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有鄰


平成12年9月10日  第394号  P5

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 氷川丸・70年の航跡 (1) (2) (3)
P4 ○鎌倉彫  薄井和男
P5 ○人と作品  米沢富美子と『二人で紡いだ物語』        藤田昌司

 人と作品

日本物理学会会長として活躍する科学者が夫との思い出を語った

米沢富美子と二人で紡いだ物語
 



  単身赴任の夫を追って英国に留学

 米沢富美子さんの『二人で紡いだ物語』(出窓社)。読後感は「素晴らしい夫婦愛もあるものだ!」の一語につきる。

米沢 富美子さん
米沢 富美子さん
 著者は慶応義塾大学理工学部教授で、世界的に有名な理学博士。会員約二万人の日本物理学会の会長だ。四年ほど前、 ビジネスマンだった夫を亡くした。悲しみの中で朝日新聞のインタビューに応じ、夫との思い出を語った (一九九七年五月一日付「地上の楽園」)。それが出版社の目にとまり、詳しく書いたのが本書である。
「突然という感じで(夫が)いなくなってしまい、ああすればよかったこうすればよかったとたまらない思いでいたのですが、 時間を元に戻せば思い出がいっぱいあり、“何だ、ここに(夫は)いるじゃない”と考え、書き出したわけです。 とは言っても、やはり夫が他界する前後のことは書きづらくて、茫然としてしまうことがよくありました」

 二人が出会ったのは京都大学の学生時代。夫君は経済学部の学生でエスペラント部の部長だった。そのクラブへ 新入生の著者が入部して知り合い、相手が卒業して山一證券に勤めて間もなく結婚した。著者はまだ大学院修士課程に 在学中。エリートコースの夫君は、研修のためロンドンの大学に単身留学することになった。

 この後に著者のとった行動が面目躍如たるところだ。一人でいるのは寂しくてたまらないと、自分も留学を決意。 イギリスのすべての大学の学長宛に手紙を書いて、「貴大学の大学院で物理を勉強したいので奨学金をいただけないか」と 依頼したのだ。すると二つの大学から返事が来て、奨学金をくれるという。授業料も免除、寮費・食費も免除、奨学金も支給して くれるという涙が出るような好条件で、著者は夫君の後を追ったのだ。
「向こう見ずというか、無鉄砲というか、脳天気でオッチョコチョイのところが私の性格なんです」

 しかもこの間、新婚生活をイギリスで味わっただけでなく、一年の留学期間に論文を二本も書いて、大学側を びっくりさせたという。「物理の研究が私には楽しくてしようがないんです。ちょうどミステリーの謎を解く ような面白さです」

  夫の一言に発奮し激務の中で研究した「不規則系の理論」

 帰国後、夫君は東京本社勤務となるが、著者は京大大学院博士課程に戻り、博士号を取り、さらに京大基礎物理学研究所助手に合格する。 しかも、結婚直後の最初の妊娠で胞状奇胎となり九死に一生を得るような体験をしたが、この間に無事女児を産んで “子連れ赴任”。現在は三児の母。

 ちょっと考えられないのはこうした主婦兼母親、そして研究者という生活を一人でこなしてきたことだ。 それだけではない。夫君に、「君の勉強している姿を最近見なくなった。怠けているのじゃないか」と言われたことに 発奮したといい、その言葉に心から感謝しているのである。

 その後、二度の病気も克服し、睡眠時間一日四時間という激務の中で研究した「不規則系の理論」が世界的に 注目されて大きなブームを巻き起こし、京大助教授、慶応大学理工学部助教授を経て教授になったのも、この夫君の 一言によるという。

 だがそれにしても、と凡夫はこだわらざるを得ない。夫君は家事・育児を一切応援しないだけでなく、夜は つき合い酒、休日はゴルフという優雅な生活なのだ。“頭にくる”ことはなかったのだろうか。
「証券会社の仕事というのはそういうものだと思ってましたから……。それに家の中でもめごとを起こすことは したくなかった。だから要求闘争は一切しなかったんです。言えば喧嘩になります。家は安住の地にしておきたかった」

 何とやさしい心情の持ち主なのだろう。思わず頭が下がってしまう。では本質的に論争が嫌いなのだろうか──と 尋ねると、六〇年安保闘争のころは過激な学生運動にも加わったというし、学会の舞台では人が変わったように 論争をするのが好きだという。

 最近、著者は日本物理学会会長として日本で開催する国際会議の“仕切り屋”をまかされることが多い。 会場設営、資金集めなど、研究とは縁遠い厄介な仕事だ。「気がついてみると、交渉相手はみな男ばかりです。 でも男・女と意識することはありませんね」

 本書で唯一、涙なしに読めない個所は、やはり夫君との別離の場面だ。「……この先、何が起ころうとも、 二人は永久に一緒だよ、二人は出会えてよかったね」と話しかけると、八時間以上も呼びかけに応えなかった夫君が、 目を開き、手を握り、著者を抱き寄せたという。世界の先端を行く科学者はこれを「神さまの奇跡としか言いようがない」 というのだ。
1,890円(5%税込)。

(藤田昌司)


(敬称略)


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