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有鄰


平成14年10月10日  第419号  P3

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 鎌倉大仏建立750年 (1) (2) (3)
P4 ○自由民権の里・平塚市南金目  大畑哲
P5 ○人と作品  井上荒野と『ひどい感じ 父・井上光晴』        藤田昌司

 座談会

鎌倉大仏建立750年 (3)



特別展では阿弥陀来迎図や浄光の一切経も

編集部 特別展「鎌倉大仏と阿弥陀信仰」では大仏と阿弥陀信仰は、どのように紹介されるのですか。

高橋
浄光上人供養の阿弥陀如来像
浄光上人供養の
阿弥陀如来像
来迎印の阿弥陀如来坐像
来迎印の阿弥陀如来坐像
(神奈川県立歴史博物館蔵)
この展覧会は三つの柱を立てました。まず第一に阿弥陀信仰とその造型、第二に中世の鎌倉大仏、第三に近世の鎌倉大仏の復興と大仏詣というものです。当然、中世の鎌倉大仏が中心になりますが、金沢文庫には、大仏殿の別当をした忍性の画像、金沢貞顕が大仏殿の造営費を求めるために 中国に船を派遣したという文書など含めて関係資料が十点ほどあります。それに加え、まず鎌倉大仏が阿弥陀像であることから、その印相(いんそう)に注目しました。

鎌倉大仏は弥陀定印を結んでいますが、当時は来迎印の阿弥陀も結構多かった。ほかに説法印の阿弥陀もあるそうですが、今回は定印と来迎印の異なる二種類の阿弥陀を数体、展示します。定印の阿弥陀如来は伊豆の長岡の北条寺から、来迎印の阿弥陀如来は神奈川県立歴史博物館から出陳いただきました。ともに運慶様式の仏像です。

それから、鎌倉の光明寺所蔵の当麻曼荼羅縁起絵巻、さらには善光寺式三尊の形をとる横浜の龍華寺の仏像などで構成しました。特に注目されるのは知恩院から、「早来迎」の名で知られる国宝の阿弥陀二十五菩薩来迎図、同じく知恩院の中国伝来の阿弥陀浄土図を展示できることです。

それから、市原市でみつかった浄光上人の菩提を弔うために寛□(蓮)という大仏の住職によってつくられた銅造の阿弥陀如来像も拝借しました。像には、文永十一年(一二七四)という銘文があり、これによって浄光上人がこの前年か、それ以前に亡くなっていることがわかります。

 

  浄光が銅造大仏を鋳始める一年前に奉納した一切経

編集部 浄光が奉納した一切経も出るそうですね。

高橋
「相州新大仏」一切経
「相州新大仏」一切経 (個人蔵)
建長三年(一二五一)に「相州新大仏」に奉納されたお経です。一切経は、本来は六千巻位の大量のお経を言うんですが、現存しているのは大般若経六百巻だけなんです。この一切経は木造大仏が完成した記念に合わせて、さらに翌年につくる金銅の大仏の無事完成の祈りを込めて写させたものだと思います。

書写に関わった人たちの名前は全部で十二人ほどです。結構大がかりな書写行で、二十人いれば三十巻ずつ経典を書写することになりますが、そういう分担書写をして奉納したことになります。展示にお借りするのは、四百十から四百二十までの間のものです。これでちょっと興味深いのは、経名と巻数の下に「生」という文字が書かれています。これは千字文で、千字文のついた大般若経というのは、中国のお経をテキストにしていなければ書けないことなんです。

当然それの原本となるテキストが必要です。その頃、宋版の大般若経は、鎌倉の寿福寺、あるいは永福寺に所蔵されていた程度。そこのものを写させてもらっているんじゃないか。なお、巻四百十八を写した隆然というお坊さんは大変達筆な方です。

この一切経は、当然、木造大仏が完成したときに出来上がっていますから、以来、大仏殿の中に奉納されていたはずです。それがどうして今日まで残っているのか。明応七年(一四九八)の大津波のときに大仏殿は流されたので、大仏殿に置いてあれば、そのとき失われたはずです。もしかすると、大仏の像内に奉納されていたために流されずに残ったのではないか。このことも今後、研究していく材料の一つかと思います。

珍しいのは三島大社から拝借する二通の古文書で、ともに「大仏寺」と書かれている。鎌倉大仏は室町時代に大仏寺という寺号を呼称していたことを示す貴重な資料です。

 

