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有鄰


平成13年9月10日  第406号  P3

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 北方「水滸伝」の魅力 (1) (2) (3)
P4 ○井伏氏の原稿  出久根達郎
P5 ○人と作品  逢坂剛と『重蔵始末』        藤田昌司

 座談会

鎌倉仏教と蒙古襲来 (3)


 

  これからの展開は解釈のし方で

藤田 先ほどもお話にでましたが、原典では叛乱軍は途中で政府軍に懐柔され、招安を受けるんですよね。北方さんの『水滸伝』は、今後は、どのように展開していくのでしょうか。

北方 「官位をあげるから来ないか」と言われて、行ったところ、最初とは話が違うというのはよくある話で、原典では盗賊の討伐に使われながら、百八人は次々に死んでいくんです。

篠崎 宋江も、少しの餌につられて行ってしまうのですか。

北方 行っちゃうんです。

篠崎 私のイメージと随分違いますね。

北方 そこから先は『水滸伝』はつまらないと言われているんです。

篠崎 そんなふうにはしないでくださいよ。

北方 先ほども言いましたように、私はそういうことはしません。宋江は、死ぬか死なないかは別として、最後まできちんと戦いを全うさせます。

藤田 招安されたりしませんね。

北方 本気で招安されるというのはまずいと思うわけです。けれども、政府軍の中に潜り込むという形で招安を受けることだってできる。いろんな解釈の仕方があって、そこら辺は決めてないです。

まだ百八人出ていないんですから(笑)。百八人全部を出すと、余りに混乱し過ぎて読んでいる方がおわかりにならなかったり。

ですから、少しずつ死なせています。原典では、戦いで死ぬのは晁蓋だけで、あとは全員、生きたままです。最後に招安を受けて、放浪の生活かなんかになったとき、バタバタッて死ぬんです。

藤田 全何巻ぐらいになるご予定ですか。

北方 現在は、とりあえず全十七巻ということになっていますが……。


『三国志』も『水滸伝』も男の生き方・死に方を書いたハードボイルド小説

藤田 この小説は、ほかの作家に影響をもたらしそうですね。

北方 そうですか。僕は割と、新しく出てくる作家たちに影響を与えた作家だとは言われます。ハードボイルドとか文体で影響を与えたと。でも影響を与えようと思って書いたことはないです。彼らは出てきたら、みんなライバルですよ。作家は年齢を重ねれば生産力がどんどんふえていくなんていうことはないんですから。彼らのほうが売れたら、この野郎と思いますよ。

若い人たちがそうやって力のある作品を書いてくると、僕ぐらいの年齢だと、負けるかよと思いますね。今だって彼らと殴り合いしても負けないなと思っているぐらいですからね。

藤田 最近、若い人もどんどん出ていますが、文体のめちゃくちゃな人もいます。それから北方さんの文体を真似る作家が出ていますね。短い切れ味のいい文体というか。

北方 何となく模倣しやすいらしいんです。模倣ということに余り意味はないんですね。文体は自分の呼吸みたいなものですから、自分の息づかいをどこかでつかんだ作家は自分の文体にしていく。

だから、僕の文体に影響を受けた人も、やがて自分の文体にすることができたら、その人は自分の文体を持ったことになるんだろうと思うんです。

 

  ヘミングウェイがつくった「文体」がハードボイルド

藤田 先ほど『水滸伝』はハードボイルドの一つの分野と言われましたが、最近は幕末期の歴史小説も書かれてますね。今、毎日新聞に、土方歳三を主人公にした「黒龍の柩」を連載中ですが、これもやはりハードボイルドの一変形ですか。

北方 僕はね、ハードボイルドは何なのかと、よく聞かれていたんですよ。そのときに僕の当初の認識としては、ハードボイルドは文体であるという認識だったんです。これはヘミングウェイがつくった文体です。つまり、直接的な心理描写をしない。

その文体を使って探偵小説を書いたのがダシール・ハメットで、ヘミングウェイとは相互影響があったんです。ダシール・ハメットの書いたものが、本当のハードボイルド小説という呼び名で呼ばれた文体なんです。

つまり、ヘミングウェイのときは、まだ「ハードボイルドな文体」という形で呼ばれていた。それがダシール・ハメットのとき「ハードボイルド小説」という形になった。その後、レーモンド・チャンドラー、ロス・マクドナルドと、ハードボイルド小説の作家たちが出てきたんですが、これはほとんど探偵小説だったんです。

藤田 日本では生島治郎さんなんかがそうですね。

 

