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有鄰


平成15年2月10日  第423号  P2

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 横浜みなとみらい21 (1) (2) (3)
P4 ○たましいのこと  早川義夫
P5 ○人と作品  山本一力と『深川黄表紙掛取り帖』        藤田昌司

 座談会

横浜みなとみらい21 (2)
—着工から20年—



ヨコハマの地元商人がつくった横浜船渠会社
 
北沢
横浜の中心部 (明治39年測図)
横浜の中心部 (明治39年測図)
中央の白い部分は新港埠頭

市役所に入ってすぐに横浜国大の先生たちと一緒に、横浜はどういうようにできてきたのか歴史を調べて『港町横浜の都市形成史』という本を出しました。3年ぐらいかかりました。そしてそれをもとに『ある都市のれきし』という子ども向けの絵本を書きました。

横浜の歴史を見るということは港を見るということですね。港を見れば、町のことが大体わかる。

そのなかで特に面白いのは明治39年の地図です。それ以前は小さな港で、沖合に船をとめて、はしけで荷などを揚げていたのです。近代港湾というのは、桟橋と直接貨物船がつけられる埠頭と防波堤、これが基本的な三点セットなんです。これがないと少なくとも船をつけて、効率よく人や荷物がおろせない。

もう一つ足りないものがある。船の修理です。遠洋をはるばる来た船は相当傷んでいるわけで、それを修理する場所がないと出航できない。で造船所が必要なわけです。

桟橋や埠頭は、当時、国の非常に重要な港湾でしたから国が整備する。しかし造船所は民間サイドでやろうと。明治24年に横浜の地元財界人の大谷嘉兵衛、高島嘉右衛門、原六郎、そこに東京から渋沢栄一たちが加わり、横浜船渠会社を設立した。地元資本で、横浜の人たちがつくったことは、後の街づくりにも意味を持ったと思います。

横浜の人は、港にはもちろん愛着はありますが、造船所の中にはなかなか入れない。でも、吉川英治の『かんかん虫は唄う』と長谷川伸の『ある市井の徒』に出てくるということで、市民には知られていたわけです。

横浜船渠会社 (明治38年頃)
横浜船渠会社 (明治38年頃)

 
  1号ドックは水を入れ、2号ドックは水を抜いて保存
 
北沢 僕が非常に面白いと思ったのは、明治29年に最初のドックをつくるんですが、船を修理するドライドックはそのままずっと使われてきたことです。長寿命です。

水をせきとめた後に水を抜いてドライにするのでドライドックと言うのですが、大正6年には修理だけではなく、造船も始めた。昭和5年に完成した氷川丸とか、日本郵船の三大豪華客船に数えられている有名な秩父丸もここで造られました。

当初は横浜船渠会社といっていましたが、昭和10年になって三菱重工に合併され、最初は三菱重工業横浜船渠、その後に三菱重工横浜造船所と名前が変わってくる。

都市デザイン室でみなとみらい地区を担当することになったのですが、ドライドックを解体する前に、まだ動いているところを調査をしたんです。すごく感激しましたね。船が入っていると、またすごいんです。それで、これは何とか残せないかなと。実際に担当になって保存交渉をやったのですが、僕にとっては2号ドック(現在のドックヤードガーデン)の保存は印象に残る仕事でした。

篠崎 よく残してくださいましたね。今、国の重要文化財ですね。

北沢 残し方もいろいろ議論があって、1号ドックは、日本丸が入って、水が入っているので、隣は水を抜いた状態で見れるといいねと。そうするとドックが二つ並んでよくわかりますから。

古いものを新しい町の中に残しているという意味でも、みなとみらいはすごく面白い町だと思います。何となく残っているというのではなくて、それが当時どういうふうに使われていたかがわかるように工夫して残してある。

汽車道も、昔、新港埠頭に船が着いて、そこから貨物列車で全国に荷物を配送する。その線路があったんです。今、船は着いてないけれども、そういう仕組みがわかるように残しておくことが重要ではないかと思う。

ドックヤードガーデンも、よく見ていただくとドックだけではなくて、周りにあった、キャプスタンと言う船のもやいを巻き上げる機械類も残っています。

 
  横浜の中心部は全部埋立地
 
篠崎 横浜船渠ができる前は、このあたりは海だったそうですね。

北沢
高島町を走る鉄道
高島町を走る鉄道
(国輝「神奈川蒸気車鉄道之全図」)
神奈川県立歴史博物館蔵

東海道から横浜に来るには、野毛山を通って、今の吉田町を通って馬車道に入るというルートだった。伊勢山の下あたりは急に海に落ちていたので非常に便が悪かった。便をなるべく悪くしたという話ですね。吉田橋のたもとに関門があって、出入りをチェックしたわけです。チェックした内側を関内(かんない)とよんだ。