  高徳院に伝わる近世の資料も一堂に公開

編集部 高徳院の近世資料も公開されるそうですね。

高橋 いわゆる江戸期の大仏殿の再建に向けた動き、あるいは疲弊していたお寺を増上寺の祐天というお坊さんと弟子の養国上人が復興のために大変な働きをする。

そのときのスポンサーが野島新左衛門で、正徳二年(一七一二)の頃、その動きの中で、現在の正式な寺名、高徳院ができた。鎌倉時代は律宗の忍性がかかわったり、その後、禅宗の建長寺、あるいは長谷寺が管理していたりと、宗旨にも紆余曲折がありましたが、真言宗から本来の大仏にふさわしい浄土宗の宗旨に改め、材木座の光明寺の管理からも離れてお寺として定まってきます。そういう関連資料も、高徳院の特別なご配慮で、今回公開されます。

 

  養国上人が寄進した釈迦如来坐像が里帰り

高橋 養国上人が寄進した釈迦如来坐像が岐阜で見つかり、それも展示されます。

清水 関市の新長谷寺所蔵のものです。たまたま岐阜県博物館で開催された特別展にその像が出品され、像底の銘文から大仏の別当であった養国上人が寄進した像であることがわかりました。そこには「相州鎌倉長谷深沢里、獅子吼山清浄泉寺」と書かれている。現在の高徳院のことで、 どういう経緯かはわかりませんが、養国上人が鎌倉から岐阜に移した。その像が里帰りというか、もと祀られた場所に帰ってくるというのが大きいですね。

高橋 養国上人の復興事業は、スポンサーである野島新左衛門がお咎めをうけて島流しにあったり、高徳院の屋根から火が出て、お堂を焼いてしまったりで、大仏殿の復興はできなくなってしまうわけです。

養国上人寄進の釈迦如来坐像
養国上人寄進の釈迦如来坐像
(岐阜県・新長谷寺蔵)

残されたさまざまな謎——願主・著者・着衣など

編集部 いろいろな謎を解明する中で、大仏造立と幕府との関連はどうでしょうか。

清水 あれだけの仏像をつくるのに浄光一人が勧進をしてつくったとは考えにくい。それがそもそもの出発点です。そうすると、北条泰時が執権で、北条時房が連署ですから、実際に何かをするときの機関としては、幕府が出てくると思うんです。

それなのになぜ浄光の名前が出てきて、北条氏や幕府が関与したことが『吾妻鏡』に出てこないのかというところがわからない。

高橋 信仰の立場から、阿弥陀に救いを求めたい、また大きな仏像をつくりたいというのが浄光の最初の素朴な願いであったと思うんです。

ところが、そういう仏像づくりに加担してもらうため、勧進を始めたものの、一人から一銭の銅銭をもらうよりは百枚のお金をもらったほうが集まりがいい。そうやって鎌倉武士なんかと接触している間に大物が加わってきたんじゃないか。それがやがて鎌倉北条氏、あるいは幕府も後押しをするという大きなうねりとなって浄光を支え始めた。 一介の念仏僧が一人でなし遂げられないことを、途中から幕府が支援者になって成就したと私は感じているんです。

なぜかというと、金沢文庫の『大仏旨趣(ししゅ)』に「弥陀の引接にあずかり共に一仏蓮台に座さん」(弥陀の来迎にあずかって極楽浄土の蓮台の所で共に過ごしましょう)という願望を持っていた人が勧進僧になって登場するんです。浄光の名前は出てきませんが。

そうすると、浄光という人は勧進上人で、まずは大仏をつくりたい。しかも、初めは木造の大仏だけでよかったんだけれど、金銅の大仏につくり替えられるはめになる。銅造とて雨露を避けるためには当然、阿弥陀堂もつくらねばならない。浄光自身の素朴なスタートとは違って、巨大なものへと変えられていったんじゃないかと思うんですが。

清水 私は造立を発願した願主も施主も北条氏だった可能性が高いと思っています。

 

  大仏には運慶一派の様式があることは確実

編集部 大仏は鎌倉彫刻の代表的なものと考えた場合、様式的にはいかがですか。

清水 従来から言われていることですが、鎌倉時代は、運慶、快慶という慶派の最も活躍した時期ですから、張りがあって、強くて、動きがある。運慶一派の様式がそのまま鎌倉時代の彫刻を引っ張っていくという形がある。

鎌倉の大仏を見ても、体の全体の張りとか、あるいは着ているものの衣紋のうねりとかに運慶一派の様式があることは確実で、よく言われるのは、いわゆる宋風と言われるものが、どの程度そこに加わっているか。人によっては、鎌倉における宋風の最も早い作例だと言うわけです。

それは鋳造技術にもかかわることで、先ほど言いましたように、原型に最初の木造を使ったとすると、一二三○年代の形が出るわけです。建長四年に鋳物にしますが、原型がつくられたのはそれより早い木造の時代のものということになり、その時代の像として考えないといけない。

