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有鄰


平成15年3月10日  第424号  P2

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 高座郡衙の発見と古代の相模 (1) (2) (3)
P4 ○山の作家・深田久弥  田澤拓也
P5 ○人と作品  浅倉卓弥と『四日間の奇蹟』        藤田昌司

 座談会

高座郡衙(たかくらぐんが)の発見と古代の相模 (2)



壬生氏の一族が高座郡に大きな勢力をもつ
 
篠崎 今回発見された郡衙には、どのような氏族が関係したと考えられるのでしょうか。

荒井 まず、高座郡の字ですが、江戸時代以降、今まで高座郡と書いていますが、当時は、「座」を「倉」と書いて「たかくら」と読んでいます。

高座郡の郡司は、壬生(みぶ)氏だろうと考えられます。郡司というのは郡の役人でいくつか階層がありますが、一番上の大領(だいりょう)が壬生氏だと考えられています。

これは、平安時代の史料からさかのぼるやり方なんですが、『続日本後紀』に、承和8年(841)段階の高座郡司として壬生直(みぶのあたい)黒成という人物が出てきますので、まず当時、壬生氏が郡司だったことがわかります。

郡司の職は世襲制ですので代々、壬生氏が就任していたのではと思います。

同じころに相模川の西側の大住郡の大領にも壬生直広主がいるので、まとめて壬生氏という形で捉えていいのではないかなと思います。かなり大きな力を持っています。

律令制以前は、国造(くにのみやつこ)という官職名がありますが、これはヤマト王権から与えられた官職で、この国造も壬生氏であったと推定はされています。

 
  4世紀にはすでに中央のヤマト王権と交流
 
高橋 古代の相模を考えるとき、やはりヤマト王権と東国との関係が問題になりますね。

明石 簡単に言いますと、古墳時代、平塚の真土大塚山古墳とか川崎の加瀬白山古墳から、畿内の古墳から出土したものと同じ鋳型で造られた三角縁神獣鏡という銅の鏡が見つかっていますから、4世紀にはすでに、この地方と中央との交流があったことが確認できます。

荒井 それに、4世紀から6世紀代の反映になりますが、『古事記』とか『日本書紀』に有名なヤマトタケルの東征説話があります。

相武(さがむ)の小野という所で相武の国造がヤマトタケルを火攻めにしようとして返り討ちになったとか、三浦半島の走水で弟橘比売が入水するという話はよく知られていますが、こうした説話はいずれもヤマトの勢力に対する相模勢力の抵抗と屈服を物語っていると推定できます。

地方の豪族は、次第にヤマト王権の支配に組み込まれ、ヤマト王権はその地方を支配する長として、国造を任命します。国造に任命されたのが中央から派遣されたものか、服属した在地の土豪かはっきりしませんが、相模国では相武国造と師長(しなが)国造が任命されています。

明石 律令国家成立以前のことですね。相武の国造領域は相模川流域、師長の国造が酒匂川流域、あと鎌倉別(わけ)と、相模国には3つぐらいあったようです。

その後、相武の国造は、律令体制で高座郡と大住郡の2つに分かれる。平安時代、大住郡と高座郡の役人の長は壬生氏でいいんですね。

荒井 はい。壬生氏です。

 
  相武国造の本拠は伊勢原の比々多神社周辺
 
明石 古墳時代後期、中央から、そうした郡司[評司(ひょうじ)]が任命されるまでの相武の国造の中心地としては、六世紀終わりから七世紀にかけては伊勢原に比々多(ひびた)神社があります。伊勢原の登尾山(とおのやま)古墳や、らちめん古墳は彼らのお墓と考えられ、あまり大きくないんですが、副葬品として、金銅製の馬具や鏡、環頭大刀が出ています。一応そのあたりが相武の国造の本拠地と考えられるということなんです。

その後、相武の国造領域は分割されます。そこが問題になるんです。後に高座郡が置かれた領域も、最近、かながわ考古学財団が寒川の宮山中里で掘っていまして、古墳が出てくる。

そしてこの近くは横穴墓がたくさん出たりするから、そこも地域の豪族層がいるし、また、その北側の海老名とか綾瀬に行くと、その時期の古墳群がある。後で話します平塚、大住あたりも、それなりの勢力を持った者がいる。だから、いくつかの豪族がいたと思うんです。

荒井 重層的になっていたと思います。一時期は伊勢原でしょうね。

明石 領域が広いから、どの地域の勢力が一番手になるのか、二番手なのか、わかりませんが、そういった複雑な政権争いがあったんじゃないかと思います。

荒井 大抵、1つの川の水系で一つの大きな勢力があります。相模川を中心に、両側に、1つの相武の国造という感じでいいと思います。

ただ、それが川の左右で、例えば国造や豪族の一族の範囲をどこまでとるかという問題もあるんです。また、拠点が動いていたり、あるいは古墳がつくられる墓域が動いていたりもしますが、広い意味で相模川流域で一つの勢力圏にとらえてもいいかと思います。そのなかで、一時期どこが一番強い、次はここが強いというのが出てくるんでしょう。さらに、中央にうまく取り入った勢力もあるだろうし拒否した勢力もある。

壬生氏の「壬生」は「乳部」とも書き、中央の氏族の子どもを育てる一族という意味でつけられた名前で、養育一族、養育氏族という言い方をします。名前から言えば中央につながった勢力です。


