Web版 有鄰

『有鄰』最新号 『有鄰』バックナンバーインデックス  


有鄰


平成15年4月10日  第425号  P2

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 明治の東京 (1) (2) (3)
P4 ○開高健・文章の人  菊谷匡祐
P5 ○人と作品  吉村昭と『大黒屋光太夫』        金田浩一呂

 座談会

明治の東京 写真が語る都市の成り立ち (2)



木戸で空間が仕切られていた江戸の町
 
陣内 先日、江戸東京博物館でベルリン東洋美術館の「熈代勝覧(きだいしょうらん)」を見ましたが、江戸の中心部のすばらしいパノラミックな絵があり、それにも木戸がたくさん描かれていましたね。

江戸時代、町と町の間には必ず木戸あるいは番小屋があって夜は早く家に帰らないと閉じられてしまう。緩やかな管理でしょうが、一応、都市の治安とコミュニティの成員メンバーの、 ある種の束縛のために木戸があり、それが町の風景も形づくっていた。

だから、江戸の町は広い道路でつながっているのじゃなくて、木戸で空間を仕切っていた。でも、それは中国にもあったでしょうし。

藤森 ヨーロッパは?

陣内 ありません。ヨーロッパは城壁で、あとは教会の周りのコミュニティですが、そんなに空間で仕切っているわけじゃない。

藤森 中国には大通りからは門で仕切られた長屋形式の里弄(リーロン)がありますね。

陣内 そうですね。それと絵図などでも、交差点にちょっとしたゲートが描かれていますね。北京でもあった。

小木新造さんが言ってますが、日本では明治10年ぐらいまで町内社会が重要だった。だから一気に江戸がつぶれ、近代になったのではなく、そういうある種の日本風自治があって、大きな都市が成立していた。木戸はそれの管理であり、同時に守ってもいた。

藤森 しかし、明治になると消滅します。例えば馬車なんかが走ってきたら木戸があったら頭がつかえる。それと一つは、夜から朝まで閉まっていれば、夜の遊びにもね。

 
  キャベツが葉を巻くように閉じる江戸の町
 
陣内 藤森さんが江戸の町を「キャベツが葉を巻くように閉じる」と言ったのは、名言ですね。

藤森 キャベツのようにと言ったのは、江戸の町が木戸から濠まで大小さまざまな自閉の装置を何重にも重ねて、外から内に進むに従ってより固く守られていくという仕組みを象徴的に言ったわけで、大陸のように、高い城壁をめぐらしているのとは違う。

陣内 だから、掘割を越える所とか橋は開いていく場所で、都市の管理とか、新しい時代の都市計画の一番重要な要だと思いますね。だから木戸はなくなってはいけない。大木戸なんか特に。

 
  銀座も最初は人気がないゴーストタウン
 
藤森 銀座もちょっとびっくりしたのは、町並みに全然人が写ってない。

石黒 いないんだと思う。最初は人気(ひとけ)がなかったから。僕の集めた写真でも銀座で立ちしょんをしているのがあります。ほかは誰もいない。もちろんやらせですよ。

藤森 だけど、これじゃゴーストタウンですよね。

石黒 これは日本人のカメラマンだとすれば、国家予算の何分の一かの金を使って、こんなくだらないのをつくって、べらんめえというので、「立ちしょん」という演出をしたのかもわからないし、西洋人のカメラマンなら、日本人は西洋と同じ家を建てたのに、マナーは変わらない。まだこんなものなんだという皮肉なのかもわからないです。

藤森 これは初期の銀座の写真ですね。まだ松と桜と桐が生えています。

銀座煉瓦街
銀座煉瓦街 明治7年か
(石黒コレクション)
石黒 ガス灯が明治7年に建つ前です。

 
  武士や出入りの商人は田舎に帰って東京の人口は激減
 
編集部 江戸幕府が崩壊して、東京はともかく人口が減ったわけですね。

藤森 はい。150万が60万ぐらいまで減った。

陣内 山の手はがらがらになったけれど、下町は減らないでしょう。

藤森 もう一つは武士と商売をしていた出入りの商人が田舎に帰った。武士は領地があって帰れる。しかし、普通の商売をしている人は行き場がない。

陣内 だから、小学校なんかもどんどんできていくわけです。寺子屋と併存だけど。明治の早い時期の資料を調べていくと、やっぱり町人地がどんどんできていくし、都心の武家地にもできていく。

