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有鄰


平成13年10月10日  第407号  P3

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 鎌倉仏教と蒙古襲来 (1) (2) (3)
P4 ○路面電車復興の時代  今尾恵介
P5 ○人と作品  塩澤実信と『本は死なず』        藤田昌司

 座談会

鎌倉仏教と蒙古襲来 (3)


  金沢北条の倉栖(くらす)氏も、浄土真宗をかなりバックアップしていたことがわかってきました。彼の本拠は下総の下河辺庄で、あの周辺が一つの基盤になっている。それが室町時代にちゃんと残っているのはやはり彼らがいたからです。

貫達人・石井進両先生編の『鎌倉の仏教』(有隣堂)では浄土真宗が抜けている。これは、関東管領上杉氏とか後北条氏とかの弾圧があって、関東の真宗の拠点が全部つぶされてしまい、それがみんな京都や甲信越に逃げて行って、今、ほとんど残ってないのですが、それ以前は、いわば百花繚乱でいろんな芽が出ていた。 その種がまかれたのが蒙古襲来のあたりからで、そういうものが立ち上がってきたのが十三世紀後半からととらえると面白いと思うんです。


安達泰盛一族は高野山に帰依し、町石を建てる

編集部 霜月騒動で平頼綱に滅ぼされた安達泰盛は蒙古襲来のときにどういう信仰をもっていたのでしょうか。

西岡
安達泰盛が建てた高野山の町石
安達泰盛が建てた高野山の町石 *
鎌倉時代の密教はたいへんわかりにくい世界で、法流を追いかけてもお寺や人を追いかけても、つながりが見えてこないんです。

それで、安達泰盛という人物を通して何か語れないかと思ったわけです。つまり、安達家は三代にわたって真言密教の高野山を支配している。安達三代は単に出家して帰依するだけでなく、僧となって金剛三昧院を開いたりしている。当時の金剛三昧院は高野山の坊さんの三分の二ぐらいを支配していたんじゃないか。

安達氏は、息子に家督を譲った後は高野山に隠居しています。泰盛の祖父景盛は実朝が殺害されたあと高野山にこもっていたのですが、三浦氏を滅ぼすというときには鎌倉に出てきて、総指揮をとっている不思議な存在です。

蒙古襲来のとき、安達泰盛は幕府側の御家人統率の最高幹部です。彼は、高野山で町石(ちょういし)という道しるべを麓から奥院まで百何十本も建てたり、高野版という出版活動をしています。高野山自体を真言密教の中心にしようという意図があったと考えていいんでしょうね。

伊藤 高野山は、当時の密教界では完全にマイナーな存在ですからね。

 

  蒙古撃退の最終兵器「室生の舎利」を鎌倉にまつる

西岡 その泰盛が蒙古に勝つためには、弘法大師伝来の舎利さえあれば日本は救われるという平安時代にできた言い伝えを信じて舎利を手に入れる。それを自分の鎌倉の菩提寺の無量寿院に安置した。

編集部 舎利はどこにあったんですか。

西岡 室生寺の石窟の中というんです。それを鎌倉に安置することによって蒙古を退散させようと考えたのでしょう。だから、私は、この舎利のことを「最終兵器」というようにたとえてみました。

弘安の蒙古襲来が終わったあと、安達氏が建立した町石の完成記念式典が高野山でおこなわれました。その会場の絵図面が金沢文庫に残っているんですが、それがまさに弘安八年の霜月騒動で安達氏が滅びる半月前なんです。

そのときの法会で読み上げられた文書が高野山に残っていますが、それを見ると、とにかく安達氏三代は高野山の大檀那であると讃えられています。

記録がないので断言はできませんが、私は、安達泰盛一族が、その高野山の儀式に参列している可能性があるんじゃないかと想像するんです。「最終兵器」を手に入れて蒙古を滅ぼし、高野山を曼荼羅世界として完成させた。そのさなかに鎌倉でクーデター計画が練られていて、帰った途端に霜月騒動でやられた。 そういう劇的なことがあったんじゃないか。

 

  泰盛の居館の北に頼綱が支援する真宗の拠点が

津田 泰盛を滅ぼした平頼綱は真宗です。しかも、泰盛の居館は鎌倉の甘縄で、その邸内に無量寿院があって、その北側の常盤に一向堂という頼綱がバックアップする真宗の一つの拠点ができるわけですからね。鎌倉末期には親鸞の孫の唯善(ゆいぜん)がそこへ来る。