それで、鉄道を敷くときに伊勢山下の一帯を埋めたんです。山を削って線路を敷くことは当時の技術ではできないので、東神奈川のあたりから海面をずっと埋め立てたわけです。高島嘉右衛門が埋めたので高島町という町名がついている。海の中を線路が通っていたので、当時、汽車に乗ってみたら面白かったんじゃないかと思いますね。

高橋 横浜の中心部は全部埋立地なんです。もともと旧都心は大岡川の流域を、江戸時代を通して少しずつ、新田開発という形で埋めてきた。横浜駅のほうは帷子川のデルタを埋めてきた。そして鉄道を通すために高島町とか横浜船渠をつくるために入船町を埋め立てた。今のみなとみらいも埋め立てて、新しい都心をつくっている。

ですから、三つの地域は、それぞれが時代は少しずつ違っても、埋立地の上にできているということですね。

北沢 帷子川一帯も全部入り江で、流れ込んでくる川の河口を残して、浅瀬をだんだん埋めていく。

篠崎 入江の中で川の部分を残したということですか。

北沢 そうです。

篠崎 掘割なのか、自然の川なのか、どっちなのかなとずっと思っていたんです。

北沢 一応川としての機能はあるけれど、どちらかというと運河。埋め立ての町だし、運河の町だし、港町だし、いい町だったんでしょうね。


関内と横浜駅の二つの地区を一体化する構想
 
篠崎 昭和40年に、当時の飛鳥田一雄横浜市長が六大事業を打ち出し、その一つとして、みなとみらいの構想がつくられたわけですね。

高橋 いろいろ目的がありました。一つは、横浜は、安政6年(1859)の開港のときには東海道から外して町がつくられたわけです。外国人とのトラブルを避けるため、幕府が交通の便が悪い所を選んだんです。ですから都市が大きくなってくると交通の便のいい横浜駅周辺が繁華街になって都心が二つに分かれたんです。

しかも、もっと大変なことは、東京という世界有数の大都市が近くにあることで、機能がみんな東京に集中し、横浜の都心機能は弱い。弱い都心が横浜駅周辺と関内の二つに分かれているのは問題だ。それを一つに拡大強化しようという事業がみなとみらい21事業です。そこで、中間部分に町をつくって、二つの都心を一体化させて都心を強くしようということで、それが一番大きな目的です。

細郷道一市長の頃、横浜の五重苦とよく言われました。大震災、昭和恐慌、それに戦災、接収で被害を受け、しかも東京のベッドタウンとしての人口爆発と、都市として非常に苦しんできたわけです。

昭和37年、人口150万だった当時、すでに将来300万にもなるだろうということが予想されていましたから都心を強化しなくてはいけないと提案されました。そのことが一番大きいんです。

この構想のすごい点は、造船業が盛んだった時期に、三菱重工にその場所を明け渡してもらい、その部分を都心にして、関内と横浜駅周辺の二つの都心を一つにしようという発想をしたことです。

飛鳥田市長の時代、田村明さんがおられた研究機関でそういう提案をされた。本当に驚くべきことです。その後、船はどんどん大型化していき、マンモスタンカーとか、コンテナ船になったりしたこともあって、ここのドックでは対応できなくなり、結局移転に合意していただいた。

 
  みなとみらいは金沢の埋立事業とセット
 
高橋
八景島周辺(金沢区)
八景島周辺(金沢区)  横浜市港湾局提供

もう一つは、町中の工場は公害のもとだというので、東京も川崎も工場を都市の外へみんな出した。ところが横浜では、公害工場であろうと横浜の活力のもとだし、横浜の市民が働いている場所なんだから市内に移そうと、金沢に土地を提供した。それで敷地も広くなり公害対策も十分でき、かつ事業も拡張できるようにした。そして跡地を再開発して、みなとみらいの都心に切りかえる。

ですから、みなとみらいは金沢の埋立事業とセットなんです。金沢の埋立事業も飛鳥田さんの時代に始まった六大事業の一つです。相互の関連性がある大きなプロジェクトであると同時に、埋立事業の考え方も大きく変えられました。それ以前の根岸湾の埋め立ての場合、大工場用に青田売りをしたんです。つまり、埋める前に売る。そのお金で埋立事業をやった。日本の成長期だったからできたと思うんですが。

しかし、そういう方式はよくないと。金沢の埋立地をつくるときには総合的な町をつくらなくてはいけない。市内の公害工場を移すとか、工場の従業員用の住宅もつくろうとか。それから埋め立てで市民が海岸に全然出られなくなってしまうので、市民が海に接する場所として八景島や海の公園をつくったわけです。