だから山の手、例えば原宿や代官山あたりは明治の終わりごろから人口が少しずつ増えてきた。

藤森 原宿は、穏田(おんでん)とか言ったんですね。

陣内 そう、穏田です。完全に農村だったんですが、日露戦争の後ぐらいからだんだんと市街地が郊外に無秩序に広がっていくスプロール化が始まる。

石黒 山の手の写真もないですね。東大の前の本郷とか全く家並みがないですね。赤坂は溜池とか、赤坂の御門がありますね。

陣内 明治以後、東京は山の手でも北、東のほうと、南とではイメージが変わってきますね。

北は、それこそ東大もでき、漱石も鴎外も北のほうで、川添登さんが『東京の原風景』で書いているように文学空間になっていく。上野には東京美術学校もあり、文化や、伝統的なものも割と残る。

南は、政治や新しい外国とのつながり。今、ほとんどの大使館も港区あたりに移っていますね。


官庁集中計画と市区改正計画が近代化を競う
 
編集部 官庁集中計画と市区改正計画という東京の改造案がありますね。

藤森
鹿鳴館
鹿鳴館 明治16年完成
(横浜開港資料館蔵)
明治の半ばに、東京をとにかく近代化しなければいけない、というのはみんなわかっていた。どういう順序で近代化するか、全体のイメージみたいなので、はっきり争ったのがわかるのは、明治19年から始まる外務省の官庁集中計画と内務省の市区改正計画です。 外務省は井上馨、内務省は一番上は山県有朋で、その下が東京府知事の芳川顕正ですね。この二つが争った。

最初は内務省が優先していた。内務省は基本的には、交通計画です。東京府の原口要という土木技師が、アメリカで勉強して、とにかく新しい交通体系をつくろうということで最初の案を出した。

今のように地方自治制度じゃないから、つまり、東京府は内務省の下部組織で、内務大臣の下にいるのが、内務次官と警視総監と東京府知事なんです。

それに対して、外務大臣井上馨は鹿鳴館を一生懸命やった時期ですから、とにかく、見た目をヨーロッパと同じようにしなきゃいかんと。日本の政治家では、見た目重視の人は珍しいんです(笑)。ヨーロッパにはいっぱいいますけど。

 
  パリのような東京をつくろうとしたエンデとベックマン
 
藤森
日比谷司法省庁舎
日比谷司法省庁舎 明治28年完成
(横浜開港資料館蔵)
それでエンデとベックマンという一流のドイツ人建築家を呼んだ。パリのような東京をつくろうと、官庁街の計画ができたんです。一応外務省の中じゃなくて、内閣直属の臨時建築局をつくったんです。

明治20年の不平等条約改正の交渉の失敗で井上馨が失脚し、結局官庁集中計画も縮小される。内務省の市区改正計画が勝って、都市計画の権限は内務省に移る。だけど外務省が都市計画をしてどうするというのか。

官庁集中計画で実際につくられたのは霞が関に今保存されている司法省(法務省)、外務省、海軍省、帝国ホテルぐらいですね。国会は結局仮議事堂のままでつくられ、最終的には今の国会のもとになります。

陣内 道路で実現したのは何かあるのですか。道幅も含めて。

藤森 道幅も含めて国会に上がる坂、今の中央官庁街の大通りと桜田門がそうです。それ以外は全滅です。縮小計画もエンデ、ベックマンのを引き継いでやったから、今の霞が関はあの計画が採り入れられている。

