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有鄰


有鄰の由来・論語里仁篇の中の「徳不孤、必有隣」から。 旧字体「鄰」は正字、村里の意。 題字は武者小路実篤。

平成13年7月10日  第404号  P1

 目次
P1 ○鵠沼の東屋旅館と芥川龍之介  佐江衆一
P2 P3 P4 ○座談会 熊田千佳慕の世界 (1) (2) (3)
P5 ○人と作品  桐原良光と『井上ひさし伝』        藤田昌司



鵠沼の東屋旅館と芥川龍之介

佐江衆一
 


  『蜃気楼』には芥川の感性が、死を予感してとらえた風景が

佐江 衆一氏
佐江 衆一氏
芥川龍之介は短篇小説『蜃気楼』の冒頭を、次のように書いている。

ある秋の午(ひる)ごろ、僕(ぼく)は東京から遊びに来た大学生のK君と一しょに蜃気楼(しんきろう)を見に出かけて行った。鵠沼(くげぬま)の海岸に蜃気楼の見えることはたれでももう知っているであろう。 現に僕の家(うち)の女中などは逆さまに舟の映ったのを見、「この間の新聞に出ていた写真とそっくりですよ。」などと感心していた。

僕らは東家(あずまや)の横を曲がり、ついでにO君も誘うことにした。相変わらず赤シャツを着たO君は午飯(ひるめし)のしたくでもしていたのか、垣越(かきご)しに見える井戸ばたにせっせとポンプを動かしていた。 僕は秦皮樹(とねりこ)のステッキをあげ、O君にちょっと合図をした。

ここに出てくる「東家」は「東屋」のことで、明治・大正と昭和初期の多くの文人たちが逗留した鵠沼海岸の割烹旅館「東屋」である。

『蜃気楼』の発表は芥川が七月二十四日未明に東京・田端の自宅で自殺したその年昭和二年三月の『婦人公論』で、執筆は、やはりその年、『河童』などとともに帝国ホテルでだが、鵠沼海岸で 蜃気楼が見えると話題になったのは、前年大正十五年(昭和元年)の秋である。芥川は妻文の実家が鵠沼に移ったこともあって東屋には時折り逗留していて、この大正十五年は四月二十二日から 五月二十五日まで妻子とともに東屋に滞在、六月にも滞在、江の島と海のよく見える本館二階七号室を使うことが多かったが、七月上旬からは、東屋の所有で東屋のすぐ近くの貸家「イの四号」を 借りて妻と数え年二歳の三男也寸志の三人で生活し、秋、小径をへだててすぐ横の二階屋の貸家に一時移ったのち再び「イの四号」にもどって、ほぼ年内いっぱいを過ごした。

したがって「僕の家」というのはそのどちらかで、いずれにしろ東屋まで三、四十メートルほどの距離しかなく、海岸へ出るには「東屋の横を」左に「曲が」り、さらに右に曲がるか、まず右に 「曲が」り、すぐ左に「曲が」って東屋の正門前を通って行くかである。ついでながら、芥川が誘った「O君」というのは、やはり近くの貸家にいた画家の小穴隆一で、芥川は自殺前に彼にも遺書を 書き、また子供らに宛てた遺書では「小穴隆一を父と思へ」と記しているほどの友人である。


  明治から昭和初期にかけて多くの文人が逗留した割烹旅館

関東大震災前の「東屋」
関東大震災前の「東屋」(池から本館を望む)
「鵠沼を語る会」提供
さて、このときの東屋は、三年前の大正十二年九月一日の関東大震災の罹災後に再建された建物である。創業は明治二十五年頃で、海岸までひろがる約二万平方メートルにも及ぶ広々とした松林に、 舟遊びのできる大きな池を配して、二階家の本館のほかに離れが幾棟も点在していて、裏門からは砂浜に出られた。

震災後は池がせばまって芝生や花壇ができ、二階建ての本館は部屋数がふえ、松林の中にはテニスコートが二面できた。創業者は宅地造成や別荘売買など鵠沼の開発に尽くした伊東将行と東屋の 初代女将長谷川ゑいである。明治三十一年発行の『風俗画報』は富士山と相模湾を配した東屋の豪勢な俯瞰図をのせ、案内文は次のようだ。

「江(え)の島(しま)を距(さ)る十二町。只這ひ渡る磯(いそ)つたひ。樓は明治(めいじ)二十二年の建築(けんちく)なり、境の閑静なる、景致秀美、魚は新鮮にして、海水浴すべし、避暑療養(ひしょれうよう)の客、徐ろに滞在せむには、江の島よりも優(まさ)るらめ。」

廃業したのは昭和十四年で、創業以来半世紀もの間にここに逗留して、思索し、執筆し、時には遊びの日々を過ごした主な文人たちは、次の人々である。

斎藤緑雨、徳冨蘆花、巖谷小波、徳田秋声、与謝野鉄幹・晶子、武林無想庵、斎藤茂吉、志賀直哉、大杉栄、武者小路実篤、谷崎潤一郎、里見とん(該当漢字表示不可 「ゆみへん」に「亨」を書く”弓亨”)、菊池寛、 久保田万太郎、直木三十五、宇野浩二、久米正雄、広津和郎、芥川龍之介、佐藤春夫、佐佐木茂索、吉屋信子、大佛次郎、宮本百合子。