  男はいかに死ぬかというのが僕の小説のテーマ

北方 それを男の小説という形で僕は書いてみた。ハードボイルド小説を書いてるつもりはなかった。男はきちんと生きようと思っても生きられない。男というのはだらしないわけです。卑怯なことはするまいと思ってても、してしまうとか、男の人生は自責のかたまりみたいなもので。

篠崎 女だって同じだと思うんですが……。

北方 ええ。でも、僕にはやっぱり男は男だ、というこだわりが一つあって、きちんと生きようとしたがために滅びていった男の小説を書きたかったんです。それを書いていくうちに、それをハードボイルドと言われたんです。そういうふうに、ジャンルとしては非常にあいまいな言葉としてハードボイルドは存在している。ですから『水滸伝』も『三国志』もハードボイルド小説です。なぜなら、自分がこう生きたかったと思う男の生き方が書いてあるから。結局、男の生き方の小説、男の死に方の小説。

いかに死ぬかというのが、僕の小説のテーマになっています。いかに死ぬかというのは、いかに生きたかということになるでしょう。だから、生き方を書くことだろうと思うんです。


時代が流れているときの人間を書いていきたい

藤田 北方さんの歴史小説は、激動史観というか、非常に激動の人間をよくお書きになりますね。それはやっぱり生き方・死に方ということと関係があるわけですね。激動の時代に生きることは、激動の時代を生き切って死ぬことになるわけですから。

北方 激動の時代は、その人間を激流の中に流してしまう場合もあるし、もしくは流される人間が、ふだんなら見ない自分を、しっかり見てしまうという状況もあるわけです。そういうものもすべてひっくるめて、いわゆる時代が流れているときのものを書こうと思っているんです。だけど今までは、戦国時代と幕末は避けて通ってきたんです。

藤田 そうですね、幕末のものをお書きになるようになったのは最近ですね。

北方 先ほどの、今、毎日新聞に連載している「黒龍の柩」がそうです。今までとまるで違う土方歳三を書こうと思っているんです。

篠崎 これまで、どうして避けていらしたんですか。

北方 戦国時代、幕末は、いわゆる普通の歴史小説で取り上げられることが非常に多いんです。 

藤田 書かれすぎているという感じですか。

北方
北方謙三氏
いいえ、書かれ過ぎているというよりも、その場所で努力されている方が、若い方からお年を召された方までいっぱいおられる。つまり戦国時代、幕末というのはすでに耕してある畑なんです。その畑に何かを植えて、「これは俺の作物」と言うのはとても申しわけないなと思ったんです。

それで、耕してない場所がどこかにあるはずだと思って見たら、南北朝だった。南北朝は、みんなが怖がって書かなかったんです。そこに鍬を入れて、ある程度の実績をつくったら、僕はどこで歴史小説、時代小説を書こうと自由だという資格が獲得できると思ったんです。

ただ単にハードボイルド小説を書いて、そこそこ売れているから、今度は新撰組を書くよというのは、その時代、時代できちんと努力しておられる方たちに対して失礼だろうと思ったんです。

 

  「旗」と「風」がキーワードの北方文学

藤田 僕は北方さんの小説を読んでいて“風”というものを非常に感じるんです。冷酷な風の場合もあるし、熱風のような風、生臭い風、愛欲を伴った風の場合もある。まさに“風”の文学という感じがするのですが。

北方 僕は“風”というのが好きなんです。現代小説の中にも“風”というタイトルがついているのがいっぱいあるんです。『風の中の女』とか『風裂』『風葬』『風の聖衣』『風群の荒野』……。

とくに『水滸伝』なんか書いていると、頭の中にいつも旗がパタパタとはためいているんです。それは学生時代、デモ隊の先頭でワーッとはためいていた、あの旗のために俺は体を張ってやっていると思ったことが忘れられないんですよ。

篠崎 「替天行道」の旗はいつも勢いよく、はためいていないと。しおれていたんではだめですものね。

北方 ですから、旗は、僕の小説を読むときのキーワードになるだろうと思います。

藤田 旗と風ですね。


子供の頃、外国航路の船長だった父に会うためたびたび九州から横浜へ

北方 北方 おやじが山下汽船の外国航路の船長だったので、船が横浜の新港埠頭なんかに入ると、おふくろは小さい僕を連れて唐津から横浜まで来るわけです。蒸気機関車で二十四時間ぐらいかかった。

