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有鄰


平成14年9月10日  第418号  P4

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 グレート=ブックス=セミナー (1) (2) (3)
P4 ○ヨコハマ 私の好みに合った街  バーリット・セービン
P5 ○人と作品  高野和明と『グレイヴディッガ−』        藤田昌司



ヨコハマ——
私の好みに合った町

A Historical Guide to Yokohamaを書いて
バーリット・セービン

(編集部訳)




  米軍横須賀基地でフリゲート艦に乗り組んでいた七〇年代

バーリット・セービン氏
バーリット・セービン氏
 私が初めて横浜に足を踏み入れたのは、一九七〇年代の中頃のことだった。当時、私は、米軍横須賀基地でフリゲート艦に乗り組む、二十歳を過ぎたばかりの三等海尉だった。士官には、いわば“持てる者”と“持たざる者”の二種類があり、“持てる者”は結婚して家族がいるだけでなく、住宅手当のような物質的な特典もあった。私は独身、つまり“持たざる者”の方だった。横須賀基地の司令官は、おそらく“持たざる者”がしばしば不平を言い、大声で騒ぐことを理由に、その宿舎を横浜の新山下町にあるベイサイド・コート(米軍新山下住宅宿舎)に割り当てた。

 ベイサイド・コートには図書館、スナックバー、そして長い階段を昇った一番上に士官用のクラブがあった。居住者はほとんどおらず、私は船員仲間や飲み友だちのマイク・リレック以外に、同輩の士官に会った覚えがなかった。この宿舎は何ら特徴のないコンクリートの建物で、廊下は薄暗く、静かで、薄気味悪いところだった。バスルームの備品といえば、過去の時代の遺物だった。私たちは横須賀へ向かうシャトルバスに乗るために、朝早く起きなければならなかったけれども、とても幸福な“持たざる者”だった。

 当時の横浜は、今より、もう少し潮の香りがした。桜木町駅から海にかけては、みなとみらいの超高層ビルではなく、三菱重工業の造船所があった。堀川河口にははしけが集まり、運河の上の高速道路はまだなかった。そして、大桟橋には横浜とアジア大陸の間を定期的に往復する輸送船が停泊していた。

 七〇年代にはべトナムから血の気の多いGIが休養と娯楽のために横浜へ来ることはもはやなくなっていたし、横浜の悪名高い暴力は減った。けれども、多くの商船が入港して船乗りが上陸し、円も安かったので、酒場はマドロスを客にするだけで商売が成り立っていた。船員たちは、小さな酒場が集まり、ハッピーストリートと呼ばれていた中華街の裏通りへ、あるいは伊勢佐木町のギリシャバーや根岸家へと引き寄せられていった。

 根岸家は二十四時間営業の酒場で、そのメニュー(寿司、おでん、焼き鳥)と同じように、占領下には多岐にわたるお客(やくざ、パンパン、水夫など)で賑わった。老人がアコーディオンを演奏し、演奏のないときはお客はジルバかマンボを踊った。

  日本の文化を世界へ報道する熱心な活動家に

私は船乗り相手の勘定の高い店には行かず、中華街にあったジャズクラブによく出かけた。また元町にある「チェリッシュ」という名の地下にあるパブで時間を過ごした。

山下公園一帯
山下公園一帯 (神奈川新聞社提供)
 ロレンス・ダレルは「あなたは二つの生れた場所を持っている」と『青い渇望』の中で書いた。「あなたが実際に生まれた場所、もう一つは実際に現実に目覚めた好みに合った場所である」と。私は、日本が私の好みに合った場所かもしれないと思い始めた。 もしそうだとしたら、私はその言葉、つまり日本語を解読する必要があると考えた。なぜなら、私はしばらく日本で過ごすことになるかもしれないから。「チェリッシュ」は言葉を学ぶには理想的な場所だった。

 この小さな親密なパブは、横堀智久という愛想のよい音楽家が経営していた。客は友好的で、ほとんどが日本人だった。智久の言葉によれば、私は「ミウチ」として歓迎された。私は「チェリッシュ」の家族の一員に加えられて「ジャンソー」で麻雀牌をかき混ぜて夜を過ごし、葉山の海岸で「オンナノコ」を見て日を送り、午後にはビールを大いに飲みながら、モダンジャズを聴いた。 「ミウチ」「ジャンソー」「オンナノコ」をはじめ数え切れないほどの新しい言葉を会話や看板から収集し、私はいつも持ち歩いていた小さなノートに忠実に写しとった。

 日本が私の好みに合った場所だとしたら、何が私が見ている現実なのだろうか。私はラフカディオ・ハーンが横浜に上陸して東洋で初めての日を過ごしたときのように魅了された。また、私の観察力は彼と同じように浅かった。夢中になることは批判的な能力を排除してしまう。

