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有鄰


平成12年4月10日  第389号  P4

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 子どもと本の出会い (1) (2) (3)
P4 ○「湘南」はどこか  土井浩
P5 ○人と作品  高嶋哲夫と『ダーティー・ユー』        藤田昌司



「湘南」はどこか
土井浩





  「湘南」の地域名とイメージはどのように変わってきたか

「湘南発祥の地」の碑
「湘南発祥の地」の碑
−大磯・鴫立庵−
 「湘南」という地名は、いうまでもなく神奈川県の南部、三浦半島から伊豆半島の基部にかけての相模湾沿岸一帯に 冠せられた地域名である。そして今日、湘南はどこか都会的センスのある、経済的に豊かで、ある種の高級感を 漂わせたイメージを持った地域名として定着している。

 この地域名、湘南が温暖な気候と風景に恵まれた観光保養地として世に知られるきっかけは、明治・大正期に 活躍した作家、徳富蘆花の代表作『自然と文化』の中の「湘南雑筆」からとされる。そして戦後は、全国に 通用するブランド名としても定着した。

 地域名が、何故さまざまなイメージを作りあげるのか、いろいろな事由が考えられ、一概にいえない。 ただ、この湘南という地域名には、その地域が多くの地名辞典などで神奈川県南部一帯とあるように、同じ 地名であっても、その範囲が市町村域のように画然としているわけではない。そのことが、昨今、さまざまな 論議が起こる元にもなっている。

 したがって、湘南という地域名と、そのイメージに共通した理解を形成するためには湘南という地域名と そのイメージが、いつ頃から、どのように使われ、どう変遷してきたかを明らかにする必要があろう。

  江戸時代、大磯を発祥の地として命名

 湘南という地名が、もともと中国の湖南省を流れる湘江の南部のことで、これにちなんで名づけられたと 知る人は意外に多い。また、日本の湘南は、大磯鴫立庵(しぎたつあん)の前を流れる鴫立川のなかの石碑(現在は庵境内の 一隅にある)に庵の創設者である崇雪という人物が、「看盡湘南清絶地」と刻み、この地を湘南と称したこと に始まる。

 石碑の建立は寛文四年(一六六四)のことである。崇雪は、『寛文六年大磯村検地帳』に、屋敷地と畑地の 一反六歩を名請すると記載されていることから、この時期、大磯宿に住み、実在の人物であったことがわかる。 また、崇雪には小田原町宿老として伝家の丸薬である透頂香(とうちんこう)を売る小田原外郎(ういろう)こと宇野家の出であるとの伝聞がある。

 宇野氏は『陳外郎家譜』によれば、室町時代初期に日本に亡命した台州の人、医師陳順祖の四代子孫が、 小田原北条氏に招かれ宇野氏の養子となり、以後、陳姓を改め、宇野を称した小田原外郎といわれた家である。 この『家譜』に崇雪の名は認められないが、崇雪を八代宇野藤右衛門光治の次男とする伝聞もある。

 光治の長子九代宇野藤右衛門英治は、『家譜』によれば、寛文十年(一六七〇)八十一歳で没していた。  このことから、崇雪と英治は、ほぼ同時代に生きた人物であり、崇雪が英治の弟であるという伝聞は事実 なのかも知れない。伝聞どおりとすると、崇雪が祖先の地、中国湖南省湘南の風景に似た大磯を湘南に なぞらえ、鴫立庵に湘南の碑文を刻んだ、と理解される。

  明治期に「湘南」といったのは相模川以西の地域

 次に、湘南の文字が歴史に登場するのは明治十四年(一八八一)に設立された「湘南社」である。この湘南社は、 大磯を本拠地に、曽屋(秦野市)、南金目(平塚市)、伊勢原にそれぞれ講学所を開設し、民権思想の啓発を 目的に活動した自由民権運動のための政治結社で、活動範囲は淘綾・大住の両郡が中心であった。

 さらに、明治二十二年(一八八九)、津久井郡に湘南村(現・城山町)が誕生する。 この湘南村は小倉村と葉山島村が合併して生まれた村である。その由来は、「相模川を文人が湘江と呼んで いることにちなみ、湘江の南側の村という」(『角川日本地名大辞典』)ことであった。当地は、山と川が 織りなす景観に富んだ地域で、「湘南」の地名は現在、湘南小学校として残っている。

 このように、江戸期に大磯を発祥の地として命名された湘南は、明治になって、政治結社名や合併村名に 用いられた。この他、湘南を冠したものには、明治三十年刊『銀行会社要録』によれば、湘南大磯病院(明治二十六年、大磯町)を はじめ、湘南馬車鉄道(明治三十八年、二宮町)、湘南煙草合名会社(明治四十年、小田原市)、湘南牛乳株式会社(明治四十一年、二宮町)、 湘南度量衡器製作株式会社(明治四十四年、小田原市)、湘南介立社(明治四十五年、小田原市)があり、 すべて相模川以西の地域に集中していた。

 ところで、相模川に接した東側の寒川・茅ヶ崎の一部地域を特に湘東と呼ぶ。この湘東は、湘江に見立てた 相模川の東の意味である。この湘東の文字を用い、明治十六年(一八八三)、寒川・茅ヶ崎地域の資産家を 出資者とする貸金会社「湘東社」が設立された。以後、この湘東は大正十四年(一九二五)設立の「高座郡茅ヶ崎町湘東耕地整理組合」名に 使用され、現在は「湘東橋」という橋名に残っている。

