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有鄰


平成14年7月10日  第416号  P3

 目次
P1 ○明治の新聞にみる妖怪  湯本豪一
P2 P3 P4 ○座談会 福富太郎−私の絵画コレクション (1) (2) (3)
P5 ○人と作品  北原亞以子と『妖恋』        藤田昌司

 座談会

福富太郎−私の絵画コレクション (2)



コレクションの始めは安価な幕末の浮世絵から

篠崎  そもそも、福富さんが絵画のコレクションを始められたきっかけというのは……。

福富  これは株と同じで、僕の集めているのは関東大震災の前、東京大空襲の前というのが基本なんです。これは両方の大火災に燃やされて物がないんです。

一番最初は浮世絵から入ったんだけど、浮世絵の世界では、たとえば、僕の好きな新版画の川瀬巴水の絵で言えば、大正十二年の前は高くて、十二年の後はガタンと下がるんです。なぜかというと、震災前に巴水が描いていたのは、焼けてほとんどない。震災後はまだ出回っているんです。ところが、東京大空襲でまたなくなっているけど、それはしようがない。だから、震災前のは少ないというのに気がついたんです。

篠崎  最初のころは投資だったんですか。

福富  それだけじゃないですけど。二部上場の株を買うのと同じですね。昔は鈴木春信はものすごく高かったけど今は安い。僕は春信なんかを見ても別に感激も何もしないんですよ。だから、幕末物ばかり買っていた。

当時、版画を扱っている商人はみんな戦前派で、その息子たちが僕と同年輩で、息子たちはみんな、これから必ず北斎画とその周辺の幕末物が上がるぞというので、版画は幕末物を集めたんです。そしたら案の定、絵の値段は、今は十分の一ぐらいになって大損しているけど、当時、僕は人気のものを持っていたから逆にもうけました。

 

  有名な浮世絵コレクターだった丹波恒夫氏とも会う

福富  そこに行くまでに、いろいろありました。東京オリンピックのときに千坪のキャバレーをやって、お金がうんと入った。それで投資として浮世絵を買っておこうと。東京オリンピック前は、浮世絵がずっと安かったんです。

猿渡  肉筆浮世絵ではなくて、浮世絵版画ですよね。

福富  そう。そのころ、三原コレクションと言って、戦前・戦後を通じて、一億円程度のコレクションが売りに出たんです。リッカーミシン社長の平木信二さんが、僕が買おうと思っていたのを、全部買ってしまった。そのころ、浮世絵コレクターとして有名な丹波恒夫さんもいました。

猿渡  丹波コレクションは現在、神奈川県立歴史博物館が所蔵されていますね。

福富  丹波さんとは版画収集のころに随分お会いしました。骨董屋さんに行くと、丹波さんが座っているんです。版画屋がへへーとしていて。まだ博物館に譲る前だけど。丹波さんあたりから見れば、僕の集めているのは末期物と言って、幕末物で大して価値はなかった。

 

  戦前派にはかなわないので肉筆浮世絵に転向

猿渡  幕末物の版画の中には、横浜浮世絵なんかも入っていたわけですか。それとも北斎とかですか。

福富  横浜浮世絵も持っていますが、北斎とか、もっと時代が降って溪済英泉とか、歌川国芳とか。

猿渡  国芳を高く評価されていらっしゃいますね。

福富  ええ。でもみんな、「末期物ねえ」なんて言ってばかにするんですよ。「今、幾らで買っているの、あんた」と言うから、五千なら五千でこれだけですと。「そんなに高くなったのか。私は小学生の時から集めているけど、五円だった」とか、五厘とか言われちゃうんだよね。

この人たちに幾ら刃向かっても戦前派でかなわない。よし、この人らを見返してやろうと肉筆浮世絵に転向し、肉筆浮世絵をうんと買った。それで肉筆では一番だというぐらい僕は集めたんです。

篠崎  すごい。

福富 
一光斎芳盛 「薩摩屋敷焼討之図」
一光斎芳盛 「薩摩屋敷焼討之図」
(福富太郎氏蔵)
それで、浮世絵界に佐野平六という人がいて、僕の店に来て、「ちょっとおたくのを見せてください」と言われて、見せたら、「これは全部にせものです」と言う。そして来なくなった。それで僕もしゃくにさわるから、市でみんな売った。そしたらまたその平六が来た。みんな売ったと言ったら、「何だ、あんた、惜しいことをしたな」と。「あんた、にせものだと言ったじゃないか」と言ったら、「いや、本物も入っていますよ。私が全部売らせてもらおうと思ったのに」と言うから、僕は怒って、「俺から安くして取ろうとしたんだろう。もうこの店に出入りしないでくれ」と。

そのうちこっちは入院し、暇だったから、病室に骨董屋を呼んだりしましたね。 それで、入院していた時、買った肉筆浮世絵が、これがまた全部贋物なんですよ。一回に一億円ずつぐらい損をしていた。あのころは儲かってしようがないから、びくともしなかったけど。