だから鋳造技術と様式の問題は大きく関係してくるわけです。宋の影響というと、頭の上の肉髻(にっけい)が低いこと、それから猫背であることという二つ以外には、顔の表情は、例えば目はやや異国的な感じを受けますが、鎌倉中期以降の宋風とは違うと思うんです。

宋の影響は何段階かあるわけです。早い時代に入ったものを慶派仏師は巧みに取り入れているわけで、そういう点では、慶派仏師が宋風を消化して、それが鎌倉時代の中期以前に、いわゆる後で言われる宋風という形になって出てきた。

大仏に表われた宋風は平安の末ごろから日本に入ってきた中国の文化が慶派の仏師に影響を与え、それが鎌倉に来たんじゃないかなと思っています。原型となる木像の作者もそのあたりに近い人物かと思っています。

 

  定印にしたのは鋳造技術が困難だったからか

高橋 仏像の手の形、つまり、大仏の印相については、来迎印の大仏を鋳造することが技術的に困難だったために弥陀定印にあえてしたんじゃないかと。私、鼻の筋のところから写真を折ってみたら、ぴったり左右相称なんです。印相も親指のところを折るとぴったり重なり合う。技術的にはどうなんですか。来迎印でも鋳造は可能ですか。

清水 東大寺の大仏は右手を上げた形の来迎印ですし、運慶の子供の康勝がつくった法隆寺の阿弥陀如来は定印なんです。そうするとブロンズでつくる場合には、鋳造技術の面でやりやすいからとか、U字形で通肩(つうけん)のデザインにしたというのはちょっと違うかなと思うんです。というのは私は木像を原型に考えていますから。ただ、定印の阿弥陀如来像で指定されている重要文化財も、鎌倉中期ぐらいまでで二十体ぐらい残っているんです。

高橋 養国上人の釈迦如来像の印相と鎌倉大仏の印相は似てるでしょう。だから『吾妻鏡』の編さん者は間違えちゃうわけです。

 

  庶民の願いとは別にシンボル的な意味があった

編集部 造形という面からはいかがですか。

清水 形の問題に関しては着衣形式の問題ですね。衲衣は、上半身に一枚しか着ていなくて、しかも両肩を覆っている通肩という形です。これはこの時代には、坐っている像では本当に珍しい。それがどこから来たのかが問題です。 東大寺の大仏にならったのかというのが一つ。もう一つは立像ですが、当時流行していた善光寺式の阿弥陀如来像、これがブロンズである点が共通していますが、そういう着衣の問題。

それから定印の阿弥陀については、この時代、浄土信仰に基づく来迎印の阿弥陀如来像が多いわけです。定印の阿弥陀はもともと観想の阿弥陀で密教系の像ですから、浄土にいる姿を拝むことによって自分自身が頭の中に浄土の世界が描けるという考えです。 そういう形をあえてとったのは、浄土へ行けるという庶民の願いとは別にシンボル的な意味があったのではないかというのが私の説です。

 

  大仏裏の駐車場から出土した銅滓は養国上人の頃の遺物か

編集部 七百五十年の間に大仏にはいろいろな歴史があったと思いますが。

福田 大仏の周りに石畳がありますが、江戸になってから、あそこで埋葬が行われているんです。偶然、一体だけ見つかったんですが、四十代ぐらいの男性だという結論です。顔が大仏のほうを向いていて頭が東になる。ひょっとすると、この周りに、例えば結縁を求める人がまだいらっしゃるかもしれません。(笑)

それと大仏の裏側の駐車場のわきも何か所か掘らせていただいたんですが、そこでも銅滓というか、鎔けたかすが出て、それを分析しました。その結果、それは鎌倉時代のものと組成が全然違う。むしろ、銅の割合がものすごく多く、時代的には江戸ぐらいのものという気はしていますので、養国上人あたりが鋳掛けの修理をしたときの遺物なのかもしれません。ただ、これははっきりしたことはわからないですけれど。

清水 私は鎌倉の都市計画の上で大仏の置かれた位置に非常に興味がある。それから建築のことや阿弥陀の形の宗教学、あるいは仏教史上の問題、それから当然、スポンサーとなった北条氏のことも調べたら面白いと思うんです。いろんな方が加わって、研究がますます盛んになるといいなと思います。

編集部 こうした謎を考えながら展覧会を見るのも面白いかと思います。本日はありがとうございました。





 
しみず まずみ
一九三九年横浜生れ。
著書『中世彫刻史の研究』有隣堂5,880円(5%税込) ほか。
 
たかはし しゅうえい
一九四二年北海道生れ。
共著『大乗仏典』中央公論新社3,986円(5%税込)。
 
ふくだ まこと
一九五七年長野生れ。
報告書『鎌倉大仏周辺発掘調査報告書』鎌倉市、他。
 


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