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有鄰


平成14年12月10日  第421号  P3

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 「文学」と「時代のニュース」が両輪 (1) (2) (3)
P4 ○東巴(トンパ)文字  浅場克己
P5 ○人と作品  神坂次郎と『猫男爵』        藤田昌司

 座談会

文藝春秋80年
「文学」と「時代のニュース」が両輪 (3)


 
  「輸出」が新人賞を受賞したのは『文學界』だったから
 
城山 私は昭和32年に『文學界』の新人賞に「輸出」という小説を投稿しました。戦争中は忠君愛国の大義があったけど、戦後は輸出立国という大義がある。新しい大義が出てきたということを書いたのですが『文學界』に投稿してよかったね。ほかの文芸雑誌に投稿したら「輸出」という題を見ただけで文芸雑誌の編集長は落とすでしょう。

半藤 そうですね。もしかすると、2、3枚読まれただけで落選。

城山 編集長が上林吾郎さん。あの人は自分で戯曲を書くぐらい文学もわかるけれども、文藝春秋の伝統で社会もわかる。それで、下読みの段階で残してくれたんでしょうね。それで選考委員会ではもめた。3対2で、私を推した平野謙さんは、その後の「文芸時評」で、新人賞の選考委員として「輸出」を推したのは間違いであったと書いてある。あれ、きっと近代文学の仲間に言われたと思う。

半藤 あんなもの小説じゃないと言われたんですかね。

城山 そう言われたと思うね。反省しているなんて書いてある。3対2だからひっくり返るところだからね。

半藤 危なかった。

城山 伊藤整さんも選考委員で、伊藤整さんは私の大学の先輩なんですが、相手を推している。あの人は文壇にすごく気を使った人だから、後輩を推したと言われたくなかったんでしょう。それで後で会ったときに、僕は何もできなくてごめんねと言いましたね。だから、危なかったですよ。

白石 城山さんはタイトルのつけ方がお上手なんです。『粗にして野だが卑ではない』は、何年間も続いた日本の1つの道徳基準といいますか。

城山 石田礼助の言葉だから。借用がうまいんです。三賢人とか。

白石 大ベストセラーですね。

篠崎 その言葉は、人口に膾炙(かいしゃ)しました。

半藤 『大義の末』もいい題です。あれが発表されたとき、うまい題だと思いました。


芥川賞・直木賞−友情と恩返しが文学界に結実
 
篠崎 文藝春秋さんは芥川賞・直木賞を制定されましたね。

白石 『文藝春秋』の編集部は10人ちょっとしかいないんです。けれど、時のニュースに関心をもって、それを取材したり原稿を発注するのは『文藝春秋』の「春秋」の部分です。それだけではこの雑誌の編集者は務まらない。文芸もわかれということなんです。

それで『文藝春秋』の目次に何本か連載小説が載っていますが、高名な先生方ばかりです。編集者は、その人たちの原稿取りをしつつ、一方で、その時代の大きなニュースを追いかける。両方やっています。『文藝春秋』の編集部では、おまえはニュース専門、おまえは文芸専門とはなってないんです。

芥川賞・直木賞のときに、『文藝春秋』の編集長が司会をやるんです。社長は芥川賞の選考委員の席に陪席するんですが、一切しゃべってはだめなんです。しゃべると、選考委員の先生に怒られるんです。だけど、ひょっとして自分に質問でも来るんじゃないかと思うから、ちんぷんかんぷんじゃしようがないので、そのためには、候補作を全部読んでないといけない、俺は苦手だというのでは困る。そういうのが伝統的な『文藝春秋』の編集部のあり方です。

半藤 そうですね。ですから、戦前も戦後も小説家が社長なんです。小説家の社長が亡くなった後は、池島信平さんは一種の文人ですね。

要するにこの会社は、編集者は文学というものがわからなきゃだめだというのが基本にあるんです。『中央公論』の人と一緒に酒を飲むと、彼らは空理空論ばかり(笑)。『文藝春秋』の人たちは空理空論は余りやらない。あいつは文学がわからんとか、大体現実論をやるわけです。

 
  担当が終わった後も谷崎潤一郎や佐藤春夫と会う
 
半藤 そういう意味では私なんかも実にいい経験をしました。若いころ『文藝春秋』の編集をしていたときに、谷崎潤一郎さんの『幼少時代』、佐藤春夫さんの『人生の楽事』の担当になり、谷崎さんと佐藤春夫さんの所へ伺うわけです。それで担当の仕事が終わっても、時々谷崎さんや佐藤春夫さんに会ったりしている時代がありました その意味では、こんなにうれしい会社はないと思いましたね。ですから、一般の総合雑誌の人たちのように、俺は経済だ、俺は政治だとか、すみ分けにはしないんですね。

