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有鄰


平成13年8月10日  第405号  P4

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 神奈川近代文学館 (1) (2) (3)
P4 ○箱根宮ノ下「奈良屋」旅館  岩崎宗純
P5 ○人と作品  早乙女貢と『会津士魂』        藤田昌司



惜別 歴史の宿
箱根宮ノ下「奈良屋」旅館
岩崎宗純





  江戸時代後期、名湯三日月湯として喧伝されていた奈良屋

岩崎 宗純氏
岩崎 宗純氏
江戸時代後期の宿帳
江戸時代後期の宿帳
(九鬼和泉守様奥様御入湯)
安藤紀之氏蔵・箱根町立郷土資料館提供
 箱根宮ノ下の名旅館「奈良屋」が、当主や関係者の懸命な努力にもかかわらず栄光の歴史を閉じた。

 起伏に富んだ豊かな歴史を誇る箱根温泉でも、江戸時代から同族によって経営が続けられている旅館は数少ない。湯本の福住、塔之沢の一の湯、芦之湯の松坂屋、紀伊国屋、そして宮ノ下の奈良屋ぐらいである。

 宮ノ下温泉の歴史は古い。戦国時代から底倉村と呼ばれていた同地には、この時代から底倉湯、宮ノ下湯、堂ヶ島湯と呼ばれる三つの湯治場があった。天文十四年(一五四五)、北条早雲の子で箱根権現の別当であった長綱(北条幻庵)は、底倉の百姓に禁制を与え、湯治場を保護している(「相州文書」)。  天正十八年(一五九〇)、秀吉の小田原攻めが始まると、底倉は秀吉軍の占領下となるが、秀吉も底倉の湯治場での乱暴狼藉を禁じ、湯治場を保護している(「片桐直倫掟書」)。

 小田原北条氏の敗北により、底倉村の湯治場にも平和が戻った。箱根地方は小田原城主に任じられた家康の直臣大久保忠世の支配下となるが、天正二十年(一五九二)三月、忠世は、底倉へ湯治に来る人々から湯銭を、一日一人一銭取ることを認めている(「後藤真成掟書案」)。

 宮ノ下湯は、箱根七湯の中でも豊富な湯量を誇る湯治場として知られていた。小田原藩主稲葉氏から大久保氏へ引き継がれた「貞享三年御引渡記録」によると宮ノ下の湯坪は十一か所で塔之沢に次いで湯坪が多い。各湯宿は屋内に湯を引き、内湯としていた。すでにこの頃から兵治の営む湯宿奈良屋は存在したものと 思われるが、残念ながらこの時代、「湯宿奈良屋」と記した史料は見出せない。

 湯宿奈良屋の名が見えるのは、安永七年(一七七八)に刊行された「関東所々温泉案内并道程」という温泉案内図で、宮ノ下温泉八軒の湯宿のなかに「奈らや兵治」の名が見える。これがいまのところ「奈良屋」の初見である。江戸後期、奈良屋は名湯「三日月湯」として喧伝されていた。湯槽に映る三日月が満月になるまでこの湯で湯治を すればどんな難病でも快癒するといい、有馬温泉の名湯「三日月湯」にも劣らないといわれていた。

  大名や家族が本陣として滞在した大名湯宿

奈良屋旅館(明治4年)
明治4年(1871)にモーゼルによって撮影された奈良屋旅館(『ファー・イースト』1872・1・1号から)
横浜美術館蔵
 奈良屋には寛政六年(一七九四)より幕末に至るまで、二十八点に及ぶ大名、大名の奥方、祖母、母、姫等の「御入湯控帳」いわゆる宿帳が残されている。寛政六年(一七九四)松平丹後守祖母、寛政九年(一七九七)阿部備後守、文化三年(一八〇六)松平淡路守母、同十二年(一八一五)松平阿波守室、文政七年(一八二四)大久保相模守姫等である。 これらの宿帳により奈良屋は、諸大名やその家族が本陣として湯治滞在する大名湯宿であったことが知られる。

 また、文化二年(一八〇五)、小田原宿と湯本温泉場との間に、東海道を往還する旅人の一夜湯治についての争論が湯本温泉場の勝訴となり、一夜湯治が公認されると、東海道を往還する大名行列も箱根七湯で一夜湯治を楽しむようになる。年不詳ではあるが幕末、九州熊本藩主細川肥後守の大名行列は、総勢五百名で宮ノ下を中心とした箱根の湯治場に乗り込むが、 この時奈良屋は肥後守の本陣になり、肥後守以下二百名が宿泊している(「肥後守様御泊御下宿控帳」)。

  西洋人として初めて箱根温泉に入湯したボーヴォワール伯

 慶応三年(一八六七)四月、フランスの青年貴族L・ド・ボーヴォワール伯は世界一周旅行の途中、日本に立ち寄り、三十五日間横浜に滞在した。その間、江戸見物、横須賀製鉄所の見学などをはじめ関東の各地に赴いている。

