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有鄰


有鄰の由来・論語里仁篇の中の「徳不孤、必有隣」から。 旧字体「鄰」は正字、村里の意。 題字は武者小路実篤。

平成14年10月10日  第419号  P1

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 鎌倉大仏建立750年 (1) (2) (3)
P4 ○自由民権の里・平塚市南金目  大畑哲
P5 ○人と作品  井上荒野と『ひどい感じ 父・井上光晴』        藤田昌司

 座談会

鎌倉大仏建立750年 (1)
−記念特別展と発掘調査の報告−

   文化庁文化財審議会専門委員・成城大学教授   清水 眞澄  
  神奈川県立金沢文庫長   高橋 秀栄  
   鎌倉大仏周辺発掘調査・主任調査員   福田 誠  
              

はじめに

編集部
国宝・阿弥陀如来像(定印)−高徳院
国宝・阿弥陀如来像(定印)−高徳院
(井上久美子撮影)

座談会出席者
左から高橋秀栄氏・清水眞澄氏・福田誠氏
鎌倉・高徳院の大仏は、建長四年(一二五二)に鋳造が開始されてから、今年は七百五十年に当たります。これを記念して、神奈川県立金沢文庫では特別展「鎌倉大仏と阿弥陀信仰」が十月三日から十二月一日まで開催されます。

大仏造立には多くの謎があり、歴史や美術史、仏教史など、さまざまな面から研究が進められてきましたが、昨年と一昨年、大仏の周りの発掘調査が行われ、造立に際しての遺構やかつて大仏を覆っていた大仏殿の規模が判明しました。

本日は、大仏のさまざまな謎の解明にアプローチされている研究者の方々にお集まりいただき、研究成果を伺いながら、金沢文庫で開催される特別展についてもご紹介いただきたいと考えております。

ご出席いただきました清水眞澄先生は、中世美術史がご専門で、成城大学教授でいらっしゃいます。文化庁文化財審議会専門委員などを務めておられます。

高橋秀栄先生は神奈川県立金沢文庫長でいらっしゃいます。中世仏教史がご専門で、今回の特別展を担当されました。

福田誠先生は一昨年と昨年、鎌倉市教育委員会が実施した大仏周辺の発掘調査の主任調査員を務められました。鶴見大学でも教鞭をとられております。

大仏をめぐる7つの謎

編集部 鎌倉の大仏にはさまざまな謎があると言われていますが、最初に清水先生から問題点をいくつか挙げていただけますか。

清水 鎌倉大仏に関しましてはわからない点が大変多い。

“謎”と言っていいかどうかわかりませんが、わかっている点、わからない点ということで、七つ挙げました。

一つは、現在の銅造の大仏ができる前に木造の大仏があったということ。『吾妻鏡』の嘉禎四年(一二三八)に「深沢の里の大仏堂事始め」とあって、仁治二年(一二四一)に大仏殿が完成し、寛元元年(一二四三)に供養が行われている。このときは木造の大仏です。これは『東関紀行』という紀行文にもはっきり書かれています。 それが、約十年後の、『吾妻鏡』の建長四年(一二五二)の記事に「金銅の釈迦如来を鋳始める」とでてきます。なぜ木造が銅造に替わったか、その理由がはっきりしないという点が一つ。ここには釈迦如来と書かれていますが、これは阿弥陀如来の単なる誤りで、現在の大仏が建長四年のものであることは間違いないと思います。

二番目は勧進聖人、つまりお金を集めるお坊さんとして浄光という方が出てきますがその人がどういう人であったか、出自その他が不明な点。

三番目は、鎌倉幕府によって編さんされた『吾妻鏡』には浄光一人の名前が出てきますが、あれだけの大仏をつくるので、恐らく幕府なり北条氏が関与していたのではないかという施主について。 

四番目は、鎌倉に大仏が造られる四十年ぐらい前に東大寺の大仏の開眼供養がありましたが、東大寺とのかかわりはなかったのかという問題。

五番目は、銅造の大仏についてですが、その技術。どのようにして現在の銅造の大仏をつくったのか。この点は、まだ問題が残されています。原型の素材の問題、あるいはそれをどのように完成に導いたか。それをつくった鋳物師についてもよくわかっていません。