律令国家となり、相模国は8郡に分けられる
 
篠崎 中央では7世紀半ばになると、大化改新の詔(みことのり)によって全国を国や郡に分け、国司を地方に派遣する中央集権体制がつくられますね。

荒井
神奈川県域の古代の郡境と郡衙
神奈川県域の古代の郡境と郡衙
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律令体制がいつから始まったかということですが、教科書的には大化改新で、蘇我氏を倒して、それで律令制が始まったという形になっています。それは『日本書紀』に書いてあることを、そのまますべて信じるならばということなんです。

『日本書紀』は後から編纂されたもので、後の知識で史実を書き直しています。今の考え方は、蘇我氏を倒した、大化改新というほどのものではないにしろクーデターはあった。そこですぐ、蘇我氏が滅びたから、じゃ律令の政治を始めましょうというわけではない。大化改新の詔という有名なものも一つの基本方針を出しただけで、すぐにできるものではない。実際には、7世紀後半、天智朝から天武朝、持統朝のあたりでだんだん律令体制ができてきたと考えられています。

そのなかで、国造勢力も改編があって、まず、評の役人になります。そして8世紀はじめに大宝律令が制定され、地方制度として国・郡・里の3つの段階になります。この時に評が郡に変わるんです。ですから、急に郡になったわけではなく、国造の国が評になり、それから郡に変わっていく。役人のほうも、国造から評督(ひょうとく)とか評司という役職になり、それが郡司になる。実際には国司の推薦で中央が任命する形をとりますが。

 
  高座郡は藤沢、茅ヶ崎、相模原などをふくむ広い地域
 
篠崎 郡の以前の行政単位が評ということですね。

荒井 はい。相模の西部にあった足柄評は、郡としては足(柄)上郡と足(柄)下郡に分かれています。

明石 江戸時代まで、相模国と武蔵国という行政区画がありますが、この呼び名は律令時代に端を発しています。今の川崎と、横浜の大部分は武蔵国。それ以外の所を相模国と言い、8つの領域に分ける。その分けた所を郡と言うんです。郡には郡衙が置かれて、郡の役人が住む。郡の広さはまちまちです。

大上 相模国では高座郡が非常に広く、現在の藤沢、茅ヶ崎、相模原、大和、座間、海老名、綾瀬と寒川の七市一町が入っている。

 
  郡衙を本拠地とは別の場所に置いた可能性も考えられる
 
篠崎 大化改新で何が変わったんですか。

荒井 蘇我氏、物部氏、大伴氏とか、中央の豪族が個別にあちこちの地方と関係を持っていたのを廃して、中央集権国家をつくるというのが律令体制です。それ以前もある程度まとまりはあったけれども、全国的に通用する法律、すなわち律令で支配を広げていくわけです。

篠崎 当時、壬生氏が在地の役人の長として、この一帯を支配していたわけですが、壬生氏に関連する遺跡は周辺にあるんですか。

大上 一般に郡衙を置く場合には、いくつかの考えがあるようなんです。1つは、豪族が拠点にしている場所に郡衙を置く場合。もう一つは国の政策もあるのでしょうが、本拠地ではない所に郡衙を置く場合。高座郡衙の場合、どういった理由で下寺尾に置かれたのかは、大きな問題になると思うんです。

ですから、その辺は前の古墳時代がどういう状況にあったかということで、下寺尾の付近に壬生氏の本拠地があったのか、それとも本拠地が別の所にあって郡衙が置かれたのかこれから考えていかなければいけないことです。

 
  郡衙が短期間で移動した理由は不明
 
篠崎 郡衙が他所へ移転した理由には、どのようなことが考えられるのですか。

大上 大きく移動する場合と、近辺に移動するのと、2つぐらい考え方があると思いますが、今のところ、どっちとも言えない。

茅ヶ崎北陵高校のグラウンドでは七世紀の終わりから8世紀初めまでしか郡衙は見つかっていませんが、なぜ短期間しか使われなかったか。これは1つは、高座郡は相模国の中でもかなり広いということがあります。

あとは人口。7世紀終わりから8、9、10世紀まで同じ人口だったとはとても思えない。例えば人口の増加に影響されて、場所を大きく移すこともあるし、行政機関を北と南の2つに分けるということも、ほかではあるようです。

七堂伽監跡の碑 (下寺尾寺院跡)
七堂伽監跡の碑 (下寺尾寺院跡)
 
  郡衙に付随する下寺尾寺院は9、10世紀まで存続

大上
居村木簡
居村木簡
[茅ヶ崎市教育委員会提供]
画像をクリックすると大きな画像が見られます(約45KB)
それを考えるうえで1つのヒントになるものとして、郡衙跡の近くに下寺尾寺院跡があります。そこから礎石や瓦、灰釉(かいゆう)陶器の類が出土しています。これがつくられたのは7世紀後半か末ぐらいで、9、10世紀ぐらいまであったと言われています。

神奈川県内では寺院と郡衙がセットになっている場合があり、橘樹(たちばな)郡衙と推定される川崎市高津区の千年伊勢山台北遺跡と影向寺の関係もありますし、鎌倉郡衙跡の近くでもお寺の屋根に葺いたと思われる瓦が出土したと聞いています。下寺尾でもお寺がずっと継続していると考えると、郡衙はあまり大きくは動かないで、付近に建て替えられた可能性は高いんじゃないか。

それから、茅ヶ崎市居村B遺跡というのがありますが、そこで放生会という宗教行事が行なわれていて、そのことを書いた天平5年(733)の木簡が出ています。8世紀の前半ですから、あまり大きくは動いていないのかなという気もします。

放生は生き物を放すことによって功徳を得るということで、仏教信仰の広がりの中で全国的に行なわれ、特に天皇が病気になったときに、そうした功徳を積むと天皇が長生きをするといわれています。



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