田宗一郎さんは三人の中では家康がきらいだと言うんです。家康は江戸城をつくらせた人足たちを、秘密が漏れるというので全部殺した。どういう理由があるにしろ恩人を殺すというのは、それだけで許せんと。

津本 当時は大体やっていた。信長も、新田の開発をどんどんやって、爆発的に人口がふえていたから、要するに人命を軽んじるというか。岐阜から冬場に上洛する間に足軽、荒し子が何十人も凍死している。布子を着て、わらじばきで、あとふんどし。雪が降ってきたら、棧俵のふたに穴をあけて、それを首にさしてそれだけ。だから凍死する。信長は、それは当たり前だと思ったんじゃないですか。

城山 人命の考え方が違うんですね。秀吉は計算するために朝鮮の人たちの耳まで切り取らせた。ちょっと考えられないんだけど。日本人はあんなことはやらないと思う。

津本 あれはもとは明がやっていた。首を切るでしょう。首級を勘定しますね。首級を一つ持ってくると手柄になるんです。全部で何千とか、何万とか。首級のかわりに耳とか鼻をとるんです。頭数をそろえるために、生きている人の鼻までそいだ。

朝鮮に行って、日本は目の荒いくしで髪をとかすような略奪をやる。明国軍は非常に目の細かいくしでとくようにやると、朝鮮の本に書いてあります。


経済戦争では勝ったが、その後の処理の仕方を誤った日本

藤田 戦後というと、城山先生の『輸出』から『毎日が日曜日』に至るものが日本経済の一つの象徴的な作品だと思うんです。

つまり、日本のセールスマンがアメリカの辺地をミシンを売って歩いた。それがやがて経済大国になり、そういうことをやったビジネスマンはリストラでほされてしまう。この五十年の歩みがあの二つの作品に象徴されるように思うんです。日本の戦後とは一体何だったんだろうとお感じになることはありませんか。

城山 日本は戦争には負けたけど、経済戦争では勝ったと言われた。確かに産業面・貿易面ではそうだったし、いまだに国際収支の面から言ったらそうですよね。

藤田 その仕返しを今受けているんじゃありませんか。

城山 それはそうですね。日本人はまじめだから、そういうものに金融のからくりとかで対応することを知らないで、いい物さえつくればいいだろうと。勝った後の処理の仕方が誤ったというか、乗せられたというか、そういうことだと思いますね。

藤田 戦後の日本経済を築いたのはこの人、といえば。

城山 創業者的、起業者的な人として本田宗一郎さん、ソニーの井深大さん、盛田昭夫さんというコンビ。管理者的な経営者としては、やっぱり中山素平さん、石坂泰三さん。

藤田 そういうことを考えると、今の経営者はちょっとスケールが小さくなっているという感じはしませんか。

城山 戦後の高度成長ラインに乗ってからはスケールが大きくなる必要がなかったわけです。十年、二十年と同じラインで来たから、いかにそのラインにうまく乗っていくかということで、それには人間関係や官庁との関係をうまくやっていくことのほうが先行した。だから、どうしても小粒にならざるを得ない。これからもう一回、スタートラインに立ち直して、どこまでやっていくかということだと思います。

そういう意味では、トヨタが最近は変わってきたと思っているんです。というのは、豊田章一郎とか、今やっている奥田碩さんを見ていると、ある意味でそれまでのトヨタの経営者とは違う。

藤田 本田宗一郎はやはり日本の戦後の象徴ですか。

城山 そうですね。だって外国に行っても、パスポートを見せずに、「ホンダ」と言うと、「おう、おまえはホンダの友だちか」とパッと通してくれる。日本のシンボルなんでしょうね。


歴史観が形成された作家的原点は戦中・戦後体験

藤田 お二方の作品の背景には、やはり戦中体験、戦後体験が大きく影響していると思います。

津本先生は、東北大学の法学部を出られた後、化学工業の会社でサラリーマンをされた。そこで非常に疑問を持たれ、けんかをしてやめられたと伺っていますが……。

津本 僕は、本来は文学部に行きたかったんです。作家になろうとは思わなかったですけど。ところが、戦後、家が傾いてしまって。

藤田 和歌山の旧家で、資産家でいらした。

津本 とにかく税金のたびに何か売って納めるという状況で、月給でももらわないとということで、僕の家で初めて僕がサラリーマンになったんです。そのときは一時しのぎという気はありました。