篠崎 それがいいんでしょうね。文藝春秋の風土というか、独特のお人柄がある。

白石 その点、半藤さんなんか際立っているんだけれど(笑)、歴史だけは勉強しろと。昭和史は特にね。

半藤 それは池島さん麾下でやっていましたね。池島さんは特に歴史好きですから。

 
  芥川が病気になっても書いた売り物の「侏儒の言葉」
 
篠崎 芥川賞と直木賞は文藝春秋という会社が差し上げる賞かと思っていたんです。

半藤 違うんですよ。財団法人日本文学振興会。理事長は社長じゃないんですか。

白石 あくまでも文学振興会の理事長が授与しているんです。

篠崎 でも、これを創設したのは菊池寛さんですね。1回目が昭和10年ですから、財団ができる13年までは文藝春秋社がやっていた。

半藤
『文藝春秋』第2期同人
『文藝春秋』第2期同人
(前列左が菊池寛、その後ろ左から斎藤龍太郎、芥川龍之介、宇野浩二、久米正雄、佐佐木茂索、直木三十五)
友情でやっていたんです。芥川さんが昭和2年に亡くなって、それ以来菊池さんは寂しい思いをしていて、それで直木さんだけを頼りにしていて、直木さんも亡くなった。どうしてもこの二人のことを忘れたくない。『文藝春秋』が今日あるのは、この二人のおかげである。

芥川さんの「侏儒の言葉」が売り物ですから、芥川さんは病気になっても、それだけは『文藝春秋』に書いたんです。それから直木さんは、匿名で、最初のころからあらゆる人をバッタバッタと切りまくっています。ついでに自分も切りまくっている。わからないように(笑)。それで『文藝春秋』の匿名批評は名物だったわけです。

篠崎 『文藝春秋70年史』を拝見すると、三周年の執筆回数番付があるんです。東の横綱が芥川龍之介、西の横綱が直木三十五です。お二人は大正のころから健筆を振るわれたんですね。

半藤 芥川さんなんかは、『文藝春秋』だけに書いた時代もあるんじゃないですか。そういう意味では菊池さんはお二人に対してものすごく友情も感じたし、それで最初はその恩返しなんです。ですから、そんなに一生懸命やるつもりもなかったようですよ。

ところが、これが受けた。そのころには佐佐木茂索さんが、これは経営と別にやるべきであると、ちゃんと文学振興会と分けたんです。

篠崎 佐佐木茂索さんの功績は大きいですね。

半藤 ものすごく大きいです。茂索さん、茂索さんと気軽に言うけれど、おっかない人で震え上がったものです。

白石 社長と言わないで先生と呼んでいた社員もいた。今でもOBたちが「先生」と言うと佐佐木茂索です。

 
  経営を軌道に乗せたのは2代目社長の佐佐木茂索
 
篠崎 創刊号は全部売れたけれども、赤字だったんですね。それで、経営を軌道に乗せていったのが、2代目社長の佐佐木さんということですか。

半藤 そうです。戦後に聞いたバカ話ですが、文春は売れていたので、ものすごく紙を使ったんです。紙はロールになってますから、使い終わると芯が残りますね。あるとき、総務部長か誰かを社長室に呼び、 「君、つまらんことを聞くけど、あの芯はどこへやるのかね」「そのまま返しています」「返すことはないじゃないか。あれは文春が全部買ったんだ。それをタダで返す必要はない」と。

それで、また芯に使うわけです。これは笑い話ですけど、そのぐらい厳しく目を光らせた。

篠崎 でも、そういう方は大事ですよ。『文藝春秋』の定価は最初は十銭で、廉価も1つのキャッチフレーズになっていますね。

白石 そうです。『中央公論』がそのとき八十銭です。

半藤 でもだんだん廉価ではやっていけないので、悲鳴を上げながら少しずつ上げています。悲鳴を上げるのも読者に見せるんです。編集後記で、これこれでとてもやっていられないから、これから十五銭に上げさせてもらうと。

篠崎 今では信じられないけれども、表紙に全部「菊池寛編輯」と書いてある。すごいパーソナリティーのある雑誌という感じですね。

半藤 と思いますね。昭和14年3月号を限りに、戦争が激しくなってから取ったんです。ご自分が国の報国会とか、あっちの会長とかに奉られたりするので、実際に一々見てやっていられない。責任のないやつはだめだというので外したんです。

