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有鄰


平成13年1月1日  第398号  P2

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 横浜公園とスタジアム (1) (2) (3)
P4 ○古文書にみる相模野の女たち  長田かな子
P5 ○人と作品  北方謙三と『水滸伝』        藤田昌司

 座談会

横浜公園とスタジアム (2)



プラントンの設計による「まちづくり」

篠崎 その設計に当たったブラントンによって横浜のまちづくりの基本もつくられていくわけですね。堀さんは、以前 横浜開港資料館でブラントンの展覧会を担当されましたが、その辺を……。

第二次横浜公園計画図
第二次横浜公園計画図
(「公園分間図」) 国立公文書館内閣文庫蔵
公園をつくることになっても、さまざまの事情ですぐに計画や着工はできなかった。まず最初に、居留地全体の 計画もあるから、設計するに当たって正確な地図が要ると。外国人の発想は大体そうなんですね。たまたまお雇い 外国人のブラントンは日本全国の灯台建設の根拠地になっていた灯明台役所(現・横浜市中区北仲通六丁目)に いたものですから、横浜居留地の改良計画に非常にかかわってきた。

かなり精度の高い地図をつくることから始めて、その地図に基づいて道路や下水道、埋め立ての計画をたてる。 実現はしませんでしたが、上水道の計画もたてています。その一環のなかで横浜公園も設計することになっていくわけです。

横浜公園の設計にしても、最初の案がすぐオーケーというわけじゃない。最終的な形になるまでは、かなりぎくしゃくした 外交とのやりとりのなかで出てくる。

外国人は居留地のなかにスポーツというものを持ってきます。それをどこでやるかというときに、最終的に 一部は横浜公園ということになっていくわけです。その辺の過程と、実際に公園が設計されていく過程を見ていくと、 東京などでいう公園とはちょっと違う、横浜らしい公園が描けるのではないかなという気がします。

 

  設計段階から諸外国の勢力争いが

篠崎 ブラントンは初めからスポーツ施設をつくることを念頭において設計していたんでしょうか。

横浜公園のパノラマ写真 横浜公園のパノラマ写真 横浜公園のパノラマ写真
横浜公園のパノラマ写真 明治13年ころ 横浜開港資料館蔵
具体的にはイギリス公使のパークスから委嘱されてブラントンが図をかくわけですが、一番最初の案の「公園略図」は 公園の港側のほとんど半分がグラウンドです。それに対してアメリカ領事から、「大体芝生を使うのはイギリス人だけ。 アメリカ人はクリケットをやらないからそんな大きな芝生は要らない」というクレームがついた。

それを受けて、翌明治五年三月に「公園分間図」といわれるものがつくられた。これもクリケットを想定していた と思うんです。結局、グラウンドが公園の真ん中に集約される形になった。それもいろいろ設計の変更があり、 ブラントンが描いたという図面も幾つか出てきている。

それらの過程を逐一追っていくと、横浜での外国勢力の動きなどがよくわかる。ちょうどいろいろなスポーツの クラブ、たとえばテニスやクリケット、ベースボールクラブなどができてくる時期とも重なっているわけですから。

篠崎 いろんな団体のせめぎ合いは、裏を返せば、諸外国の政治的かけひきでもあったわけですね。  

田中 ブラントンもイギリス人ですし、クリケットもイギリス人が得意とするところです。ですから、イギリス 主導で日本政府と決めているんじゃないかという、アメリカ公使デロングの苦情ですね。こういった勢力争い みたいなものもあったんでしょうね。

 

  植樹帯が歩道の建物側に設計されていた日本大通り

ブラントンは日本大通りの設計もやっています。現在の街路樹は、関東大震災後の復興事業によって歩道の 車道側に植えられましたが、当初は、植樹帯は歩道の建物側に設計されていました。

ブラントンは日本大通り全体の幅員一二〇フィート(三六メートル)のうち、工事費のかさむ車道の幅員を 四〇フィートにし、歩道一〇フィート、植樹帯三〇フィート(九メートル)として、植樹をすることによって道幅を 狭く設計した。これは経費の削減に配慮したものでしょう。