西岡 世俗世界でも、宗教世界でもそうなんですが、安達氏が絶頂に達した瞬間に、周りで虎視たんたんと引き落としを狙っていた。

伊藤 政治権力と宗教権力の二つを握ろうとすると、九条家などもそうですが、その直前にバーンとたたかれる。安達氏も、その野望があからさまになった時点で滅ぼされる。脱宗教化した戦国期以降の権力者像からはちょっと想像もできないんですけれど、この時期は、泰盛も、単なるパトロンであること以上に宗教世界にコミットしている気配がある。それを周囲が非常に恐れる。 弘法大師の舎利という秘密の伝授で受けた情報自体が、極めて大きなパワーを持つということが信じられていて、政治的な権力を握る以上に強い力を持っていたからこそ、みんな恐れて潰しにかかるというのはあったのかもしれない。

 

  法華の力でアジアに行こうとした日蓮の弟子・日持

西岡 日蓮の母体になる天台の考え方の史料を読みますと、中国の天台宗が滅びて、法華の教えは日本にしか残っていないという意識を、とくに比叡山の人が持っていた。そこで、逆に日本から法華の教えをアジアのほうへ広めようという考え方は、そのころからあったんじゃないか。 中国から学ぶべきものはなくなり、日本の母体になったものは大陸ではもう滅びたんだという意識が、これは天台に限らず、いくつかの宗派であったかもしれない。

伊藤 法滅ということですね。

西岡
『立正安国論』を進上する日蓮
北条時頼に『立正安国論』を進上する日蓮
(鎌倉・安国論寺蔵『日蓮聖人註画讃』)
そうです。今のバーミアンなんかと二重写しになるんです。玄奘三蔵がシルクロードを通ってインドへ行ったときには、インドでは仏教なんて風前の灯だったわけです。

蒙古襲来を撃退することに成功し、日本が仏国土であることが証明されて、日本での意識の高まりというものが、そういう動きにつながっていくんじゃないか。

日蓮の六人の有力な弟子の中に日持(にちじ)という人がいます。日蓮が亡くなった後、ひょう然として北のほうに旅立って帰ってこなかった。北海道に渡って、その後、樺太に行ったか沿海州に行ったかわからないんですが、そういう人物がいるんです。

日蓮はとにかく蒙古が攻めてきて、法華経を信じなければ日本は滅びるぞということを力説した。しかし、信じないで日本が滅んだら、その後どうなるということは日蓮自身はほとんど何も言っていないんです。だから、そこは一体どう考えているのか、疑問は残ります。日持の謎の行動は、何か日蓮の遺志みたいなものを受け継いでいるのかなと思うんです。

そういえば、モンゴルが中国を制圧したときに、チベットにパクパというチベット仏教の高僧がおりました。チベットが、あすはモンゴルにのみ込まれて皆殺しになるかもしれないというときに、その坊さんが単身乗り込んでいって、逆にモンゴル皇帝を改宗させるんです。それからモンゴルはチベット仏教を国教とするようになるんです。

そういう存在が実際あったわけで、もしかすると、日蓮の弟子の日持などは、モンゴル皇帝を折伏しに大陸に渡ろうとしたんじゃないかと。  日本の法華信者たちの意識が高まっているとしたら、そういうことは十分あり得るのではないかなと思うんです。

 

  蒙古襲来で日本が神国として強調される

津田 蒙古襲来によって日本人としてのアイデンティティが揺すられるなかで、新仏教とされるものが、すくすくと育っていったという気はします。

伊藤 でも、そういう動きは、鎌倉初期あたりから出てきているわけで、蒙古襲来によってどういう点が以前の段階と、がらっと変わったのかというのは、ちょっとわからない気もするんです。

「神国」という意識は、対外的に非常な緊張状態にあった、律令体制確立期の日本がつくりだした自己像でした。それが対外的緊張の緩和とともに次第に忘れられる傾向にあった。しかし、 神国という意識が蒙古襲来のときまで忘れられていたわけではない。日本が神国であることがクローズアップされるのは十一世紀半ばぐらいからです。それとともに神功皇后の三韓征討説話などが再び語られるように なってくる。

そして鎌倉時代に入り、蒙古襲来のときになると、さらに強調され出したのは事実です。しかし、それ以前に登場した神国思想と、どこがどのように変わったのか、もう少し子細に吟味する必要があると思います。

日宋貿易がだんだん盛んになって、海外の文物が鎌倉に入り、経典も新しいものが入ってくることで、新しい学問の潮流も生まれてくる。そういうことが起こってくるのが十二世紀ぐらいで、これは、ある意味で対外交流の活発化の正の側面ですが、 負の側面が非常にわかりやすい形で出てきたのが蒙古襲来です。それまでは、文物を輸入していた人たちは、侵略の脅威は基本的に感じていなかった。むしろ情報を摂取する対象としか見ていなかったと思うんです。