 
  菊池寛賞のほか、大宅ノンフィクション賞や松本清張賞も
 
篠崎 文学の振興をはかるため文藝春秋さんは芥川賞・直木賞のほかにも賞を設けられています。菊池寛賞は城山先生も選考委員ですね。

白石 もちろん。今は選考顧問という形でお願いしています。この賞は膨大な量を読んでいただくので大変です。

半藤 菊池さんは幅の広い方ですから、全部網羅するとなると、文学、理系、戯曲、放送、スポーツ、とにかくありとあらゆる。

城山 資料は段ボール2箱です。

半藤 とにかくあの人は自分で全部やっていますから。馬主ですからね。映画の大映の社長で、そういうことで全部やっているので、広範囲になるんです。この賞はえらい賞ですね。

篠崎 ほかに大宅壮一ノンフィクション賞、松本清張賞を設けておられますね。


多岐にわたる出版活動−女性誌・スポーツ誌も定着
 
篠崎 『オール讀物』も創刊70年を超えていますね。単行本、文庫、新書もありますが、創業70周年のときに『CREA』を出していますが、我々としては異色に感じたんですが。

白石 これは今定着してきました。今では臨時増刊も出せるようになってきましたが、10年かかりました。ああいうものはうちの編集者気質に合わないというのが伝統的にあったんですが、そっちの分野に出ていかないとまずいという当時のトップの判断で、平成元年に始めています。女性誌への意欲は、私が会社に入ったころ、佐佐木茂索社長のころからあったんです。

Number・表紙画像   CREA・表紙画像
『Number』   『CREA』
半藤 『別册文藝春秋』は戦後すぐぐらいの雑誌です。ですから、最近になって一番最初が『諸君 』(昭和44年)。それから『Number』が来て。

白石 その後『Emma』で、『Focus』などが出たあとに創刊するんです。ただ、これは売れ行きに関係なしにやめようというトップの判断でやめましたね。

半藤 『文藝春秋』の真価のためにやめる。

城山 上林吾郎さんがつくった同人の雑誌『ノーサイド』というのがありましたね。

白石 あれは平成3年で、上林さんが会長になってからつくった。あのときはほかにも2誌つくっている。3誌とも短命で終わっていますが。

半藤 一言つけ加えておきますと、『オール讀物』にしろ、『漫画讀本』にしろ、これはみんな『文藝春秋』の臨時増刊号です。『文藝春秋オール讀物号』、『文藝春秋漫画讀本』とか。要するに昔の『文藝春秋』は、たくさん別冊をつくった。それがたくさん売れると、これは独立したほうがいいんじゃないかと。

 
  80周年記念出版の『口語訳古事記』はロングセラーに
 
篠崎 80周年ということで、新しい企画を進められていますが、記念出版物をいくつか出しておられますね。

白石 今、着々と出ていますが、単なる記念出版というだけではなくて、読者に買ってもらおうということです。そういうことをかなり意識してやっています。

それで『古事記』というのを、わかりやすくするため、古老をつくり出して、古老が語るという形での『口語訳古事記』を出したところ、これが売れまして、七万を超えました。これは今後ロングセラーになりつつありますので、楽しみなんです。

それから『世界戦争犯罪事典』は、三人の監修者がいますが、日本の定評のある学者、それからドイツの学者、その人たちが集まっていろいろな戦争について、極力事実のみで説明していこうという画期的な本です。これは本来ならば新聞社なんかが出してしかるべきものです。よく文藝春秋が出したと。ですから南京大虐殺などについても非常に客観的なものを提示しているんです。 オピニオン性は全く入ってきていない。

それから『沢木耕太郎ノンフィクション』(全9巻)は、今、最も成熟した、しかも、ノンフィクションライターとしては若者にとって教祖的な存在の人が人生の途上で、自分の作品集を出すのは承諾しないと思っていたら、オーケーてくれたんです。これもすぐ重版にかかったりしてベストセラーの上位にも顔を出しています。

それから中国古代物をずっと書いてきた宮城谷昌光さんの全集。これは他社の協力も得て全21巻で、11月に刊行を開始しました。

司馬遼太郎さんの対談集も11月から出しています。書きおろしでは、『本格ミステリー・マスターズ』がすでに5巻出てますが、全部で20巻ぐらいまとめて出します。

あと『芥川賞全集』『藤沢周平全集』を完結させようということで進めているということです。

篠崎 きょうは面白いお話を本当にありがとうございました。





 
しろやま さぶろう
1927年名古屋生まれ。
著書『賢人たちの世』文春文庫470円(5%税込)、
落日燃ゆ』新潮文庫580円(5%税込) ほか。
 
はんどう かずとし
1930年東京生まれ。
著書『漱石先生ぞな、もし』文春文庫480円(5%税込)、
続・漱石先生ぞな、もし』文春文庫480円(5%税込) ほか。
 
しらいし まさる
1939年東京生まれ。
 


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