篠崎  すごい金額ですね。

 

  集めた浮世絵がすべて贋物だったことも

福富  その後、浮世絵の研究家でリチャード・レインという人が訪ねてきたんです。「あなたの集めている肉筆浮世絵を、全部見せてください。私も見せてあげますから」とトランクを持ってきた。僕にこれは全部贋物ですと言うんだ。 佐野平六で一回失敗しているから、僕は怒って、「あんた、日本画なんかあんたにわかるわけないだろう」と言ってしまったことがある。

篠崎  収集していると、思いがけないことがいろいろあろでしょうね。

福富  当時、僕はかなり買っていました。宮川長春とか結構古い肉筆浮世絵ですよ。

篠崎  平六さんという方が贋物をつかませる、福富さんの出会った最たる人ですか。

福富  ええ。絵に描き込んだり、何でもやるんです。字なんかもすごくうまくて、平六さん、箱書きしてくださいと言うと「はい」ってササッと書く。それで平六が死んで、僕ががっかりして、これで浮世絵もおしまいだな。これ以上集めるわけにいかない。僕は実は目があったけど、目がないからと言ったら、みんなも「そうですね。平六さんに死なれたらもうだめですね」と言っていたが、平六が集めたのは全部贋物だった。

 

  書画・骨董品の収集家、菅原通済氏の影響も

篠崎  若いころに随分ご苦労をされ、キャバレーで財産を築かれるわけでしょう。それで美術品を買おうと思われたのはどうしてですか。

福富  損もたくさんしましたけどね。僕は若いころの一時期、鎌倉の菅原通済先生の秘書のようなことをやっていた時期があるんです。菅原さんは日本で最初の自動車専用道路を作ったり、鎌倉山を分譲地にして販売したり、江ノ電の社長さんでもあった。政治にも関わっていて、性病・麻薬・売春の「三悪追放」を訴えたことでも有名です。

その菅原さんが書画や骨董品をかなり収集され、今は常盤山文庫となってます。そんな影響もあると思います。

篠崎  なかでも版画に興味を持たれたのはどうしてですか。

福富  実は僕は油絵のほうが好きですが、当時、版画しか手近になかったから。

平六も入れて、浮世絵商がいて、一枚二、三千円で買えるから買ったんだけど、結局は好きじゃない。描いたもののほうが好きですよ。

僕が持っているのは、国芳なら国芳、同じものをほかの人がまた持っているから、比べられるわけだ。福富さんの持っているのは、摺りが悪いとか何とかね。向こうが持っているものは戦前に集めたからみんないいんですよ。丹波さんにはあまりいいものが入りませんとも言われていたらしい。丹波さんのようなあれだけの人でも言われる。

猿渡 一点ものだったら、比較されるなんていうことは絶対ないわけですね。

福富  ない。それと、版画を集めている人は、肉筆画は贋物が多いから買わない。現に北斎だって、僕は全部贋物だと思っている。本物はほとんどないですよ。


美人画の収集−鏑木清方との出会い

猿渡  福富コレクションといえば、やはり鏑木清方をはじめとする美人画に素晴らしいものがたくさんありますよね。清方は、福富さんと横浜美術館との出会いのきっかけであったと思うんですよ。

当館の大塚雄三が、鏑木清方の展覧会(一九九〇年)のときに、福富さんの所にお伺いして作品をお借りしているんです。

福富  大塚さんとは、それ以前、尾道の美術館で鏑木清方を中心に展覧会をやっていたときから知りあいでした。当時、尾道に出品されている清方さんの絵を見て、これは粗末に扱っているような感じだけど、なかなかのものを出しているなと。

というのは、すばらしい扇形のものがあったんですよ。これは「いい」と言わないほうがいいぞ。目玉は清方だから、これをうまく安く買い取れば、目を抜いたようなもんだなと思っていたんだけど、後で聞いてみると、ちゃんと大塚さんは知っていたらしいんだ。こっちはわざと触れないで、横尾芳月はいい、なんて他のをほめたりね。

 

  臨時ボーナスで鏑木清方の「祭さじき」を買う

猿渡  清方の絵画を集められたきっかけは。

福富 
鏑木清方画伯と福富氏
鏑木清方画伯と福富氏 (清方邸にて、昭和42~43年頃) 福富太郎氏提供
僕が最初に絵画を買ったのは昭和二十六年、当時キャバレーのボーイから支配人に抜擢された臨時ボーナスで鏑木清方の「祭さじき」という作品を買った。絵画コレクションの始まりですね。

それと、僕の子どものころ、父が清方の絵を持っていて、家の中に飾ったりしていました。だけど東京大空襲で、防空壕の蓋が少しだけ開いていて、中にしまっておいた清方の絵画を焼いてしまったんです。

