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有鄰


平成12年2月10日  第387号  P4

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 本とインターネット (1) (2) (3)
P4 ○関ヶ原合戦と板部岡江雪  下山治久
P5 ○人と作品  風野真知雄と『刺客が来る道』        藤田昌司



関ヶ原合戦と板部岡江雪(いたべおかこうせつ)
下山治久





  氏政・氏直に仕えた北条氏の重臣

 横浜市緑区長津田には、戦国時代の末に徳川家康の家臣になった岡野恒房が創建した曹洞宗の大林寺がある。岡野恒房は後北条氏の重臣であった板部岡江雪斎の嫡男で、天正十八年(一五九〇)の小田原合戦には埼玉県岩槻市にあった岩付城の守備をして豊臣秀吉の大軍と戦った。のち、家康に降伏してその家臣となり子孫は一五〇〇石の旗本として幕末にいたった家である。

岡野家歴代の墓所
岡野家歴代の墓所(横浜市緑区・大林寺)
 恒房の父・江雪は後北条氏の重臣で、北条氏政・氏直に仕えて小田原城にいた。しかし、江雪の出自については明確ではない。伊豆の田中氏の出であるとか、はたまた伊豆下田の僧侶の出ともいわれている。

 その中でも、確からしいのは徳川幕府の家臣の来歴を記した『寛政重修諸家譜』五〇八巻の記述で、 岡野氏の項目には、江雪は北条時行(鎌倉幕府の執権・高時の第二子)の末裔で、実名を田中融成(とおなり)といった。 祖父の田中善兵衛は伊豆の蛭が小島(静岡県韮山町)で明応二年(一四九三)に討ち死にしたという。

 この年は北条早雲が伊豆に侵攻した年に当たり、多分、善兵衛は堀越公方足利家に仕えた武士で、早雲と戦って討ち死にしたと想像される。その子の泰行が北条氏康に仕えて功績をたて、天正六年(一五七八)に死去した。泰行の嫡男が融成、つまり江雪斎になると記されている。

 後北条氏の家臣に板部岡康雄(やすかつ)という重臣がいたが、天正六年に死去したので、北条氏康は江雪に板部岡家の跡を継がせた。江戸時代に旗本岡野家の代官をしていた長津田の井上家には、江雪の文書とともに板部岡康雄の文書も伝えていて、江雪が板部岡家を継いだのは確実と思われる。

  武田家の遺領をめぐって徳川家康と交渉

 やがて板部岡江雪は北条氏政の側近となり、小田原城の評定衆の筆頭になった。北条氏の古文書には数多くの江雪の署名の有るものが伝わっている。江雪が北条氏の中枢に昇ったのも、伊豆の名族の出身と、彼の優秀な弁舌や文章の上手さを買われてのことと推定される。

 岩付城は北条氏の武蔵東部における大切な城で、太田道灌の子孫になる太田源五郎が守っていたが、永禄初年に源五郎が死去すると、氏政は岩付城の管理を江雪に委ねた。江雪は岩付城の管理を嫡男恒房に命じた。江雪の嫡男恒房が岩付城で豊臣秀吉と最後まで戦うのは、このような理由による。ちなみに恒房の恒は太田氏の通字、房はのちに岩付城主になる氏政の子氏房からの一字拝領である。

 江雪はしばしば北条氏の外交使節として重要な場面に登場してくる。理論的な思考と弁舌の爽やかな人物であったらしい。

 天正十年三月に織田信長が甲斐の武田勝頼を滅ぼした直後、明智光秀によって本能寺の変で信長が討たれ、統治者が不在となった甲斐と信濃の領有をめぐって北条氏直と徳川家康が対立する事件がおこった。

 しかし家康の政策が功を奏して武田の遺臣たちは徳川家に仕えるものが続出し、氏直は甲斐・信濃(山梨県・長野県)から 敗退する結果となった。

 この時に北条家の交渉役として徳川家康に面会したのが江雪であった。勝ち誇る家康を相手に五分での和睦交渉をする難しさは、今も昔も変わらない。江雪の弁舌の爽やかさの結果であろう。

 この交渉は徳川家康が甲斐・信濃を領有すること、北条氏直は旧武田領の上野国(群馬県)を領有し、氏直の夫人として家康の娘を迎えることで決着した。

 京都で織田信長の後継者争いに全力をあげていた豊臣秀吉は、この徳川・北条同盟を聞いて、彼らを危険な対抗勢力の出現と踏んだのも、うなずけることである。

  小田原城開城で秀吉に会い、お伽衆になる

 ところで、歴史とは実に不思議なものである。その危険視した徳川・北条同盟の交渉役をつとめた人物をのちに豊臣秀吉は家臣に加えることとなるのである。しかも、その人物が、やがては豊臣秀吉亡きあとの豊臣家滅亡の隠れた推進者になろうとは、秀吉には想像すらできなかったであろう。

