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有鄰


平成14年10月10日  第419号  P4

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 鎌倉大仏建立750年 (1) (2) (3)
P4 ○自由民権の里・平塚市南金目  大畑哲
P5 ○人と作品  井上荒野と『ひどい感じ 父・井上光晴』        藤田昌司



自由民権の里・平塚市南金目
大畑哲




  明治維新当時大住郡内でも有数の村だった南金目村

大畑哲氏
大畑哲氏
 自由民権運動の故地である平塚市南金目(かなめ)を初めて訪れたのは、もうかれこれ四十年前になろうか。その頃の金目には、未だ東海大学のキャンパスもなく、バス停付近の南金目は昔のままの街並み風景を色濃く残していた。

 バス停から西に向かって最初に目にしたのは、金目川の清流にかかる観音橋と、その堤上に立つ金目観音堂の印象的な姿であった。そしてこの素晴らしい景観と、村に秘められた自由民権の歴史を知るに及んで、この地にすっかり魅せられてしまった。それ以来私は、相模原の自宅から二時間はかかる南金目を、幾度となく訪れることとなった。

 そこでまず、明治維新当時の村の概観から見ていこう。維新の年、一八六八年(慶応四)の南金目村明細帳によれば家数百七戸(内十軒潰れ)、石高千二百八十三石とあるから、当時としては、大住郡内でも有数の村と言えよう。

 その豊かさは、金目川流域の水田地帯と、東海道の宿駅のある平塚宿まで一里半余(約六キロ)、大磯宿まで二里半余(約十キロ)、矢倉沢往還の寄場曽屋村まで一里半余(約六キロ)という経済圏内にあって、「農間余業」にめぐまれていたことである。

金目川と観音橋
金目川と観音橋
 しかし同時にこの村が「あばれ川」の異名をもつ金目川の「水難之場所」だということも明記しておく必要があろう。今も地名を残す「大堤」や「柳堤」は当時の決壊箇所として有名だった。また、この村は江戸時代の半ばから幕末まで、三人の旗本が知行する三給地であった。


  湘南社を中心に活躍した南金目出身の三人の民権家

自由民権運動期の神奈川県
自由民権運動期の神奈川県
(アミの部分は現在の神奈川県)
 さて、この地方が自由民権の最初の洗礼を受けたのは、一八八〇年(明治十三)の国会開設請願運動である。同年三月から六月まで、わずか三か月で相州全域から二万三千余の請願書名を集めたこの大運動は、南金目では全戸数の八割に当たる七十九名の署名を集めている。これは周辺の村々のどこよりも高い数字であった。

 この運動をリードしたのは平塚市域でいえば、福井直吉(小嶺村)、杉山泰助(馬入村)ら県会議員であったが、村レベルでは戸長の宮田寅治や猪俣道之輔、森三郎らが先頭に立って推進した。南金目出身のこの三人の民権家が頭角を現すのは、翌八一年八月、大磯に生まれた民権結社湘南社の結成からであった。

 湘南社は学習会と演説会を兼ねた結社であったが、その学習会(講学会)で見せた宮田、猪俣の学習活動は目を見張るものがあった。学習会のテーマとなった政府論や主権論に関する現状分析の鋭さや理論水準の高さは、学習会仲間でも群を抜いていた。

 政府論では、政府の目的を国民の自由と権利の保障にありとする市民政府論を、主権論では、主権が人民にありとする国民主権論を堂々と主張し、欧米諸国の近代民主主義と立憲制を理想とした。沢田弸(みつる)と細川瀏(きよし)という慶応義塾出身の新進の講師を東京から招き、政治、経済に関する英書(原書と訳書)をテキストにして、旺盛な学習活動を展開した。それはまさに、近代日本の進路をめぐる青年たちの「憲法論議」と言えるものであった。この学習テーマが、ちょうどその年、国会開設請願の大運動によって余儀なくされた、明治十四年の政変と「国会開設の詔勅」発布に刺激されたものであることは言うまでもない。

猪俣道之輔
宮田寅治
猪俣道之輔
宮田寅治
 このような学習の成果を引っさげて、やがて彼らは、演説会でも、中央の名士に伍して演壇に立つようになる。八三年(明治十六)一月と四月に、植木枝盛らを迎えて金目観音堂で行われた政談演説会では、四百名の聴衆を集め、深い感動を与えた。その弁士の中に宮田と猪俣の名もあった。この演説会を企画したのは、湘南社の支部にあたる南金目の講学会であり、会場には女性の参加者もいて注目を浴びた。

 こうした民権運動の高揚のなかで宮田、猪俣、森の三人は、その年の六月に自由党に入党している。前年の十月、一足先に入党した福井らのあとに続いてであった。この三人を、私は南金目の民権家トリオと呼んできたが、彼らはいずれも安政年間の生れで、民権運動に加わったのは二十代の青年期であった。そして三人ともに、この時期から三十代にかけて、代わるがわる戸長や村長や県会議員の要職に就いている。全国で民権運動の盛んな地方でも、一村からこれだけの民権家を輩出したところはあまりないであろう。ともあれ、この民権家トリオが主役となって、南金目ではその後の歴史が転回するのである。

