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有鄰


平成12年11月10日  第396号  P4

 目次
P1 ○定年後の「かきくけこ」運動で快適余生  大島清
P2 P3 P4 ○座談会 三渓園と原富太郎 (1) (2) (3)
P5 ○人と作品  田中祥夫と『ヨコハマ公園物語』        藤田昌司

 座談会

三渓園と原富太郎 (3)



全国に例がない古建築のミュージアム

西 明治時代の古い地図を見ると、三溪園の場所は谷に沼が入り込んでいてまさに三溪なんですね。

川幡 その沼や段丘状になっていた畑を地をならしてから造園を始めたわけです。建物のきっかけは天瑞寺寿塔覆堂です。 あれが最初に手に入って、その後いろいろな建物を配置していったんです。

西 今は建築博物館がありますが、それはごく最近の考え方で、建物を集めるというのは日本では当時はほかに例がない。 建物を移してくるというのは非常に大変なことで、絵画作品のように、自分で持ってこられない。お金もかかるし 職人も集めなきゃならない。輸送も当時としては大変です。

船でしょうか。

西
臨春閣
臨春閣
そうだと思います。鉄道かもしれません。もう一つ、私が非常に感心するのは、見る目があったということですね。 建築は見ただけではいいか悪いか、年代はいつか、そういうことはわからないんです。今は三溪園の建物は一生懸命 研究したから、いろんな研究者が、これはいつごろのものだとか、歴史的背景はこうだとか大分わかっていますが、 それは最近のことです。三溪先生は多分ぱっと見て、「これはいい」と判断されて移されたんだと思う。

臨春閣にしても聴秋閣にしても、様式でいうと、数寄屋様式で、それらのすぐれたものは大体関西で、関東には 少ない。横浜の三溪園にあるのは、知らない方が見たら、ほんと不思議なんです。

聴秋閣
聴秋閣
聴秋閣の背景はよくわかりません。二条城にあったとか江戸城にあったとか、いろんな説がありますが、決め手が ない。ただ、いいものであることは間違いない。全国的に見てもすばらしいものです。

日本の建物は木造だから、ほどいて移すことは昔からありますが、見抜いたものを集めてきて、ああいうふうに 配置していくのは、あの年代では例がないです。今は川崎の日本民家園のような、全国から建物を移してきて集める ミュージアムはありますが。

 

  臨春閣は紀州徳川家の巌出御殿

篠崎 三溪園で一番見ごたえのある建物はどれですか。

西 臨春閣だと思います。臨春閣と聴秋閣は本当にすばらしいですね。臨春閣は紀州徳川家の巌出(いわで)御殿です。 紀ノ川沿いにあって、紀州の殿様の別荘でしたが、一時期大阪に移されたりして、背景は非常に複雑です。

川幡 三溪園に持って来るときに建物の並び方を変えているんですね。

西 もともと川沿いにあったから、川を眺めるようにつくられています。その風情を生かして、池に臨んで池を眺める ように配置された。

篠崎 それは、三溪さんの考えでやられたことですか。

西 多分歴史を非常によくご存じで、昔から、人を呼んだとき、もちろんお料理やお酒も出るし、和歌をつくった りして楽しむんですが、景色が一番のごちそうなんです。お茶の場合もそうです。景色の一番すぐれた状況に どうやってセッティングするかというのは建築自体の設計と同じぐらい大事です。そういうことをよくご存じだったと 思います。庭が全部イメージにあって、ここへ持ってくればどうなるかということをお考えになって建物を探されたん じゃないでしょうか。

 

  一木一草一石に至るまで精魂を傾けてつくった

篠崎 庭づくりは、もっこを自ら担いでやられたとか。

川幡 庭づくりのときはそうらしいです。渋沢栄一さんが、三溪先生が会議におくれて来られたときに、「また庭づくりが始まったかな」と 言われたと(笑)。だから、私はよく言うんですよ。三溪園は一木一草一石に至るまで精魂を傾けてつくったと。

庭石を買うのに最初、明治三十六、七年ごろに奈良の有名な骨董商の今村甚吉さんに頼むんです。その手紙が 出てきました。「君の所から送ってもらったのは見たけど一つもいいものがない。これから私が行ってやります」と。 今のように新幹線で行く時代じゃないのに、行って庭石も選んでいるんです。それほど力を入れている。

明治三十八年には庭師を研修のために京都に派遣し、横浜に帰って来るのを待って造園が始まったようです。

 

  三溪園のシンボル三重塔

篠崎  三溪園のシンボルはあの三重塔ですね。

川幡
旧燈明寺三重塔
旧燈明寺三重塔
京都の相楽郡の燈明寺から持ってきたものです。あの位置に置くのは、先ほどの建物がいい配置だというのは、 三溪先生自身が絵を描かれるということもあると思うんです。あたかも数百年昔からそこにあったような位置に 置かれて、周囲の景観と非常にうまく調和している。庭の景観を一層引き立てているわけですが、あの三重塔は、 佐佐木信綱さんがあるとき「山の上に塔を建てたらどうなんでしょう」と言われたそうです。実際にそうだったか どうかは知りませんが、後年、三溪先生は私の言うことを聞いてくれたんだと、すごく満足げに話されています。