篠崎 実際は、誰がお金を出したんですか。

田中 日本政府です。慶応二年の第三回地所規則で、日本政府がつくるという約束になっていたので、明治政府が お金を出してつくっていくことになるわけです。ですからブラントンの提案は、経費の面などからも日本側に 支持されて進められました。

防火帯をつくり、埋め立ての中央部に公園を設けるブラントンの横浜居留地改良計画が、現在の関内(かんない)地区の 骨格をつくっているので、ブラントンを「横浜まちづくりの父」と私は呼んでいます。


外国人も日本人も利用出来る「彼我公園」が誕生

篠崎 正式に明治九年にオープンしたときは今と同じ広さだったのですか。

田中 外形は同じ。六・四ヘクタールです。

鶴岡 公園というのは、感覚的にもっと大きなものだと思うけれど、都市公園だから小さいですね。

田中 横浜公園ができる前、明治三年に山手公園がオープンします。それが洋式公園の始まりで、あとは明治六年、 日本政府が全国に呼びかけてつくる公園は神社の境内やお城の跡を転用する話だけです。きちんとした公園を つくっていこうというのは当時はなかったんです。

 

  公園は「彼我」でもスポーツ施設は「彼ら」だけのもの

田中 日本で最初の山手公園は、外国人たちが日本政府から土地を借りて自分たちのお金でつくった公園です。横浜公園は、 外国人(彼ら)と日本人(我ら)で共同利用するという形で日本政府のお金でつくる。ですから「彼我(ひが)公園」とも呼ばれています。

篠崎 日本人も一緒ということを、外国側は簡単に認めたんでしょうか。

田中 費用の点があると思いますね。外国側にしてみれば、山手公園は自分たちだけの費用でつくらなければならない。 横浜公園は日本人にも使わせるということで、日本の費用でつくらせる。ただ、当時、日本人は公園を使いこなす ような状況ではないから実際は「彼ら」の公園に近い。だから「彼ら」のほうがうまかったかもしれませんね。

明治十三年ごろと推定されるパノラマ写真がありますが、恐らく日本人は、横浜公園を通り抜けの通路ぐらい にしか使っていないと思います。外国人は日本政府に金を出させ、その中央はしっかりスポーツクラブが借り切った 形にして使う。

篠崎 そのスポーツ施設には、日本人の「我ら」は入れなかったんですね。

そう言われています。基本的にはクリケットクラブが借りる形になっていた。そのかわり、その中のテニスコート などの施設は恐らく自前でつくらなくてはいけないんでしょうけど。

明治十四年に横浜公園内に物産陳列場ができますが、日本人側の使い方としては、博覧会場とか、そういう 発想に近いのかもしれないですね。県の施設というか、商法会議所の分館という感じですね。

 

  公園はお上がつくるという日本の発想

鶴岡 いずれにしても日本人の公園の使い方は、ただ歩いたり、見たりするだけで、たとえばニューヨークの セントラル・パークみたいに、ジョギングしたり運動したりしないでしょう。最近、山下公園でジョギングしたりする 人がたまにいるぐらいで。

田中 山手公園は外国人のお金でつくったけれど、運営が行き詰まる。あそこでドッグショーを開いたり、フラワーショーを やっただけじゃ費用が出ない。それで、日本に返すから、日本政府で管理してくれという話になりますが日本政府も断る。

そこで、折衷案的に出てきたのが、外国人のご婦人のテニスクラブに使わせれば、そこから管理運営費が出る ということで、現在のようなテニスコートと公園という形になるんです。

鶴岡 山手公園は、最初は何に使っていたんですか。

田中 普通の公園で、最初はスポーツ施設はなかったんです。

そうですね。いわゆる催し場ですね。会員制みたいな形でお金を集めて、会員のレクリエーション・グラウンド みたいな感じだったんでしょう。ただ、外国人の発想として、自分たちが必要なものは、自分たちのお金で施設を 整えるという考えが強いですから。日本だと、公園はお上がつくるものというぐらいの発想しかないので、その辺が 大きな違いだと思います。

 

