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有鄰


平成12年8月10日  第393号  P5

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 かながわの学徒勤労動員 (1) (2) (3)
P4 ○忘れえぬ名言  半藤一利男
P5 ○人と作品  黒井千次と『羽根と翼』        藤田昌司

 人と作品

自ら体験した学生運動を今日の視点から問い直す

黒井千次と羽根と翼
 



  “血のメーデー事件”の三部作が完成

『羽根と翼』(講談社)は、内向の世代の代表的作家黒井千次氏が、自ら体験した五〇年代の学生運動を今日の 視点から問い直した意欲的な作品だ。

黒井 千次氏
黒井 千次氏
 作品の系列からいえば、初期の『時間』(芸術選奨新人賞)、そのテーマを深化させた『五月巡歴』の延長線上に あり、これで三部作が完成したことになる。三部作の核にあるのは、一九五二年(昭和二十七)の“血のメーデー事件”である。
「『時間』も『五月巡歴』も、学生時代に“血のメーデー事件”にかかわった男のその後を書いています。時間』は (十五年裁判として)事件が進行中の若い時代を書き、『五月巡歴』では、もう少し経ってからの会社の寮内の 事件を重ね合わせています。今度の作品では、その人間が会社暮らしを終えて年金暮らしに入った中で、もう いっぺん過去を振り返り、あれはいったい何だったのかと考え直すと同時に、現代に対する苛立ちも禁じえない という心の揺れを書いています」

 前二作と今回の作品の大きな背景の違いは、ソ連の崩壊、冷戦の終結、イデオロギー時代の終焉といわれる 国際環境の変化。では五〇年代の純粋な学生たちを決起させたあのマルクス・レーニン主義は、本当に過去の ものとして葬り去られたのか。
「あれは間違いであったとキメつけて、口をぬぐってしまえば楽です。だけど、本当にそれでいいんだろうか。 過去と今とのかかわりを問い直さずに死んでしまっては、まずいんじゃないか。考え直したからといって、未来 への展望が開けるというものでもないが、とにかく、足掻けるところまで足掻いてみるのが必要なのではないか──という思いがありました」

  『共産党宣言』は今ではメルヘンでしかないのか

 主人公の奥戸継也は定年を過ぎて六十代も半ばに達し、妻と二人暮らし。もちろん作者の分身だ。ある雪の朝、 散歩の途中で、近くの団地に越してきて一人暮らしをしているという学生時代の友人・中久保と出遭い、彼の 案内で、「ぐみの木」という昔さながらの歌声酒場を訪ねる。

 まるで時間が往時のまま静止したように、ロシア民謡や革命歌がリクエストされ歌われるのを聞きながら、 あのメーデーの日、皇居の濠端で大型のアメリカ車が次々に横倒しにされ放火されて炎上する情景がよみがえってくる。

 そのとき奥戸は、全身を黒いマントにくるんだ瞳の黒い女に、突然問いかけられる。「アシザワさんでしょう?クボシマは死にましたよ」

 人違いであることは明らかだったが、その謎の女の問いかけに誘われ、アシザワとは誰か、クボシマとは 誰だったか、遠い五〇年代の過去に分け入っていく。

 大学の同じサークルの仲間たち、「前衛」の面々は大学卒業後は就職先を見つけて散っていったものの、 卒業年次にちなんだ「五五研究会」という名の勉強会も発足していた。その五五年こそは、政治の世界では 五五年体制が立ち上げられ、また経済面では高度成長への助走の時だった。

 奥戸らはその後の日本経済の高度経済成長を双肩で担いながら全力疾走してきた世代だ。同窓会名簿を見ると 同期生の八割までが、まだ社長、会長、監査役、顧問などの役職についている。だがその中にも、アシザワや クボシマの名は見つからない。

 同期の一人に雨森という男がいる。入院中の雨森を見舞った奥戸は、『共産党宣言』が出てから百五十年経った こと、昔の仲間たちがその「宣言」や『資本論』、『ドイツ・イデオロギー』などを再読しはじめていることを知らされ、 自分も「宣言」を再読すると約束する。
〈ヨーロッパに幽霊が出る──共産主義という幽霊である。……〉このプロローグに青春の血を湧かした若者は 多かった。だが、〈今日まであらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である〉という断定は、今ではもうメルヘン でしかないのだろうか。

 ところで、この作品は、過去と現在のザイン(存在=あるがまま)とゾルレン(当為=かくあるべし)を 問いながら、その軸上でミステリアスに展開されていく点に特色がある。謎の女に告げられたクボシマの死は やがて確認されるが、アシザワという男は突如、奥戸の前に現れるのだ。詳述はここではひかえよう。
〈過ぎた歳月の内部にも潜り込めず、今流れて行く時間にも身を浸せぬ愚かな生き物のうろうろと動き廻る様〉を 描いたこの作品は、同じ時代を共有した読者に、切ない一体感を喚起するに相違ない。
2,100円(5%税込)。

(藤田昌司)


(敬称略)


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