だから、三溪先生が考えていたかもしれないし佐佐木信綱さんのご意見だったのかもしれない。だから、佐佐木信綱さん の歌には三重塔を歌ったのがかなりあります。

篠崎 あの建物が一番歴史的には古いんでしょうか。

西 室町時代の建物が幾つかありますが、あれは何年につくったかわからないんです。

ただ、池があって、向こうに山があって塔が上にあるのは確かに絵になるんだけど、私は、あれは三溪先生の 意図じゃないと思う。絵になるものがいいと思われていたとは思わない。三重塔はどういう所に建つべきかは しょっちゅうお考えになったと思う。

普通だと、塔は寺院の伽藍の中に置かれるから、もう少し広ければ、あるいは平らの所なら、その中でお考えに なるんでしょうが、絵になるからあそこへ持っていったんではないと思います。

 

  燈明寺の三重塔と本堂が三溪園で再会

篠崎 燈明寺の本堂も三溪園に移されましたね。

西 三重塔が三溪園に来ているから、その縁で本堂も移された。お寺そのものがなくなってしまいました。

川幡 終戦直後の台風で大被害を受けて、屋根が剥がれて雨漏りがする。解体して保管されていたんですが、このまま 置くと腐ってしまうというので、文化庁や土地の人がいろいろ考え、三重塔が三溪園に行って大事にされているから、 三溪園はどうかという話が来たんです。三重塔が大正三年、本堂が昭和六十二年ですから、ほぼ七十年以上たって、 塔と本堂が横浜の地で再会したことになります。

篠崎 戦争中、近くに高射砲陣地があったそうですね。

三重塔は爆弾が両側に落ちたから大丈夫だった。片一方だったら倒れていたと。間門にあった兵器庫をねらったのが ○・○何秒かの差で三溪園に落ちたんですって。六十発ぐらい落ちました。


関東大震災後は横浜市の復興に専念

篠崎 三溪さんは関東大震災後は、絵画の収集や建築の移築は一切やめて、横浜の復興に尽くされますね。

川幡 横浜のためとあらば、生糸貿易のためとあらば、全身全霊を傾けてということなんですね。横浜市復興会会長と して横浜の復興に当たります。そのときなぜ三溪先生がここまで苦労しなきゃいけないのか。単に形だけの役職じゃなく ご自身、地下足袋をはいて現場に行かれた。「神奈川新聞」の挿絵画家をやっていた人から昭和三十年代に聞いた話ですが、 みんな横浜公園などに避難していて、三溪先生が来ると、その姿を見ただけで、「ああ、これで横浜も救われる」という気に ならされるぐらいみんな頼りにしたそうです。

円覚寺管長の朝比奈宗源さんも、横浜の人は決して三溪さんを忘れてはいけないと言っていましたね。

篠崎 当社の有隣新書『原三溪』のなかに、復興会の会長に就任されたときのあいさつが載っています。それに よりますと、「横浜市は外形は失ったけれど、市民の精神、市民の元気は残っている。横浜は一枚の白紙に なってしまったから、どのような計画をしようとも自由だ」と。そういう意味で横浜にとって、三溪園を残して いただいたことと、同時に市民の精神を体現されてもいた方ですね。

 

  収集した近代絵画は戦後、東京国立博物館などに

川幡 三溪先生は、生前、収集品を展示する博物館を園内にお造りになる計画をお持ちだったようですが、関東大震災 などによって断念を余儀なくされた。戦後、収集された古美術品の主なものは矢代幸雄先生の計らいで奈良の大和文華館に、 また美術院の画家たちの作品は東京国立博物館などにまとまって保管されており、コレクションの概要を知ることができます。

現在、三溪園には今お話にあった臨春閣などのほかに、旧東慶寺仏殿や天授院、茶室の春草廬など、重要文化財に 指定されている建築が十棟保存されています。このうち二棟は三溪先生の没後に移されたものですが、これだけの 古建築とそれを取り囲む庭園を鑑賞できるという点から、横浜の貴重な文化遺産といっていいと思っています。

 

  鶴翔閣は誰でも使える形で公開される

篠崎 それで鶴翔閣は、これからどういう形で公開されるんでしょうか。

川幡 横浜に来るVIPの対応もありますが、従来のお茶会、お花の会、短歌の会などの催しに加え、一般企業や 国際会議場などで会議が開かれていますが、そういう人たちが同伴する奥様方に日本文化を紹介できます。

西 今度オープンして、非常に喜ばしいのは、市民が使えるようにしてくださるということです。外国からお客様 が見えたときに使うのも大切ですが、誰でもが使える形にしてくださった。これは三溪さんの意図にかなっている と思います。

もう一つは、最初、中は全部洋風にするというご意見もありましたが、そのときに私がこれだけは守らなければ いけないと思ったのは、はっきり歴史的な背景がわかっているものは、忠実にそれを守ること。そこがきちっと守れて いるのも、私にとってはうれしいことですね。原三溪の建物はこうだったというのがわかるようにしたかった。

私も新しいものをお建てになると聞いて、寂しい気がいたしましたけれど、復元していただいて本当によかったと 思っています。

篠崎 どうもありがとうございました。




 
にし かずお
一九三八年東京生まれ。
著書『図解古建築入門』彰国社2,284円(5%税込)、ほか。
 
はら あきこ
一九三二年横浜生まれ。
 
かわばた りゅうじ
一九三六年横浜生まれ。
論文「三溪園の神髄」−『庭』三八号。
 




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