江雪書状
江雪書状−岩本泰明氏蔵/神奈川県立歴史博物館提供−
 天正十五年(一五八七)に九州仕置を終えて西日本を平定した秀吉は、いよいよ東日本の平定に鋭い目を向けてきた。「関東・奥惣無事令」といわれる秀吉の政策がこの年に発せられた。北条氏直と周辺大名との交戦を私戦とみなし、そこに豊臣政権を介入させて和平を計ろうとする政策であった。

 小田原城の北条氏政は豊臣秀吉を毛嫌いしており、豊臣秀吉とも同盟している徳川家康をも敵視する態度を示していた。どうしても秀吉に膝を屈しないから、氏政と、徳川家康の娘督姫を妻とする北条氏直とは断絶する結果となった。

 最初の豊臣氏への交渉には氏政の弟氏規が出向いていたが、第二の使者として、氏政の側近であった江雪が秀吉との交渉をすることとなったのである。

 交渉の論点は上野国の真田氏領であった沼田城の領有問題であったが、江雪は氏政がかならず上洛するとの約束をとりつけて秀吉を納得させ、小田原城に帰国した。秀吉はこの難しい外交交渉に臨んだ江雪を理性と教養ある好人物と認めたといわれている。

  伏見城の城下に広大な屋敷を与えられる

 ところが、豊臣秀吉が真田領と決定していた沼田城を略奪した北条氏の暴挙に激怒して天正十八年 (一五九〇)に小田原合戦が起こり、結果的に北条氏は滅亡することとなった。

伏見城
伏見城−伏見桃山城提供−
 七月五日の小田原城開城交渉で、江雪は秀吉に面会した。最初は、平気で違約した江雪に怒りを露にしていた秀吉も、その交渉過程で、決して主君氏政の非を唱えない江雪の忠誠ぶりを認めることとなり、最後には、その人柄に魅力を感じるようになったという。

 やがて、小田原城は開城となり、氏政は切腹、氏直や氏規は高野山へ追放となる。もちろん江雪は助命され、今度は北条方として戦っている岩付城を攻めに行くはめになった。まもなく岩付城は徳川家康に降伏し、江雪の嫡男恒房は徳川家に仕えることとなった。

 ここに江雪は、昨日まで敵方であった豊臣秀吉の家臣として仕えることとなり、京都の伏見城の城下に広大な屋敷を与えられて移り住んだ。秀吉のお伽衆(とぎしゅう)として、話し相手を努める老臣として余生を送ることになったのであった。

  関ヶ原の合戦で小早川秀秋を寝返らせる

 ところが、社会はまだまだ江雪を必要としたのである。

 慶長三年(一五九八)に豊臣秀吉が死去すると、徳川家康と石田三成が反目し、江雪は家康に味方すること になった。旧主氏直の助命に奔走した家康への恩義であった。

 同五年七月に上杉景勝を攻めるために徳川家康が会津に出陣すると、江雪も従って下野国(栃木県)小山に着陣した。その隙に石田三成が徳川打倒の挙兵をすると、江雪は家康の密命を受けて関西に急行した。小早川秀秋に徳川方に味方するよう秘密交渉をするためである。『記録御用所本古文書』にある同年八月三日の徳川秀忠からの手紙にも、そのことが述べられている。

 小早川秀秋は一度は豊臣秀吉の養子になった人物であったが、のちに小早川家の養子となり、早くから石田三成から味方するよう交渉がおこなわれていた。

  褒美として筑前信国の十文字槍を拝領

 秀秋は交渉に訪れた江雪と語らい、密かに徳川方に志を通じたので、足軽十人を忍びに仕立てて、遂次、江雪に西軍方の動向を知らせた。このようにして石田方の西軍の秘密行動は、江雪を通して東軍の徳川家康には筒抜けとなったのである。

 慶長五年(一六〇〇)九月十五日、関ケ原で天下分け目の合戦がおこなわれた。西軍の主力として参陣した小早川秀秋は石田三成の危惧した通り、全く動かず、ついには東軍に内応して大谷吉継の隊に突撃を敢行した。この内応が原因して石田隊は総崩れとなり、西軍は惨敗する結果となった。

 徳川家康にとって、まさに江雪の功績は大きく、東軍勝利のきっかけとなったのである。江雪は家康から褒美として筑前信国の十文字槍を拝領している。

 関ケ原の合戦後、家康は、伏見城に入って上方の居城とし、そこで将軍の宣下を受けることになるが、江雪は慶長十四年(一六〇九)六月三日、伏見城下の屋敷で七十四歳の生涯を終えた。





しもやま はるひさ
一九四二年東京生まれ。
東京都中央区教育委員会文化財調査指導員。
著書 『北条早雲と家臣団』有隣堂1,050円(5%税込)、『小田原合戦』角川書店1,365円(5%税込)、
『北条早雲のすべて』(共著)新人物往来社2,141円(5%税込) ほか。





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