 ボーヴォワールが西洋人としては初めて箱根温泉を訪れ入湯したのは、同年五月十七日のことであった。東海道をへて宮ノ下を訪れた一行は、「当地の大カジノである一番立派な茶屋」(奈良屋)に着く。ここで彼は、入浴を終え大広間でくつろぐ宿泊客と出会う。「男女の浴客が三百名以上も、アダムとイヴの姿そのままで」くつろいでいたのである。彼はこの場所が ひどく面白そうなのでこの宿での宿泊を望むが願いは果たせず、階段を登り、奈良屋より高台にある別のややお粗末な茶屋(藤屋か)に泊まることになった。

 その夜は、一行はこの湯治場の熱い湯槽で男女混浴を体験したり、大広間で宿泊した日本人と唄や踊りで楽しい交歓を繰り広げた。ボーヴォワールにとって宮ノ下での一夜は思い出に残る夜だったようである(『ジャポン1867年』有隣堂)。

  明治天皇の奈良屋行幸啓を機に、箱根が政財界人の保養地に

 明治六年(一八七三)八月、明治天皇・皇后は奈良屋に行幸啓した。「登極(とうきょく)以来国歩(こくほ)の艱難(かんなん)に遭遇して寧日(ねいじつ)あられざりしが、今や維新大業其の緒に就けるを以て、是の歳始めて百官に暑中休暇を賜ひ其の勤労を慰したまふ」(『明治天皇記』)ということで、天皇も皇后とともに自ら宮ノ下に暑中休暇に赴いたのである。

 八月五日、天皇は行在所となった奈良屋に到着した。同旅館には昨夏皇后が三週間ほど滞在していた。天皇は同月二十八日まで奈良屋に滞在した。この間、堂ヶ島の渓流で魚をとったり、山中で鹿狩りを楽しんだりしている。二十日には芦之湖遊覧を試み、箱根神社に参拝、地元の漁民が湖で網を引き、鯉魚(こい)を獲る様子をご覧になっている。また宮ノ下で皇太后に贈る箱根細工の 小箪笥を購入している。

 十三日の夜には村民が歓迎の意をこめて対岸明星ヶ岳の中腹で点した篝火を鑑賞したり、二十一日には旧小田原藩伝来の「狼烟(のろし)ノ技」を鑑賞し、二十四日間の暑中休暇を満喫された。

 この天皇・皇后の奈良屋行幸啓は、箱根が「両陛下の御駐輦(ごちゅうれん)の地」として注目され、政財界人の高級温泉保養地として発展していく契機にもなった。

  明治二十年富士屋に対抗し奈良屋ホテルを新築

明治20年に新築された「奈良屋ホテル」(右側)
明治20年に新築された「奈良屋ホテル」(右側)
岩崎宗純氏蔵
 明治十年、福沢諭吉の門下で、米国帰りの青年山口仙之助が宮ノ下に姿を現した。山口は湯宿藤屋(安藤勘右衛門)を買収し、翌十一年、外国人専門の「富士屋ホテル」を開業した。その頃の奈良屋は明治七年の火事で焼失し、二階建ての本館が建てられたばかりであったが、その建物も十六年の宮ノ下の大火によって焼失し、再び再建の道を歩まなければならなかった。

 再建にあたって奈良屋は明治二十年、木造の洋式ホテルを新築した。三階建ての華麗なこの建物は「奈良屋ホテル」と呼ばれた。奈良屋がこのような洋式ホテルの建設を思い立ったのは富士屋ホテルとの対抗意識があってのことであろう。奈良屋は和風旅館ではあるが、外国人に対する設備、サービスも行きとどいていたので、宿泊する外国人も多かった。

 開港した横浜の居留地の発展とともに、箱根を訪れる外国人温泉観光客も年を追って多くなっていった。この観光客の宿泊をめぐって富士屋と奈良屋の激烈な競争が始まった。この競争は明治二十六年、両者が協定を結び、奈良屋は日本人専門旅館、富士屋は外国人専門ホテルとして営業を続けることで解消した(『富士屋ホテル八十年史』)。

  閑静なたたずまいを愛した政治家たち

 残念ながら奈良屋ホテルは関東大震災で倒壊し、古写真から往時の姿を偲ぶだけになった。しかし、早川の渓谷を隔てて眼前に広がる明星ヶ岳の緑の大パノラマ、遥か彼方には相模湾を眺望できる景観、二万坪余の敷地内の庭園は、ここに泊まった外国人も絶賛するほどであった。本館をはじめとする離れの別館の純和風建築は最近、国の登録文化財にもなった。

 すっぽりと緑に囲まれた閑静なたたずまいを愛し、大隈重信、副島種臣、緒方竹虎、岸信介などの政治家たちもしばし静養した。このような名旅館がいま歴史の彼方に消えて行く、惜別の想いひとしおである。




 

いわさき そうじゅん
一九三三年箱根生れ。
歴史家・箱根湯本正眼寺住職。
著書『浮世絵が語る小田原』夢工房2,100円(5%税込)、
『箱根七湯』有隣堂(品切)ほか。





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