はじめに
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篠崎 |
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高座郡衙跡全景 左は神奈川県立茅ヶ崎北陵高校の校舎
[かながわ考古学財団提供] |
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右から明石新氏、大上周三氏、荒井秀規氏と篠崎孝子 |
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茅ヶ崎市にある神奈川県立茅ヶ崎北陵高校の建て替え工事をきっかけに、昨年、かながわ考古学財団によってグラウンド内の発掘調査が行なわれました。その結果、これまで所在のまったくわからなかった古代の高座(たかくら)郡の役所である郡衙(ぐんが)の跡が発見され、話題を呼んでいます。発見されたのは「正倉(しょうそう)」と呼ばれる倉庫や「郡庁」と推定される大型の建物跡で、神奈川県の古代史の上からもいろいろ重要な意味をもつ遺跡と考えられます。
神奈川県教育委員会は埋蔵文化財の保護を優先して校舎の建設を取り止め、遺構は現在は埋め戻されております。
本日は、郡衙と推定される遺構が発見された茅ヶ崎市下寺尾西方(しもてらおにしかた)A遺跡の調査の概要についてご紹介いただき、さらに古代の神奈川についてもさまざまな角度からお話しいただきたいと存じます。
ご出席いただきました大上周三様は財団法人かながわ考古学財団調査研究部調査第一課長でいらっしゃいます。
明石新様は平塚市博物館館長代理兼学芸員でいらっしゃいます。平塚市の四之宮周辺遺跡の発掘調査などにも当たっていらっしゃいます。
荒井秀規様は、藤沢市教育委員会博物館準備担当学芸員で、古代史がご専門でいらっしゃいます。
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茅ヶ崎市下寺尾で古代の役所跡が
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篠崎 |
まず、遺跡の概要について紹介していただけますか。
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大上 |
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北側で検出された正倉 (倉庫群)
[かながわ考古学財団提供] |
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南側で検出された郡庁
[かながわ考古学財団提供] |
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発掘調査は、昨年の6月から12月まで、私ども、かながわ考古学財団で、茅ヶ崎北陵高校の校舎の建て替えということで行ないました。
下寺尾西方A遺跡は、旧石器から中世まで、いくつかの時代の遺跡が重なり合っている複合遺跡です。今回の調査で出てきたのは縄文時代前期の竪穴住居と、弥生時代中期後半の集落です。これは集落の周りが溝で囲まれている環濠(かんごう)集落と言われているものです。
それから、きょうの話の中心になる古代、とくに奈良時代の役所跡と、それに関連する施設です。
役所跡は、調査したグラウンドの北のほうから正倉と呼んでいる倉庫跡と、南のほうからは郡衙の中心になる政務や儀式を行なう郡庁が出てきました。遺跡の所在地が古代の高座郡にあることから、高座郡衙の跡だろうと推定されます。
倉庫群と郡庁の間は、距離にすると90メートルぐらいありますが、その間には竪穴住居とか、掘立柱建物と言って、役所に関連した建物と推定されるものがかなり出てきています。
郡庁域では正殿(せいでん)という建物が一番中心になる施設ですが、その一部も出てきました。
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郡庁の規模は全国で二番目の大きさ
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篠崎 |
郡庁というのは、郡役所のことですね。
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大上 |
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環濠の断面 (弥生時代中期)
[かながわ考古学財団提供] |
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はい。郡庁域は一般的に、「コ」とか「ロ」の字形をした建物の配置になっており、その中心に正殿が位置します。今回発見された正殿は、柱の間で数えると、五間×二間で、周りに庇(ひさし)が取りつく建物になると考えられています。
そして、その北側に後殿(こうでん)という桁行(けたゆき)八間×梁間(はりま)二間の細長い建物が出ています。また東側のほうにも脇殿(わきでん)という桁行六間以上×梁間二間の建物も見つかっていますが、遺構はさらに調査区域の外側に伸びています。
郡庁の規模は、推定で東西64メートルぐらい。これは全国的に見てもかなり大きな部類で、少し前のデータですが、全国で二番目ぐらいの大きさだろうと言われています。一番大きいのは鳥取県の万代寺遺跡の因幡国八上郡衙で、東西92メートルぐらいで、飛び抜けて大きい。
北側の正倉域からは、高床式の倉庫群が東西方向に四棟見つかっています。その倉庫群の南側には、桁行が十二間以上、梁行二間という非常に細長い大きな側柱式の掘立柱建物が見つかっており、合わせると五棟になり、それらが規則的に並んでいるということです。
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郡庁・正倉も7世紀終わりから8世紀初め
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大上 |
出てきた土器や竪穴住居との重複関係で考えますと、郡庁も正倉もほぼ同じ時期で、7世紀の終わりから8世紀の初めぐらいまでの、かなり短い期間しか機能していなかったということがわかってきています。
場所は茅ヶ崎市の一番北、寒川町と接している所で、台地の上になります。台地が西側に細長く伸びていて、それを取り巻くように小出川が流れているので、恐らくその川が利用されていたと思われます。また、南側には駒寄川が流れています。
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明石 |
高座丘陵という低い台地ですね。
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大上 |
郡庁と正倉の間の掘立柱の建物が規則的に並んでいる所は、宿泊施設としての館などの可能性があると言われています。最終的には、ここに掲載した「遺跡全体図」より調査が進んでおり、もう少し建物が出ていて規格的な配置をしていて、ここからは硯が出たりしています。
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旧相模国では鎌倉郡衙に続く二例目の発見
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篠崎 |
館というのは、お役人たちの住まいですか。
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大上 |
例えば国司が来たときに泊まる所とか、郡司という郡の長がそこで寝泊まりをしたのかもしれません。
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篠崎 |
正殿とか正倉は、柱の穴からどんな建物がイメージできるんでしょうか。
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大上 |
正倉は高床ですね。正殿のほうは、低い床が敷いてある床敷か土間かですね。
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篠崎 |
今回の調査に着手するまで、郡衙があると想定されてはいなかったんですか。
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大上 |
縄文時代の遺跡や弥生時代の竪穴住居などがあるのはわかっていましたが、ここから古代の役所、高座郡衙の跡が出てくるとは想定していなかった。神奈川県内では四例目、旧相模国では鎌倉郡衙に続く二例目の発見です。
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旧石器時代の遺物も確認できるが放置された時代も
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篠崎 |
この遺跡は旧石器時代から中世まで確認されているそうですが、例えば旧石器時代からはどういうものが出てきているんですか。
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大上 |
旧石器時代は1万3千年から3万5千年くらい前の時代です。今回の調査では旧石器は出ていないのですが、かつて出ているということで、旧石器時代の遺跡もあるということになっているんだと思います。
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篠崎 |
そこに、ずっと人々が住み着いていたことも考えられますか。
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大上 |
旧石器時代から連綿と住んでいたというわけではなく、狩猟をしたり食べ物をとる場であったりとか、全く関わりのない場所であったかもしれません。
今のところ見つかっているのは、縄文前期の竪穴住居です。一口に縄文時代と言っても約一万年も続く長い時代です。それ以外の時期の遺構は見つかっていないので、この場所で生活したり、無住の地であったり、そういうことが繰り返されたと思います。
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弥生時代の面からは大規模な環濠集落の遺構
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