神島化学という会社ですが入ってみると、やっぱり面白くない。何でかというと、学校で勉強した科目より会社の仕事なんて簡単なんですよ。ここを倹約すれば会社にどういう利益が与えられるか、とわかるから、それをやる。やっても上役は知らん顔。

残業でも、用事もないのにぐずぐずしている。僕は四時半になったらパッと帰る。朝は九時始業ですが、みんな八時半に来ている。僕は九時。大雨が降ったら、もういいやと思って遅刻したり。それで課長にもにらまれ、そのうちにだんだんきらわれて、僕は大げんかして、古参一等兵みたいになった(笑)。居心地はよかったんですが、親戚や祖母三人がバタバタと死んでこれは無情だと思ってね。

神島化学は、僕が入ったときは給料は日本一だった。十年いたんですが、何にも後に残るものがなかったので、もうやめようと思って。でも、やめるまで四年ぐらいかかりましたね。やめたら、一番いやなことをやらなきゃいけない。和歌山に残りかすの土地があって、それがみんな又貸しになっている。おやじは病身だし、それを整理してやろうと。利益が上がるから。しかし、実際やるとなれば西部劇みたいなものですよ(笑)。殺されるかわからない。

七件あって、一つやるのに、しまいには、不法者までが来る。夜中でも戸をけ破らんばかりにしてね。裁判で、それも弁護士が逃げるのをおしりを押して、絶対突っ張ってくださいと言って。それで何とか和解へ持ち込んだ。和解で、僕はどなりまくって弁護士はかばんを持って逃げた。ところが、それで示談で話がついた。そしたら、何とあとの六つは全部向こうからダッと折れてきた。(笑)

藤田 それは今様信長じゃありませんか。

津本 僕は食わんがためのことしかやらない。食べられたら、それ以上は要らない。それで、家賃・地代が入ってくるでしょう。何もすることがないから、『VIKING(バイキング)』という同人雑誌に入った。昔から書こう書こうと口でばかり言っていたし。

藤田 津本さんには初期のころ『わが勲の無きがごと』という、お兄さんのことを書かれた感銘深い作品がありますね。あの辺が津本さんの作家としての精神的原点になっていると思うんですが。

津本 僕は余りそうは思わないんです。しかし、小説を書く上で割とまじめな時代の作品ですね。

 

  組織と人間とのかかわりが一番のテーマ

藤田 同じ意味で城山先生の作家的原点は、『一歩の距離』と『大義の末』だと思っています。

城山先生は、中学を出られた後、海軍特別幹部候補生になられて、その軍隊体験を書かれたのが『一歩の距離』で、特攻志願の話です。ああいう原点を戦争体験に持っておられる作家というのは、歴史を見る目が本当に真っすぐですね。それから『輸出』『毎日が日曜日』と。

城山 そういう戦争体験があって、組織というものはこんなにひどいものかというのが一つあった。しかし、それが今、津本さんが言われたように、戦後は会社という組織の中で生きている。人間というのは組織とどういうふうにかかわるのか。組織、人間の問題が自分の唯一、一番のテーマであるということできたわけです。

藤田 城山先生は、自分は状況から生まれた作家であると書いておられますが、戦中・戦後の状況から生まれたということは、つまり、戦後の状況に真っ正面から体当たりで……。(笑)

城山 僕は、戦争中懲りたからね。どんな組織にも入るまいと。

津本 今度『楠の立つ岡』(中央公論新社)という小説を出しますが、戦争中のことも書きました。僕は当時、勤労動員で川崎航空機の明石工場にいたんです。そこで、昭和二十年一月十九日に空襲に遭い、隣の防空壕に入っていた女学生十六人全員が爆撃で即死したんです。

藤田 そういう戦争体験、戦後体験で、ひりひりするほどのものがあるから、歴史を直視せざるを得ない。そういう存在でいらっしゃるわけですね。大変いいお話を伺いました。

編集部 どうもありがとうございました。




 
しろやま さぶろう
一九二七年愛知県生まれ。
 
つもと よう
一九二九年和歌山県生まれ。
 




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