 また、明治四十五年(一九一二)、藤沢に「新湘南勧業商会」が設立される。前述したように、明治期、 湘南を冠した企業は相模川以西地域に集中していたが、唯一例外がこの新湘南勧業商会である。 注目されるのは、湘南の前に「新」が付いていることである。「新」の付く理由は、当時湘南と冠する地域は 相模川以西に限られており、藤沢あたりでは小田原や大磯に対し、湘南と冠するのは後発との意識があるためで、 あえて「新」を付したものであろう。

  明治期のイメージは山と川が織りなす景観

 明治期、相模川以西地域が湘南であって、相模川以東地域は「湘東」、あるいは湘南と冠しても、そこは 「新」湘南であった。したがって、明治期の湘南の意味する言葉のイメージは山と川が織りなす景観を持つ 相模川以西地域に限られていたと考えられるのである。

  昭和30年以降、湘南のイメージは海

湘南の海
湘南の海(鎌倉・七里ヶ浜から江ノ島方面を望む)
 しかし、以後、湘南はその地域を拡大し、イメージをも大きく変えることになる。そのきっかけが、先に 記した徳富蘆花の「湘南雑記」であり、海水浴場としての湘南の登場であった。

 「湘南雑記」は逗子に居を構えた蘆花が、身辺雑記や近隣の四季折々の様子を綴ったものである。新聞に 連載されたこともあって、地元以外では知られることの少なかった湘南という呼び名が、世の多くの人々に 知られるきっかけとなった。明治三十三年(一九〇〇)のことである。藤沢に新湘南と冠する会社ができること。 さらに湘南の名が相模川以東の藤沢、逗子や横須賀に広がり、この地域をも含む地域名として湘南が拡大していく ことも「湘南雑記」の影響に拠るところが大きかった、といわなければならない。

 また、海水浴場は明治十八年、軍医総監松本順が、大磯照ヶ崎に開設した海水浴場を最初とする。この海水浴場の 開設をきっかけに、神奈川県の南部、三浦半島から伊豆半島基部の相模湾沿岸一帯には明治中頃から大正に かけて、次々と海水浴場が開設され、住宅地や別荘地として注目される。

 この変化に注目し、いち早く反応したのが鉄道会社であった。明治三十五年には江ノ島電鉄が藤沢から 片瀬間に開通し、翌年にはそれが鎌倉まで延長される。昭和四年(一九二九)には小田急電鉄が藤沢と江ノ島とを 結ぶ江ノ島線を開通させる。さらに翌五年には湘南電鉄(現・京浜急行)が横浜黄金町から浦賀間を開通させた。 そして、首都圏を中心に海水浴場へ多くの人々を送り込んだのである。こうして今日、私たちが呼ぶ「湘南海岸」が誕生した。

 こうした状況を背景に、相模川以東地域では大正末年から昭和十年代にかけ、『職業別電話名簿』や 『銀行会社要録』によれば、湘南と冠する会社名や学校名、さらには病院名が、その数、藤沢六(湘南中学、 湘南工業、湘南瓦斯、湘南看護婦会、湘南美容院、湘南化学工業)、横浜五(湘南電気鉄道、湘南土地住宅会社、 湘南旅行協会、湘南交通証券、湘南木工)、横須賀五(湘南飲料、湘南自動車、湘南内科医院、湘南商事、湘南博善)、 逗子三(湘南自動車、湘南ホテル、湘南サナトリウム)、鎌倉二(湘南漁業、湘南派出婦人会)と、各地域に急増する。 かつて、平塚、大磯、二宮、小田原の地域に集中した湘南の冠が、相模川以西地域に限られることなく拡大したのである。

  「湘南海岸」を舞台に若者が活躍

 さらに、昭和十年、藤沢の片瀬龍口寺前から大磯郵便局前までの間に県道片瀬・大磯線(湘南遊歩道路)が 新設されると、沿道の観光開発および住宅開発が促進され、飛躍的に発展する。

 と同時に、湘南というイメージが、かつての山と川のイメージから海へと、その変化を余儀なくされる。 そして、太陽族、ロックバンド、サザンオールスターズと矢継ぎ早に湘南を舞台とした若者の活躍が続く 昭和三十年代以降、海が湘南のイメージに定着した。さらに、湘南という地域も「湘南海岸」という言葉を とおして意識の上でも固定化されていくことになる。

 近年、とくに大規模宅地開発やスポーツなどで付加価値「湘南」が取り上げられ、これが、湘南のイメージや 地域をめぐる論争へと発展している。しかし、その論議に混乱が目立つと考える人は多いのではないだろうか。 地名や地域名には、それぞれ固有の理由があり、さまざまな経緯の中で変化し、発展してきたという歴史的経緯を 忘れてはならない。





どい ひろし
一九四五年北海道生まれ。
平塚市博物館主任学芸員。
共著『神奈川の東海道』(上)かなしん出版1,890円(5%税込)、
『100年前の横浜・神奈川』有隣堂8,190円(5%税込) ほか。





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