  第一高等学校と居留民との野球の国際試合

篠崎 施設を外国人が独占していた横浜公園のなかで、野球がおこなわれるようになったのはいつごろからでしょうか。

明治九年九月に、居留民とテネシー号など三隻のアメリカ軍艦からの選抜チームとの試合が、公園内のグラウンド でおこなわれています。

ちなみに、横浜開港資料館の斎藤多喜夫氏の調べたところでは、居留地の新聞『ジャパン・ウィークリー・メイル』 の一八七一年(明治四)十一月四日号に、アメリカ軍艦コロラド号の水夫と居留民とが九月三十日に野球の試合を したという記事がでています。場所は横浜公園のすぐ近くのスワンプ・グラウンド、現在の港中学校がある辺りです。 これが日本で最初におこなわれた野球の試合だといわれております。

田中
横浜公園内でのフットボール(サッカー)の試合
横浜公園内でおこなわれたフットボール
(サッカー)の試合 明治30年代後半
明治二十九年には旧制第一高等学校(現・東大教養学部)とYCAC(ヨコハマ・クリケット・アンド・アスレティック・クラブ)の 対戦が横浜公園でおこなわれ、二十九対四で一高が大勝したそうです。このときの一高選手のスタイルは素足に脚絆、 キャッチャー以外の選手は素手だったそうです。

クリケットグラウンドだけど、野球やフットボール(サッカー)、ラクビーなどもやっていたようですね。

横浜公園はYCACの根拠地ですから、いずれにしろ、横浜公園が横浜のスポーツのメッカであったことに なる。外国人のYCACは明治四十五年に中区矢口台に移転し、日本人がグラウンドを使えるようになります。


居留地撤廃後は横浜市が管理

篠崎 居留地が明治三十二年に撤廃されますが、その後、どういうかたちで横浜公園が「我ら」の公園になったので しょうか。

田中
横浜公園と大棧橋通り
横浜公園と大棧橋通り 
大正中ごろ(震災前)
明治三十二年に条約改正がおこなわれ、外国人が使っているクリケット場以外の所は横浜市の管理になります。 それまでは神奈川県が所管していた。

それから十年後の明治四十二年に、クリケット場の借地期限が終了し、全面的に横浜市に返ってくることに なりますが、これがかなり難航する。二年ぐらいやりとりがあるわけです。

外国側はもっと更新したいと言うし、神奈川県の当時の周布(すふ)公平知事は、それは認めないということで頑張る。 またその間に政府も入って、もう十年ぐらい延ばしたらとかいう話もあったけれど、県知事が頑張る。

その頑張る背景には、いろいろ世論があった。横浜のど真ん中のクリケット場が外国人専用とはけしからん という声。それから、これは私が考えているんですが、公園をつくって明治九年にオープンするときに、管理 運営費を、外国側と日本側で折半で負担しようということで協議に入るんですが、それを外国側が拒否する。

そのとき中島信行県令(県知事)が管理費を外国側に半分持たせると公園運営に将来、苦労をするかもしれないから、 そのぐらいは日本で持ったほうがいいんじゃないかと提案する。しかし国のほうは、もっと交渉して、半分は外国側に 支払ってもらえ、と話がつかない。結局、中島県令の主張通り、日本政府が全額負担することになる。そういう 経緯があって、それが結果的に周布県知事が外国側の更新の要求を拒否することができたことにつながったと思います。

 

  クリケット場を現在のスタジアムの所に移し野球場に

田中 明治四十二年に契約更改を拒否して、公園の管轄が横浜市に移ります。それで市が改造するんですが、従来 のクリケット場はちょうど公園の真ん中、今、噴水のある所一帯にあった。ですから公園の使い勝手が非常に悪く、 日本人はただ周りを歩くだけになる。

そこで、従来のクリケット場を花園橋側の現在のスタジアムの所に移し、野球場にします。それでほかのスペース を広くとって公園にするというスタイルができる。明治四十二、四十三年の二か年事業で、設計は茂出木朝次郎という宮内省の技師が担当しました。それがベースになって、今に来ているわけです。

篠崎 新しく改造された横浜公園の様子を写した着色の絵はがきがたくさん出ていますね。



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