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有鄰


平成14年4月10日  第413号  P3

 目次
P1 ○オペラ「春香」  高木東六、高木緑
P2 P3 P4 ○座談会 わが愛する丹沢 (1) (2) (3)
P5 ○人と作品  早瀬詠一郎と『しらべの緒』        藤田昌司

 座談会

わが愛する丹沢 (2)


 

  昭和二十四年にシベリアから帰り横浜山岳会に入る

大沢 奥野さんが戦争から帰ってこられたのは……。

奥野
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丹沢周辺図
満州に三年、シベリアに四年いました。シベリアから帰ってきたのが昭和二十四年十月です。その数か月前に、引揚船でシベリアから帰国した人たちが、そのまま京都での集会に参加して騒ぎになった京都事件が起きたばっかりだったんです。共産党に集団入党するとか。僕が帰ってきた船は誰も共産党に入らなかったんだけど、会社では「共産党の筋金入りが帰ったきた」と組合で大騒ぎになった。それで東洋鋼材を辞め、翌年、日本鋳造に入った。

相模野会は終戦後は再建されなかったので横浜山岳会に入りました。川崎の家は空襲で焼けてしまったんですが、山の写真だけは、家内が小田原の実家に持って行ってたので残ったんです。


明治6年に丹沢に登ったアーネスト・サトウ

篠崎 登山は西欧から入ってきた概念ですよね。

大沢 そうです。丹沢もそうですが江戸時代までは、山には山岳信仰の対象として修験者が登ったり造林や伐採、炭焼きなどの生業のために登ったわけです。

こういった、信仰や生業のためではなく、登ること自体に楽しみや価値を見いだす登山、いわゆる近代的登山は、日本には一八七〇~八〇年代に、イギリス人を主とするヨーロッパ人によって持ち込まれたといわれています。

篠崎 明治六年(一八七三)十一月にイギリスの外交官のアーネスト・サトウが丹沢を歩いているそうですね。

サトウが『日本旅行日記』に「丹沢でアトキンソンが遭難」と題して書いてますが、サトウはアトキンソン、ハネン夫妻といっしょに横浜を出発し、大山から蓑毛に下り、ヤビツ峠、札掛から宮ヶ瀬に出て相模川を船でくだり、厚木に出ています。その途中、札掛の先の大洞渓谷でアトキンソンが遭難するんですが、無事、宮ヶ瀬にたどりつく。

奥野 僕は、その時のコースを歩いたんです。アトキンソンの「反省記」によれば、渓谷を下って行って、うっかり大きな石を越えてしまい、戻るに戻れず、岩山をよじ登り川を越え、ずぶ濡れになってようやく宮ヶ瀬にたどり着いた、とある。遭難というより、一人で、戻れなくなったということでしょうね。

大きな石を越えた所というのは、小さな峡谷になっていて、胸ぐらいの深さの川が流れている。僕も渡れるかなと思ったんですが、上を回って反対側へ行ってみて、行かなくてよかったと思った。行ったら、やはりアトキンソンと同じように戻れなかったと思う。彼は寒いときに、あの沢を下って宮ヶ瀬まで、よく無事に行ったと思います。

篠崎 当時、宮ヶ瀬は居留外国人に人気があったようで幕末から明治初期のベアトの写真にも何枚かありますね。

植木 サトウは前年の明治五年に、富士山から山伏峠をへて、道志経由で宮ヶ瀬に行っている。つまり、北から行ったので、今度は南から行こうとしたんでしょうか。

 

  明治から昭和にかけ植物調査をした武田久吉

篠崎 サトウの次男で植物学者の武田久吉さんも丹沢によく行かれたそうですね。

奥野 武田さんは、明治三十八年にできた山岳会(のちの日本山岳会)の発起人の一人で、明治後期から昭和にかけて、たびたび丹沢で植物調査をされ、僕も手紙のやりとりをしたことがあります。

明治三十八年に初めて登った塔ノ岳では、頂上のウメバチソウとウスユキソウの大群落が素晴らしかったと『明治の山旅』に武田さんが書いている。今、丹沢にはウメバチソウはほとんどないですね。袖平山辺りには最近までありましたが。