そのときから青田売りの工場用地をつくる埋め立ては止め、横浜の都市づくりのための素地みたいなものがつくられた。総合的な都市経営を考えた都市づくりの路線が敷かれた。

市長は飛鳥田さん、細郷さん、高秀さん、中田さんと今四代目になりますが、40年間、都市づくりの基本的な部分ではずっと一貫してきた。横浜の都市づくりにとって非常に幸せだったと思います。

 
  街づくりのエポックとなった日本大通りと山下公園
 
北沢 私が横浜市に入ったのは昭和52年で、まだみんな計画段階でした。私は今、非常勤の特別職で横浜市の参与をやっていますから、今の市長で四代おつき合いをすることができた。

横浜市の開発事業は、社会情勢も変わったので、最初と今では、埋め立ての面積も建物のスケールも違うけれど、例えば、みなとみらいでは、港沿いには大きな公園をつくろうという話は最初の計画から変わってない。

横浜の街づくりの中で大きなエポックは、幕末の1866年の慶応の大火後に、最初の都市計画をやり、今のスタジアムがある横浜公園から海に向かって日本大通りをつくった。

もう一つは関東大震災の後に、瓦礫で埋め立てて山下公園をつくったことです。

現在の都心部の街づくりの基本は田村明さんが考えられた話でしょうが、みなとみらいにも臨海公園があったほうがいいだろうと。それから、港に向かうアクセスがあったほうがいいというので、今のクイーン軸とか、まだ完成していないキング軸とか、港に向けての通りをつくろうという計画になっています。それは横浜の歴史に合った発想だと思うんです。ですから、市長や担当者が替わっても、そういう思想が生き残っているいい場所だと思うんです。

篠崎 横浜は歴史残る国際港都という精神が、ずっと流れているんですね。

北沢 何かずっと流れているものがあるんじゃないですかね。横浜人は新しいもの好きとよく言われますが、それだけではなくて、人間的なゆとりとか幅があるのではないでしょうか。瓦礫を使って公園をつくるというのはなかなかの発想だと思います。 震災後の大変な時期は、公園よりもっと飯の種になるような土地にしろという声もあったでしょうが、そこをちゃんと考えている。

 
  みなとみらい21のお披露目でもあった横浜博覧会
 
篠崎 平成元年(1989)に横浜博覧会が開催されましたね。

高橋
横浜博覧会会場(平成元年)
横浜博覧会会場(平成元年)
(株) 横浜みなとみらい21提供

横浜博覧会には三つの目的があって、一つは、市政百周年、開港百三十周年のお祝いをするイベント。

もう一つは、横浜はかつて港町で、鶴見、神奈川、西、中、磯子、金沢の臨海部に人口が集積していて、町も形成されていたけれども、内陸側はほとんどなかった。それが戦後、東京のベッドタウン化たことによって内陸部が急激に開発されてきた。「東京市民」と言われ、横浜に住んでいながら、横浜の都心には一度も来たことがないという人がたくさんいる。それで、臨海部の人たちと内陸に住んでいる人たちとの融合を図ろう、そのお祭りにしようというのが二つ目の目的だった。

三つ目は、みなとみらい21という街づくりをして、新しい都心、21世紀の都心をつくる。そのお披露目をしようということです。

ですから、横浜博覧会は、「宇宙と子供たち」というテーマでしたが、博覧会そのものとしては、未来の都市を楽しくお見せしましょう、という仕掛けでやったんです。

博覧会の会場というのは、迷路みたいに道を曲げてつくるのが普通なんです。真っすぐの道にすると、単調になって博覧会場としては面白くない。ディズニーランドなんかご覧になるとわかると思いますが、あの中の道は周遊できるように曲がっています。

ところが横浜博覧会はそういうのではなくて、みなとみらい21の基本構想をベースにして碁盤の目状につくり、パビリオンをその上に乗せた。つまり、未来の街を皆さんにお祭りの中で見せてあげますよと。乗り物もゴンドラや鉄道や未来のHSST(磁石で車体を浮上させ、リニアモーターで走る列車)を通したりしました。

また、一般に博覧会ではパビリオンの中でのイベントが中心ですが、町並みを歩いているときに楽しくなくては街にならないというので、街路の飾りやイベントやストリート・パフォーマンスなどもたくさん入れました。

非常に変わった博覧会になりましたが、評判もよくて、素晴らしい、みなとみらいのお披露目になりました。

モール(歩行者専用の道)みたいなものを軸にいろいろ演出したのですが、博覧会後は逆に、それを街づくりの中にも生かしてきました。横浜博覧会はそういういろいろな工夫をしたんです。

北沢 一つの実験だった。

高橋 そうですね。



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