六番目は、大仏の完成の時期がはっきりしていない点。

七番目は、現在の大仏の阿弥陀如来は、着衣として衲衣(のうえ)をまとっていますが、その着方が、非常に珍しい形式であるという点。また手をおなかの前に組んで、いわゆる弥陀定印(みだじょういん)という形をとっていますが、なぜ定印の阿弥陀であるか。

その他にもわからない点が幾つもありますが、以上七つの点を主に挙げました。


発掘調査−大仏の周囲は地層が斜めに堆積

編集部 こうした謎を踏まえて、大仏周辺の発掘調査からはどういうことがわかってきたのでしょうか。

福田 発掘調査というアプローチから、どういう見方ができるのか。それから実際に発掘調査を行ったときに、どんな結果が見えてきたのかをお話しします。

清水先生が挙げられた謎の中で木造の大仏と銅造の大仏については、結論から言うと、木造の大仏については痕跡がつかめませんでした。

それに大仏ができてから七百五十年の間に境内はいろいろ手が入れられており、一筋縄にはいきませんでした。

大仏の周囲の斜めに堆積した地層
大仏の周囲の斜めに堆積した地層
(鎌倉市教育委員会提供)
それでも一昨年の調査で一番最初に、大仏の正面を掘ったときに、露出した地面に縞模様が見えたのです。大仏に向かって平らな地面の所を上から見ると、大仏に向かって帯状に並んでいる色の異なる地面が見つかりました。当初それがどういうものなのかわからなかったので、今度は横を深く掘ってみましたら、大仏に向かって堆積している土が斜めになっていました。それを水平に切ってしまっているので、実際に地面の上で見えるものは全部、縞模様に見えることがわかりました。

大仏の周辺、大仏の正面・左側面・裏側を同じように調査したところ、大仏を中心にして、周囲の土の堆積が全部斜めになっていたことがわかってきました。

 

  大仏の周りをどんどん埋めていった痕跡

福田
ふいごの羽口 ふいごの羽口
ふいごの羽口
(鎌倉市教育委員会提供)
そして、斜めに堆積した土の中から、ふいごの羽口(銅を鎔かしたときの送風管の口)の破片とか銅滓(鎔かしたときのかす)、飛び散った銅の破片などが出てきたんです。

そこで考えたのは、それは大仏を中心として円錐形の堆積になっていたんだろうと。清水先生のご著書の中で、大仏を鋳込んでいくときに、周りを土で埋めていくイラストを見た記憶があったのです。 斜めの堆積が全部大仏を中心としているので、鋳造のときに鋳型を押さえるため周りをどんどん埋めていった痕跡が今、見えているんだろうということになったんです。

 

  大仏をつくる前に地面を整地していた

福田 それから大仏をつくる前の地面はいったん全部整地していることが、さらに深く掘った所でわかりました。斜めに堆積している土層の下は土の堆積が全部平らなんです。

編集部 それは地下何メートルぐらいですか。

福田
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大仏周辺根固め遺構模式図(約30KB)
画像をクリックすると大きな画像が見られます。
(鎌倉市教育委員会提供)
大体海抜十一メートルぐらいで、全部そろっています。現在、大仏の周りに石畳があります。これが大体十四メートルです。当時の地表はそれより一メートル下でしたから、およそ二メートル下です。平らな大きな敷地をつくるというのがまず一つ。

しかも、裏に山が迫っています。大仏の位置は大谷戸と小谷戸のちょうど合流地点の所なので、地盤としては、後ろには山の岩盤があるので、平らにした地面も岩盤が露出していたと思われます。そうすると、大仏は後ろはしっかりした地面で、前のほうは谷で、それを埋めているから、前のほうが弱いんです。それをある程度しっかり固めているとは思うんです。

例えば関東大震災のときに大仏は前にずれています。それは、もしかすると地盤と関係あるのかもしれません。



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