  神奈川県下の農民騒擾の中心の一つだった大住・淘綾郡

 ところで、宮田らが自由党に入党した翌年の一八八四年(明治十七)は、未曾有の不況と農民騒擾に襲われた年であった。八一年以来の松方財政=デフレ政策によって、米麦をはじめとする農産物価が暴落し、農村は不景気のどん底に沈んだ。そのなかで農民たちは、負債の返済を迫る銀行、金融会社、高利貸に対して、集団で負債の据置きや年賦払い、利子の減免を要求して運動に立ち上がった。この農民騒擾は、神奈川県下で最高の件数を数えたが、その中心の一つが大住・淘綾両郡であった。とりわけ同年五月に起きた一色村(現二宮町)の高利貸・露木卯三郎殺害事件は、その負債圏が相州六郡に及んでいただけに、衝撃は絶大であった。もう一つの弘法山事件は、宮田らも株主であった金融会社・共伸社をめぐる騒擾で、南金目も負債者を 抱えていただけに、事件の影響は複雑であった。この二大事件で、宮田ら自由党員が、どのように振舞ったのか知りたいところだが、それを語る史料は今のところない。

 しかし最近、ようやく露木事件の加害者に対する減刑嘆願書や、露木の遺族らによる負債処分の「仮約定書」が発見されるに及んで、事件の解決に尽力した関係者の名が浮び上がり、自由党や民権家とのかかわりが注目を集めている。ともあれ、この露木事件の負債処分を契機に、共伸社など他の債権者も負債の引き下げに応じたため、大住・淘綾両郡内の騒擾は急速に沈静化し、騒擾の舞台は一転して県の東部に移動し、いわゆる武相困民党の運動につながっていった。

  金目教会を設立、廃娼運動に力を尽くす

 次に、自由民権運動が解体した明治二十年代、民権思想の遺産と伝統が、この村でどのように生き続けていたかを述べてみたい。

 この時期に宮田らが村に残した事業に、金目教会の設立と教育福祉事業がある。金目教会は、宮田や猪俣が八六年(明治十九)に横浜海岸教会で受洗したことに始まる。そして八八年、信者二十九名を得て、地元に日本基督公会金目支部を設立し、九〇年には同村堀之内に教会堂を建設している。クリスチャンとなった宮田は、やがて県会議員として、横浜キリスト教青年会と連携して廃娼運動に没頭する。そして九〇年末には、有志議員とともに、さまざまな妨害を排して、県議会で公娼廃止の建議案の可決に成功した。この運動は、自由民権とキリスト教人道主義の見事な結合を示している。両者は人間の尊厳と平等の理念を共有して、権力に対する共同の闘いをすすめたのであった。

  中等教育機関二校のほか、中郡盲人学校を創立

 教育事業では、三郡共立学校(一八八六年)と私立育英学校(一九〇九年)の創立がある。ともに県央では初めての中等教育機関として周辺町村から多くの子弟を集め、人材を養成して地域の教育文化の向上に貢献した。のちにこの二校は県に移管され、今日の県立平塚農業高校と県立秦野高校として現存している。

 次いで宮田らが生涯をかけた事業に私立中郡盲人学校の創立がある。この盲人学校は地元で鍼灸(しんきゅう)業を営んでいた盲人秋山博が、盲人の自立と鍼按業の普及のために、一八八九年(明治二十三)に開設した鍼按講習会を、一九一〇年、宮田らの助言と援助で正規の学校として創立したものであった。それは福祉不在の戦前社会にあって、県下ではじめての画期的事業であった。校主に秋山、初代校長に伊達時(二宮)が就任し、比企喜代助(平塚)と白木啓(伊勢原)の二人の医師が校医兼講師としてそれを支えた。しかも経費のほとんどを寄付に頼り、盲人に対する差別と偏見の中で運営するという、困苦に満ちた学校経営であった。

 校長は、その後、二代森純一(森三郎の子)、三代宮田寅治と代わったが、宮田が校長の時に起きた関東大震災では、校舎が全壊し、一旦は閉校を決めたほどであった。しかし、よくその苦難を乗り越えて、一九二四年(大正十三)に平塚へ移転し、三三年(昭和八)に念願の県立移管を実現することができた。現在の県立平塚盲学校である。創設以来、四半世紀にわたる荊棘(いばら)の道の連続であった。

 この福祉事業こそ、クリスチャン民権家の取り組んだ最後の偉業といえよう。しかもこれら三校が、南金目を発祥の地としているところに、この地に根を下ろした民権運動の遺産と伝統の輝きを見ることができる。これらについては、このたび有隣堂から上梓した『相州自由民権運動の展開』をご覧いただければ幸いである。

  活動の余暇に詩文や絵筆を楽しむ文人でもあった三人の民権家

 ところで、この三人の民権は、活動の余暇に詩文や絵筆を楽しむ文人でもあった。宮田は鼎田(ていでん)と号して絵画にすぐれ、猪俣は竹溪(ちくけい)と号して書を能(よ)くし、森は沈水蘆鶴汀(ちんすいろかくてい)と名乗って俳句に秀でた。今もその生家や近隣には、その作品を見ることができる。のちに、南金目の人びとが自村を「明治の文化村」と呼び、それを村の誇りにしていたことは、まことにこの村の近代史を言い得て妙である。


 

おおはた さとし
一九二九年静岡県生れ。
元神奈川県立厚木高校教諭。大和・綾瀬・海老名・座間市史編さん委員。
著書『相州自由民権運動の展開』有隣堂5,985円(5%税込)、『山口左七郎と湘南社』(共編)まほろば書房3,990円(5%税込) 他。





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