横浜で降りて、おやじの船に行って、ニューグランドとか港の周辺のホテルに泊まるんです。それで、家族で中華街や伊勢佐木町に出掛けた。伊勢佐木町では野澤屋へまず行って、靴とか買ってもらう。

次が有隣堂で、おやじに、子供の本が売っている場所に立たされ、おやじが選んでくれればいいのに、「選べ」って言うんです。僕は何回も選ばされて買ってもらったので、それで、自分はどういうものが好きなんだというのがわかったりしました。

篠崎 子供の頃はどういう本がお好きだったのですか。

北方 まず絵本でしたね。僕が好きだったのは『ジャングル・ブック』とか。その後少しずつ字が読めるようになってから『スイスのロビンソン』とか。最初のころは絵本で、次は伝記という感じでした。エジソンとか、キュリー夫人とか。

小学校四年のときに川崎に引っ越してきたのですが、僕はある時期までは、本を買うときはずっと横浜の有隣堂さんに行っていました。高校生のときもです。

 

  無関心を装った父の会社の引出しに僕の本が刊行順に

北方 僕が初めて本を出したとき、出版社が余り刷ってくださらなかったので有隣堂さんにも二冊しか置いてなかった。それでおやじは、僕に「おまえの小説なんか誰が読むか」と言っていたのに、有隣堂さんに行って二冊とも買って、店長さんに「なぜ二冊しか置いてないんだ」「金に糸目はつけないから何十冊でも入れろ」と言ったと。店長さんが「何で何十冊も要るんですか」と聞くと、「こいつができの悪いせがれでよ」と言ったそうです。(笑)

僕が売れだして三、四年目に、おやじは六十歳で亡くなりました。だから、僕が売れないときに亡くなったんじゃなくて、マセラッティに乗ってぶつけたりしていたら、おやじが「何だおまえ、あぶく銭かせぎやがって、キザな車買ってぶつけてりゃ世話ねえな」とか憎まれ口ばかりたたいていた。でも、僕の本には一切関心は示さなかった。

ところが、おやじは仕事場でいきなり倒れたまま亡くなったので、母を連れておやじの会社に行って、おやじの部屋の引き出しをあけたら、僕の本が並んでいる。こっち側は読んだ、こっち側は読んでないと刊行順にです。「何だよ、畜生」という感じで。

 

  「男は十年だ」と言ったおやじのことば

北方 僕がまだ売れないころ「俺は小説家というのは職業と認めない」と言っていたにもかかわらず、十年ぐらい売れない作家を続けていたとき、みんながやめろと言ったんですよ。おふろくを始め周りの人間みんなが「どこまで人生を棒に振れば気が済むんだ。学校も出ているのに肉体労働なんかして、何を考えているんだ」と言ったときに、一言だけ、おやじが「男は十年だ」と言ったんです。「十年同じ場所でジッと我慢していられるかどうかによって、何か決まることがあるんだ」と言ったんです。

で、そのときは「てやんでえ、このやろう」と思ったんですよ。ところが十年たったら本が売れてきて、おやじがパッと亡くなった。うちに運ばれてきて、翌日が週刊誌の締め切りだから、おやじのそばで線香を絶やさないようにして立てながら、原稿を書いていたんですよ。

そのとき、おやじは十年と言ったよな。十年たったら、おやじの亡骸のそばで原稿を書かなきゃならないぐらい忙しくなった。それを言いたいと思ったのに、死んだ。「それはねえよな」という感じだったですね。

 

  父祖に導かれて書いた最初の歴史小説

篠崎 先生は唐津のご出身ですから、多分に大陸の血が入っておられるんじゃないですか。

北方 完全に入っていると思います。唐津と言うぐらいですから。『武王の門』を書いたときに、肥後の菊池武光が九州を統一していくときに最初は二百五十人しか兵隊がいない。それで、どうやって守護を破るんだと言ったら、どんどん兵隊が増え、五千くらいの正規軍になる。僕の最初の疑問はなんでこんなに軍隊を抱えられたんだと。そこから小説を書こうと思った。

調べていくと、松浦水軍の佐志というのが出てきた。僕の住んでいた所は佐志だったんです。その名前と菊池武光のつながりが非常に強いというのが出てきたので、『武王の門』を書いたときに父祖に導かれたと思った。それでやっと謎が解決できて小説が書ける段階になった。しかも自分がかつて暮らしていた土地に行き着いたのは、ものすごく不思議な気分でしたね。

篠崎 楽しいお話をありがとうざいました。




 
きたかた けんぞう
一九四七年佐賀県生れ。
 




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