 その後、私は日本のムスメと恋に落ちた。だが、『蝶々夫人』のピンカートン中尉とは異なり、私は日本に止まり、結婚した。私は海軍を去り、船乗りは、永遠に陸に上がった。

 三島由紀夫は小説『午後の曳航』の中で、海での生活を放棄し、横浜で陸に上がった船乗りのことを書いた。三島の描いた船乗りは海に栄光を感じなくなったからだが、私は『イースト』という英文雑誌の編集者の職を引き受けるために東京に行った。

 『イースト』は一九六四年に井上靖の弟の森田達によって創刊された。彼は世界の他の国に比べて、日本からの情報は少なく、その不均衡を是正するためにこの雑誌を始めたのである。

 その時までに私は、日本が私の好みに合った場所であることに気づいていた。そして私が現実に目覚めた場所は、私の生まれたニューヨークとは、大きく異なっていた。自然に対する奥の深い感性(俳句)、竹の上に降る雪(他のどこにも見ることはできない)、死を容認すること(切腹、カミカゼ、葉隠)。私は日本の文化を世界へ報道する熱心な活動家になった。

  チャーミングでコスモポリタンな町だった横浜

 私は陸に上がったが、心の中では、決して海から離れたわけではなかった。潮風の匂い、霧笛の低い音、ミナトの灯かり、それらが私を招き寄せ、私はそれに応えた。一九八五年の後半に、私は横浜へ戻った。

 雑誌の仕事では、私の関心は、日本の歴史および文化に幅広く及んでいた。しかし、横浜への回帰は、私に港町としての横浜に焦点をあてさせることになった。私はたくさんの本や雑誌の記事を読み、十九世紀の旅行者の書物にも手をつけた。私は横浜開港資料館で多くの時間を費やしたため、私の妻は自分のことを「資料館未亡人」と苦情を言うほどになった。メモを書いた三インチ×五インチ(手のひらサイズ)のカードは五つの箱がいっぱいになるまで増えていった。

 横浜はガス灯とレンガの、また、海岸通り(バンド)や西洋風の公園のあるチャーミングで、コスモポリタン(国際的)な都市だった。

 フィリアス・フォッグのコミカルな召使であるパスパルトゥーは、横浜を「香港とカルカッタと同じようだ」と、そして、「あらゆる国籍の人々でごったがえし、彼らは、アメリカ人やイギリス人、中国人、オランダ人で、ほとんどが何でも買い何でも売るという商人たちだった」と観察した。ジュール・ヴェルヌが八十日間で世界を一周するという賭けに、主人公のフォッグを登場させた魅力的な場所だった。

  建物や風景が古き時代の横浜の幻想にいざなう

私は最近になって、横浜の歴史的な案内書を英文で書くことを有隣堂から依頼され、メモの入った箱を手にした。しかし、案内書を書くためには、三インチ×五インチのカードに書き込まれていた以上に多くのことが必要だと気づいた。カードは私の読書の集約にすぎなかった。私は町を発見するために外へ出ていかなければならなかった。それは、文字通り、古い諺にある「灯台下暗し」を実証することになった。

 東洋と西洋が入り交じったホテル・ニューグランドのロビー、アール・デコで装飾された氷川丸、そしてオウムを生き生きと描いたステンドグラスの下で、チャーリー・チャップリンが座っていた一等船室、さらに五十年以上もの間、人々が海を眺めていた場所である山下公園が、古き時代の横浜の幻想にいざなうことをマリンタワーの下で感じたのである。

 野毛ではジャズ喫茶「ちぐさ」を見つけた。そこは、渡辺貞男、日野晧正、秋吉敏子、さらにその他の日本のジャズの神々ともいえる人びとを祀ったジャズのホコラ(祠)ともいうべきものだった。

明治時代の本牧十二天
明治時代の本牧十二天
 そして、本牧には涙を禁じ得なかった。本牧は失楽園である。古くは江戸時代から風光明媚な所として賞賛され、幕末にはペリーが十二天の崖をその色から「マンダリン・ブラフ」と名づけて、神奈川へ向かう航路の目標にした。 明治時代には、原善三郎が三之谷に別荘の松風閣を建て、明治から大正時代には、原三溪が庭園を作った。一九一六年、ラビンドラナート・タゴールは松風閣に滞在中に、彼の長い警句的な詩「さまよえる鳥」を書く着想が湧き、その詩を原三溪にささげた。

 しかし、本牧の海岸は埋め立てられ、ペリーが横浜へ向かう航路の目標とした十二天の崖はもう海からは見えなくなってしまった。それは見捨てられ、フェンスで囲まれ、クズの葉が生い茂り、まるで「失われた美」の墓石のように立っている。

 私は、まだ横浜で何かを発見しつづけている。そして、自分が横浜をどれだけ知らないかを恐れてもいる。私の好みに合った場所で、私は謙虚さの本質を知った。


 

Burritt Sabin
一九五三年ニューヨーク市生まれ。『イースト』編集長。
著書 A Historical Guide to Yokohama-Sketches of the Twice-Risen Phoenix
(『英文版 ヨコハマ歴史ガイド−二度、不死鳥のように甦った町』) 有隣堂2,625円(5%税込) 10月下旬刊行。



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