 ほかにも大勢いて、明治・大正・昭和文壇の錚々たる顔ぶれである。古くは尾崎紅葉の硯友社の文人をはじめ、白樺派の雑誌『白樺』発刊に際しては志賀直哉と武者小路実篤がこの旅館で相談した。また、谷崎潤一郎は『悪魔』を はじめ初期の作品を東屋で執筆した。

日本近代文学の作家たちが同じ旅館に逗留して、作品を書き、また遊びもした一種の文壇サロンが半世紀もつづいた場所は、他にはないだろう。

大正十五年の秋を描いた『蜃気楼』では、「東家の横を曲がり、ついでにO君も誘」った芥川の一行三人は、「五分ばかりたった後、(中略)砂の深い道を歩いて行った。道の左は砂原だった。そこに牛車(うしぐるま)の轍(わだち)が二すじ、黒ぐろと 斜めに通っていた。僕はこの深い轍に何か圧迫に近いものを感じた。たくましい天才の仕事のあと、──そんな気も迫って来ないではなかった。」といった風景がひらけ、砂浜に出た「僕らはいずれも腹ばいになり、陽炎(かげろう)の立った砂浜 を川越しに透かしてながめたり」するのだが、蜃気楼は見えない。しかし、前記の牛車の轍や砂浜で見つける死者を水葬するときに付ける木札などの風物が、蜃気楼のようである。神経衰弱の不眠症が昂じてヴェロナールなどの睡眠薬 ばかりか阿片エキスまで服用するようになっていた芥川の感性が、死を予感してとらえた風景が描かれているのである。


  「東屋」の跡地に記念碑を建立

「東屋」の記念碑
「東屋」の記念碑
「鵠沼を語る会」提供
私がこのあたりを散歩するようになったのは、昭和三十四年の平成の天皇の御成婚のころからで、鵠沼の隣の片瀬に住むようになったのはその翌年からで、『蜃気楼』の昔とは風景が変わってはいたが、その後の宅地開発や海岸公園の整備で 昔の面影はほとんどなくなってしまった。

ことに九〇年代、急激に変貌し、東屋跡の住宅地や近くにあった「東家」という料亭が消えて、住宅と駐車場になったのは、五年ほど前、九〇年の半ばだった。この「東家」は「東屋」の創業者伊東将行氏の孫にあたる養子の将治氏が昭和二十五年に 開業した割烹料亭で、文人たちが逗留した東屋と混同されやすいが別のものである。もっとも芥川は「東家」と書いていて、当時そのように書く人はいたからややこしいが、料亭「東家」の前を通って「ここがかつて文人たちが逗留したかの有名な旅館か」と 思う市民は結構いたのだから、「混同」は悪くはなかったともいえる。が、その東家も跡かたもなく消えてしまって、折々このあたりを散策する私は、地元に住みこの地で消えるだろう作家の一人として、日本近代文学に深い関わりのある東屋がこの地にあった ことを後世に残せないものかと真剣に考えるようになった。

そこで神奈川文学振興会の理事になった九七年、このことを理事会で提案し、賛同を得て、中野孝次理事長と私から山本捷雄藤沢市長に東屋記念碑建立その他を提唱した。こうして藤沢市教育委員会が中心となり、神奈川文学振興会からは、私のほかに評議員の小山文雄氏、 そして、地元の熱心な研究グループ「鵠沼を語る会」の全メンバーが参加して検討委員会ができ、現地調査と会合を重ね、三年余を経て、今年二〇〇一年三月、現在の所有者から土地の提供を得て、記念碑と説明板等が昔の正門脇に完成し、三月二十二日に除幕式が行われた。

記念碑の石材は真鶴産小松石で高さ一メートル五〇、幅六〇センチ、ヨットの帆をイメージした形で、文字は、

  文人が逗留した
  東屋の跡

と、山本市長と委員会のすすめで私が揮毫した。書は好きで折々筆をもつが、これだけの大きな文字を、しかも石に彫るために書くのははじめてである。死後も永く残るのだから、文人として筆者冥利に尽きるというものである。

六月二日には、記念碑完成記念の公開講座が鵠沼公民館と「鵠沼を語る会」の主催でおこなわれ、多くの県民が集まり、私は芥川の『蜃気楼』を朗読して話をし、語る会の会員から話をききもした。

小田急鵠沼海岸駅にも案内板があるので、駅前から商店街をたどり、記念碑と説明板のある東屋の跡を往時をしのびつつ文学散歩をして砂浜に出ていただけば、あなた自身の蜃気楼が見えるかもしれない。なお、東屋については、高三啓輔著『鵠沼・東屋旅館物語』(博文館新社)が 詳しい。




 
 
さえ しゅういち
一九三四年東京生まれ。
作家。著書『黄落』新潮文庫580円(5%税込)、『不惑』講談社1,575円(5%税込)、ほか多数。





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