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有鄰


有鄰の由来・論語里仁篇の中の「徳不孤、必有隣」から。 旧字体「鄰」は正字、村里の意。 題字は武者小路実篤。

平成13年10月10日  第407号  P1

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 鎌倉仏教と蒙古襲来 (1) (2) (3)
P4 ○路面電車復興の時代  今尾恵介
P5 ○人と作品  塩澤実信と『本は死なず』        藤田昌司

 座談会

鎌倉仏教と蒙古襲来 (1)

   早稲田大学講師   伊藤 聡  
  東京文化財研究所美術部研究員   津田 徹英  
  神奈川県立金沢文庫主任学芸員   西岡 芳文  
              

はじめに

編集部
校合を行う親鸞
一切経の校合を行う親鸞
(京都・仏光寺蔵『善信聖人親鸞伝絵』)
*印の写真は金沢文庫展示目録『蒙古襲来と鎌倉仏教』
から
鎌倉時代、日本は二度にわたってモンゴル軍の脅威にさらされました。世にいう「蒙古襲来」ですが、この大事件に際会した当時の人人は、不安と恐怖から神や仏にすがるところとなり、平安末期から鎌倉初期に起こった仏教の革新運動は、新たな展開を見せることになります。

神奈川県立金沢文庫は、金沢北条氏が創設した金沢文庫があった場所に再興されたもので、現在、特別展「蒙古襲来と鎌倉仏教」が開催されています(十一月十八日まで)。この展覧会では、蒙古襲来前後の為政者や僧侶、あるいは当時の庶民層の動きを明らかにしながら、そこにあらわれた宗教や思想について、幅広い視野から紹介されております。

座談会出席者
左から津田徹英氏、西岡芳文氏、伊藤聡氏
本日は、蒙古襲来とそれを契機に鎌倉の宗教界にあらわれたさまざまな事柄をお話しいただき、蒙古襲来が日本に与えた影響を探っていきたいと思います。

ご出席者を五十音順にご紹介いたします。

伊藤聡さんは、早稲田大学講師で、中世思想史がご専門でいらっしゃいます。

津田徹英さんは、独立行政法人東京文化財研究所の研究員で、美術史がご専門です。

西岡芳文さんは、神奈川県立金沢文庫主任学芸員で、中世史をご専攻です。今回の「蒙古襲来と鎌倉仏教」の展示を担当していらっしゃいます。


50年以上も続いた蒙古襲来の脅威

編集部 金沢文庫には蒙古襲来に関する資料がいくつかございますね。

西岡 今年の春に、「北条実時」の展示をしたのですが、その後に、秋には「蒙古襲来」をやったらいいんじゃないかという話が出たのです。そのときに蒙古襲来といっても、文永・弘安年間の華々しい戦の史料はないので、ちょっと首をひねったんですが、 鎌倉仏教関係の史料でしたらたくさんあるので、今回は、その方面から見た蒙古襲来をテーマにしたわけです。

ただ、一般的なイメージと実際の蒙古襲来は大分違うんではないかというのが今回の展示の一番のポイントです。 蒙古襲来というと、文永十一年(一二七四)と弘安四年(一二八一)の合戦という、あたかも台風が二つ来たようなイメージがあると思うんですけれども、実はそれだけではなかったのです。 文永合戦の前から蒙古は日本に迫り、鎌倉幕府が滅びる一三三三年まで、蒙古の脅威は続いていた。ですから、五十年以上も蒙古襲来の危機に日本じゅうがおびえていた。危機の時代が非常に長かったわけです。

 

  九州だけでなくサハリンにも来襲した蒙古軍

西岡 もう一つのポイントは蒙古が襲来したのは九州だけではないということです。これが言われるようになったのはこの十年ぐらいですが、蒙古はサハリン(樺太)に進出している。当時の人々の意識では、鎌倉幕府は北と西から攻められて滅亡に向かったと思われていたようです。

つまり、日本列島の端っこと端っこに強力なプレッシャーがかかったという状態が蒙古襲来ではなかったか。その状態が五十年続いたと考えますと、これは単に台風が二つ来たというようなイメージではとらえられない、もっと大きな影響があったということなんです。

いわゆる鎌倉仏教は、平安末から蒙古襲来の直前までに出そろっている。それが蒙古襲来という緊張感の中で、それぞれ独自な形で結晶化していったのではないか、というのが今回の展示の大きなねらいです。

 

  元の皇帝の国書や、高麗王の手紙を展示

編集部 どのような史料が紹介されているんですか。

西岡 蒙古襲来の関係で言えば、蒙古襲来の文永、弘安の役が終わった後ですが、元の成宗が日本の国王にあてた国書とか、高麗王から来た手紙が写しで残っています。これらは同時代に写された貴重な史料です。あとは仏教的な書物のなかに、断片的に蒙古襲来にかかわるような記事があります。

編集部 教科書などでは、蒙古襲来は二回で、神風が来て終わった。そして時宗がその後亡くなって、時宗の事績として語られる。

しかし、その後も蒙古の脅威は続き、単に外国と初めて合戦をしただけではなくアジアの中の日本という意味で、蒙古襲来が一つの転換点になったという位置づけで見ていく必要があるわけですね。

西岡 たとえば蒙古が仮に九州あたりを占領して、その支配が二、三十年続いたら、日本も随分変わっただろうと思うんです。

歴史を研究している人の認識でいえば、蒙古がユーラシア大陸を制覇したことで世界史が始まるんです。それまでの歴史は地域ごとに考えていればよかったのが、モンゴル帝国ができたことによって、初めて世界が同じ舞台の上で語れるようになった。 幸か不幸か日本がそこから取り残されたという側面がある。

 

  対中国意識で日本人のナショナリズムが高揚

津田 美術のほうからいうと、それまでも中国は当然意識としてありましたから、たとえば鎌倉の場合は、唐様(からよう)という趣味で、積極的に唐物を受容していた。だから、当然親密性を持ったのに、蒙古襲来によって全部そういうものを落としていくんです。

彫刻の様式も、たとえば、北条実時がつくった称名寺の弥勒菩薩像は、表向きは宋風というんですが、最近では和様としてとらえようとする。十三世紀初頭の宋風とは違って、自分の理解しやすい和様を基本にしながら、つめを延ばしたりとか、髷を高くしたりということだけで、親しみやすいものにしている。やはりあの時期は一つの転換があったというか、日本人としての意識を再認識した時期だと思うんです。

それまでは、中国から何でも構わず受容していたんですが、ある意味で日本人のナショナリズムの高揚というのがあって、禅にしても単に中国から入ってきたものをそのまま受容するというものではなかったと思う。

伊藤 伊藤 外国、特に中国に対する従来からの意識は、過度な崇拝と排除の感情がないまぜになっていたわけですが、このときに蒙古という異質な項が出てきて、排外意識の部分は「ムクリコクリ」として結晶化を見せたということができないかなと思うんです。

津田 隋、唐、宋は日本に非常に影響を与えたのですが元はちょっと違う。



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