塔ノ岳に登って、丹沢山塊は都会に近いにもかかわらず山や川が深山幽谷なのに興味をもち、翌年は蛭(ひる)ヶ岳に行っているんですが、その時は天候が悪くて登れなかった。


材木を運び出した木馬道や森林軌道

大沢 奥野さんも植木さんも人が山で暮らしていたり、いろんな形で山を利用していた時代の様子を随分ご覧になっていると思いますが。

植木 木馬道は丹沢には随分ありましたね。山に入るときも下るときも、どうしても通らなくちゃいけない場所だった。シュトルテさんが言われたように真ん中を歩かないと、すべりやすい。だから一列で歩く。沢筋の所などに橋がかかっていて、そこに木馬道がついていますがちょっと見ると断崖です。山仕事の人は、木馬道の棒の間に足をつけてよく引っ張ったりして行ったなと、すごく感心しました。

あと、かなり急な所は歩くよりは、木馬道のそりの上に乗ったほうが楽です。「乗っていかないか」と乗せてくれる人もいますし、「危ないからやめておけ」と言う人も。乗せてもらったこともありますが、「そのかわり命は保証しねえぞ」と。(笑)

奥野 昭和三十六年に子供を連れて広沢(こうたく)寺温泉の裏山から日向薬師に行ったんです。道を歩いて行くと、川の所に木馬道があった。子供は怖いと言って、はいずっていた。あれが一番後まで残っていた木馬道かも知れません。

それから、世附(よづく)川一帯の材木は、水ノ木から浅瀬の製材所まで森林軌道のトロッコで運んだ。何回か乗せてもらったことがありますが、植木さんと同じで、「命が要らなきゃ乗っていけ」なんて言われて、一番前に乗ると、カーブの所では、乗っかっている丸太のところが川の上に出ちゃうんです。トロッコは昭和四十一年まであったそうです。

植木 私は木を山から出すような現場もよく見ました。ワイヤーが今でも山の中に残骸として所々に残っていますよ。あるいは上で伐り出したのをワイヤーでずうっと引いて、下に降ろす。

水ノ木橋を渡る森林軌道
水ノ木橋を渡る森林軌道
(昭和29年)
奥野 幸道氏撮影
奥野 木馬がなくなってから、今度はケーブルでおろすようになった。

 

  炭焼き小屋や林業に従事する人びとの集落

大沢 その時代は山の中に住んでいる人も相当いたわけでしょう。奥野さんが登ったときはどうでした。

奥野 水ノ木には以前は飯場が五、六軒あったんです。地蔵平には昭和三十五年まで小学校の分校もあった。

東の早戸川上流の大平にも集落があって、林業をやっていたそうですが、関東大震災でほとんどがだめになったそうです。

篠崎 親しくしてらした方もいらしたのですか。

奥野 大平では炭焼きをやっていた斉藤さんのうちには、よく泊めてもらったね。それから、去年、春木屋という旅館に行ったら、家を改築して、昔の資料は何もないと言っていたけど、あそこには武田久吉とか、昔の人はみんな泊まったんです。

大沢 植木さんもいろいろお付き合いがありました?

植木 私は、奥野さんより少し若いから、そこまで付き合いはなかったけど、山の中には炭焼き小屋がたくさんありましたね。炭焼き窯は冬は暖かいんです。土まんじゅうみたいで、夜、オカン(野宿)するときに、横によく寝たことがあります。

あと、最初の頃は山は頂上ばかりをねらっていたのが、だんだん年とともに下ってきました。麓には文化がいろいろあって、興味深いですね。奥野さんはよくご存じだと思いますが、いろいろ鉱山もあったんです。

奥野 水無川の上流のセドノ沢の大日鉱山からはマンガンが出た。

植木 あと神ノ川にも結構鉱山の坑道があった。

 

  水害で残ったご神木の箒スギに調査を兼ねて登る

大沢 奥野さんは箒沢(ほうきざわ)の箒スギに登られたそうですね。

奥野
箒スギ(左端)が水害にあう前の箒沢の集落
箒スギ(左端)が水害にあう前の箒沢の集落(昭和31年) 奥野 幸道氏撮影
一番親しかったのが戦前から付き合いがあった箒沢の佐藤浅次郎さんで、御料林の見回り役人みたいなことをやっていたと思うんです。