「粟散辺地」から「神国」とする見方へ

伊藤
外宮内宮曼荼羅 外宮内宮曼荼羅
外宮内宮曼荼羅(鎌倉時代)*
伊勢神宮の二つの宮に祭られる神々を、密教の両界曼荼羅に見立てて配置した図。
神国思想に関していうと、中世的な神国思想は両義的な感情で成り立っています。粟散辺地(ぞくさんへんち゛)という、非常に否定的に自分たちの国を見る見方と、我が国は神孫が統治し、神の加護を受けた神聖なる国土であるという二つの、ある意味で矛盾している感覚が 併存する状態でできています。

蒙古襲来の後にできた『八幡愚童訓』を見ますと、自国に否定的な粟散辺地観は、その後だんだん影響力を持たなくなり、むしろ神国は肯定的な自国意識になる。

それ以前は、たとえば無住の『沙石集』では、我が国は粟散辺土であるから、その地の住民は仏法の真理を理解できず、仏道に入ることもできない。だからこそ仏は日本人の気質にあった神という姿であえてこの地に現れる必要がある、という意味のことをいっています。つまり、日本が 神国であるというのは、他国よりすぐれているからというより、むしろ劣っている証拠だというロジックが展開されるのです。

ところが、蒙古襲来を契機に、粟散辺地という要素が退潮し始めるのではないか。粟散辺地の考え方は、浄土教もそうですが、当時、共有されていた「常識」です。末世であり、かつ辺地であるからこそ阿弥陀にすがるしかないという発想です。この意識がこのころから次第に崩れていくと いうことは言えるのかなと思うわけです。

 

  伊勢神宮の周辺に律や密、浄土系教団が勢力を伸ばす

編集部 蒙古襲来によって他にも大きな変化が起こったと思うんですが。

西岡 密も律も、それから真宗もそうなんですが、西に向かう道ですね。東海道から三河の国、伊勢、そこから京都、山陽道。そのルートが宗教のことを考える上でかなり重要じゃないか。つまり、蒙古戦に備えるために、御家人の大軍を派遣する流通システムができ上がるわけです。 当然それは軍勢を運ぶだけじゃなく、兵站物資を運ぶわけです。その道に沿って、たとえば真宗なんかを見ますと、三河から伊勢に向かって発展している。多分、律もそうです。

そういったルートができてくる中で、神仏習合の両部神道の一つの中心があの辺にできてくる。人の流れ、物の流れと密接な関係があるんじゃないかというイメージが浮かびます。

伊藤 ちょうど蒙古襲来の時期に、律をはじめとする各宗派が神宮の周辺に拠点をつくる。叡尊の門流が弘安三年に内宮のそばに弘正寺という伊勢の律の中核になる寺院を創建します。禅のほうでも、文永年中に、円爾弁円が津の無量寿寺で瑜祇(ゆぎ)経の講義をやっているんです。

西岡 禅宗の坊さんといわれている人が、密教をやっているんですね。

伊藤 彼は東福寺でも大日経の講義をやっています。その後、蒙古襲来が終わってから、円爾の弟子の痴兀大慧(ちこつだいえ)が安養寺流という禅密兼修の一派を神宮の近くでつくる。その法流が尾張の大須の真福寺に伝えられるんです。

それから醍醐三宝院の通海が法楽舎というのを神宮につくります。それまでは法楽のための読経は、神主の菩提寺などでやっていたんですが、専門の施設を内外宮の脇に、建治元年(一二七五)につくる。そこが三宝院流を中心とした東密の専門の祈祷所として固定されるんです。

 

  神との提携のもとでおこなわれた教線の拡大

編集部 伊勢神宮に仏教の祈祷所ができるわけですね。

伊藤 ええ。この時期に集中して、各宗派が意識的に進出してくるんです。まさに教線の拡大が神との提携のもとでおこなわれる。叡尊がそうですし、伊勢神宮へは行ってませんが日蓮もそうです。神が、自らの教線を拡大するための絶対的な要件だという意識があったということです。

津田 たとえば、親鸞のひ孫の存覚(ぞんかく)が『諸神本懐集』を書いて、神を位置づけざるを得なかったのは、そのあらわれだと思うんです。

結局、伊勢が蒙古襲来を契機に何かすごいパワーを持って、宗教者はみんな西の方へ引きつけられる。真宗だったら三河を拠点にしながら、伊勢をにらんでということになります。

伊藤 ただ、神、とくに伊勢神宮のような神と結びつくことは、ナショナルなものと骨がらみの関係になることです。普遍性を獲得できず、あくまで日本という場においてのみ機能するロジックとして展開していかざるを得なくなる日本宗教の宿命が、ここにもある気がしますね。

編集部 どうもありがとうございました。




 
いとう さとし
一九六一年岐阜県生れ。
 
つだ てつえい
一九六三年滋賀県生れ。
 
にしおか よしふみ
一九五七年東京生れ。
 




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