その後、昭和四十一年ころの入院時、浮世絵の贋物を集めてばかりじゃ切りがないから、今度は清方、池田輝方、池田蕉園、その辺を本格的に集めようと。

その時、医者から「あんたは金、金ってがめついから胃潰瘍になったんだ(笑)。絵でも見て少しのんびりしなさい」と言われたので、骨董屋にたのんで、どんどん病室に持ち込ませた。病院から「うちは骨董屋じゃない」と怒られましたよ(笑)。

だけど、そのとき、清方の贋物をつかんだ。どうもおかしいから、いろいろ考えた末に初めて清方先生のうちに使いをやった。そしたら先生が、「これは真っ赤なにせものです。こんなものを集めちゃいけないから私が全部見てあげましょう」と。若い社員を使いに出したんだけど、清方先生は丁寧に応対してくれた。その時、僕は大家とはこういう人をいうのだろうと、とても嬉しく感じましたね。

 

  収集した清方作品はご本人が全部目を通している

福富 
池田蕉園 「宴の暇」
池田蕉園 「宴の暇」
(福富太郎氏蔵)
僕は清方先生がご存命中に、鎌倉・小町のお宅へ何度もおじゃましたんです。

初めて訪れたのは退院後の昭和四十二年ころです。人から「清方先生の作品ですよ、ほかにないものです」とか、「贋物ですよ」とか、いろいろいわれているようなものを持って、毎週日曜日のお昼に先生の所へ行くんです。それで直接見てもらって、先生に「これはだめだよ」と言われたら、それはキャンセル。 その中でも僕の自慢は「渓水」というサインがあったもの。ある人が、「これは清方です」と僕の所に持ってきた。「おかしいな」と周りの人は言っていたけど、僕はこれは面白いと思って、先生の所に持っていったら「あっ、これは私のです。これは(伊東)深水君なんかに見せれば、贋物と言われるだろう。私がまだ(師事していた)水野年方先生の所に行っているときに、父(戯作者・條野採菊)が私に渓水という名前をつけてくれたんだ」と。それはもう売ったけど、とっておくべきだったね。

だから、僕の持っている清方先生の作品は、清方先生ご本人が全部目を通している。作品を、十本なら十本置いていって、次にまた十本持っていって、前の十本を返してもらう。そこに先生が絵詞といって、その絵にまつわるいわれを全部書いてくれる。 「これは私が十八ぐらいのときに描いたものだ」とか、奥さんが証人で、「おーい」と呼ぶと奥さんが来て、「見てみろ、おまえ、これは珍しいだろう。金沢にいたときに描いたんだよ」とか。こっちはできるだけそういう絵を集めて持っていくと、それをなつかしみ、「これは戦後描いた絵だな」とか。戦後描かれた絵は少なく、明治に描いたものなんかが多かった。

 

  池田輝方、蕉園の作品収集を断念

福富  いまでも残念だと思うのは、中川一政の「監獄の横」や寺内萬治郎の「裸婦」、片多徳郎の絵とか、売ってしまいました。清方はほとんど売ったことはありませんが。

猿渡  池田輝方とか蕉園は見る機会がほとんどないですが、マーケットに出ているんですか。

福富  出たらみんな買っちゃうけどね。安いんですよ。

猿渡  じゃ、ライバルは。

福富  いなかったのが、画商に「ライバルが現れました。松岡清次郎という人です」と言われた。お金持ちで自分で買いに行くらしい。いくらで売れたんだと聞くと、えらく高い値段です。それから僕は買わなくなった。松岡さんは骨董や陶器を集めていましたが、絵画にまで手を出してきたんで。彼にはかなわない。

猿渡  松岡美術館は二〇〇〇年に御成門から白金台に移転しましたね。輝方も蕉園も若くして亡くなっているからそんなにたくさん描いてないのでは。

福富  あるのはほとんど買いましたから。

猿渡  じゃ、骨董屋さんや美術商の人も、これが出てくれば、とにかく福富さんの所に持っていきましょうと。

福富  そうそう。あと北野恒富とかね。

 

  妖艶な空気がただよう池田蕉園の日本画

猿渡  来年春に横浜美術館で開催予定のフランス人浮世絵師のポール・ジャックレーの展覧会の準備を今やっています。お父さんがフランス語教師として招聘されたため、ポール・ジャックレーは数え年四歳で日本に来ているんですが、十代のころ、この池田輝方、蕉園夫妻に 日本画を学んだと言われているんです。それで軽井沢のアトリエについこの間も行ってきて、まさに肉筆浮世絵ばりの日本画が幾つか残っていました。

蕉園と輝方のことは、一般にはあまり知られていないのですが、福富さんの『絵を蒐める』に、二人の恋の行方から全部書いてあって、興味津々でした。かなり妖艶な空気がただよってくる日本画ですね。



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