それで大正時代に浅次郎おじいさんがご神木といわれた箒スギに登り、上から縄をたらして、箒スギの高さを測ったと言っていました。おじいさんが登ったんだから、僕もということで、昭和四十五年に友だちと二人で登ることになった。七時から登り始め、登り終えて降りてきたたのはお昼だった。

てっぺんが折れて皮がはがれているのが心配で、その調査を兼ねて登ったんですが、上は直径が二十センチぐらい。風で折れたらしいんだけど、新しい芽がいっぱい出ていてすごく元気がよかった。

シュトルテ 水害のときによく残りましたね。

奥野 昭和四十七年の水害のとき僕はちょうどNHKの取材で行っていて遭遇したんです。七月十日に箒沢の浅次郎おじいさんのところに泊まって水ノ木に取材に行って、十一日は雨が降っていたけれどユーシンに行った。それで十二日の朝からすごい集中豪雨だったんです。


素晴らしい天王寺尾根のブナ林や富士山

篠崎 みなさまは丹沢のどこが一番お好きですか。

シュトルテ 辛いですね、いっぱいありすぎて。一つは、ブナの林。丹沢山から東に行く天王寺尾根のブナ林はいいね。

奥野 僕もブナ林。ブナ林が少なくなってきて寂しいんだけど、今残っているのでいいのはやはり天王寺尾根。

植木 私はブナ林の素晴らしさを初めて感じたのは檜洞丸でした。それから最近は、蛭ヶ岳と丹沢山の間にある鬼ヶ岩から少し下りた所のブナがきれいですね。

奥野 あそこはシロヤシオの群生があるんです。

鬼ヶ岩から富士山を望む 鍋割山のブナ林
鬼ヶ岩から富士山を望む
(富士山の右手前は檜洞丸、右奥は南アルブス)
奥野 幸道氏撮影
鍋割山のブナ林
 奥野 幸道氏撮影
シュトルテ 天王寺尾根はブナが枯れているということはないでしょうね。

大沢 大木は元気ですが、下草が全然なくて、若い木がないですね。マルバダケブキやバイケイソウなど、シカが食べない草が繁茂してます。

植木 日高辺りはブナの墓場みたいですね。

大沢 二十年ぐらい前までは本当にきれいなブナ林でしたよね。

奥野 僕は百年計画でブナの林をつくってほしいと言っているんです。百年ないとダメです。ダムをつくっても、ブナがなければいい水はたまらないんです。それをどうやって実現するかですね。 

 

  人と行き合ってもじーっと見ていて逃げないカモシカ

シュトルテ もう一つ素晴らしいのは動物との付き合いですね。シカと違ってカモシカは人が近づいても逃げないんです。じーっと見ている。

初めてカモシカにあったのは長尾尾根の上ノ丸からオバケ沢に入る道でしたが、藪からカモシカが飛び出してきて、立ち止まったんです。カモシカはウシと同じ種類だということを思い出し、ドイツでは牛の乳を搾るのに音楽をかけるので、「菩提樹」を歌ったんです。そうしたらじっとして聞いていましたね。

奥野 僕も山神峠で、尾根にいるシカの写真を撮っていたら、後ろの方で何か気配がするんです。それで振り向いたら、すぐ後ろでカモシカがじーっと僕の方を見ている。サッと逃げないんです。雨の日で、毛に雨の雫がたまっていて、その姿は今でも忘れないね。

植木 私も山神峠で、何度かカモシカと行き合いましたね。やはり、こちらの顔をじーっと見ているんですよ。そのうちに山の奥のほうへ入っていきましたけど。

大沢 カモシカは少なくなったんじゃないですか。シカのほうが強いから。

植木 クマの写真を撮りに札掛のちょっと奥の山に行ったことがありますが、クマの温かい糞は見つけたので、近くにいたことはわかったのですが、結局、クマにはあいませんでした。



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