陣内 桜田門のことが出てきたので言いますと、横浜写真を見ていても、カペレッチ設計の参謀本部はたいへん印象的ですね。皇居のお堀の水面と木々の緑の上にそびえ立っている。

藤森
九段遊就館
九段遊就館
カペレッチ設計・明治15年完成
(横浜開港資料館蔵)

カペレッチがイタリア人だったからという気がしています。つまり、あの建物は相当意識的に目立つようにしたと思う。

というのは、カペレッチでもう一つ有名なのは九段の遊就館ですが、あれは、明らかにファサード(正面)の建築で、ものすごくファサードを意識している。横から見るとへらっとしている。これはイタリア建築の特徴なんです。 とにかく、正面から見たのを考えなさいと。通りに対して美しく見せなさいと、横はいいから。

逆に言うと、イタリアでは全体が見えるようにつくる機会はそうはないわけです。だって、横からは建物は見えないんですから。

陣内 むき出しの建物はあまりないですからね。

藤森 陣内さんに言われて気がついたけど、日本の役所は門があってみんな引きがある。僕は「えっ?」と思った。役所はそういうもんだろうと思っていた。確かに中央官庁でも町の中で知らない人が見ると、官庁とはわからない。

 
  最初のビジネス街となった兜町の建物には門と塀が
 
石黒 丸の内に一丁ロンドンができますが、ヨーロッパ風のロンドンの建物には門がなかったので、びっくりされて、「門無しは文無し」に通じるとからかわれ、最初いやがられたらしいですね。

藤森 丸の内に三菱一号館ができるのは明治28年です。それ以前のオフィスビルは、兜町の海運橋際に建てられた第一国立銀行が最初ですが、確かに、それには門がある。渋沢栄一が考えて兜町に日本最初のビジネス街をつくった。そこには株式取引所や銀行集会所、東京海上もあります。日本橋の海寄りにあって、東京で一番水運の便はいいけれど、敷地が狭い。それでも日本の郊外住宅みたいに一応せこい塀をつくった。

 
  門から建物の正面が見えないのが日本の伝統
 
石黒 カペレッチは日本人に合った建築ですよね。日本は門を立派にして、中はどうでもいいけど、見かけだけよくする。そんな感じがいまだにありますものね。

藤森 ただ、それもちょっと違って、日本は伝統的には、江戸時代には、門から建物の正面が見えるというのは絶対なかった。門は立派だけど、入ると斜めにするか、視線はまっすぐ通さないんですよ。

陣内 近代になってもアプローチのところを樹木でぐるっと隠す。車寄せの所まで回っていくみたいな。視覚的に関係性がはっきり示されては行けないんですね。だから図屏風などの景観画でも、重要なものはしっかりと描かれているけど、間の関係は雲で隠したり、ぼかす。人間の心理を実によく読んで街ができている。建築の配置も演出も考えられていると思います。だけど、こういう九段の遊就館のような建物が出てくると非常に新鮮で衝撃的です。

藤森 お城が、周りに門も石垣もなくて突然建っているような。それをイタリア人がやったというところで、イタリアはファサードの国だと。

 
  市区改正計画で誕生した丸の内「一丁ロンドン」
 
編集部 今お話に出た丸の内の一丁ロンドンも市区改正計画の一環なんですね。

藤森
丸の内オフィス街 「一丁ロンドン」
丸の内オフィス街 「一丁ロンドン」 明治43年か
(石黒コレクション)
そうですね。内務省側が交通計画をやりまして、内務省の関心は、外務省と違って内実が大事なんですよ。地方自治を押さえている。結局、交通計画と一緒に配置計画を決める。要するに、どこを官庁にするか。専門用語で用途地域と言いますが、用途地域の一つとして丸の内をビジネス街にするということで。それは別に三菱が決めたわけじゃなく、市区改正委員会が決定し、それで売りに出して三菱が買う。そして三菱が街を開発していく。計画はないよりあったほうがいいという感じがする。 今の汐留は僕はミニ開発の超高層と言っていますが、巨大なものを無計画にやっちゃいけない。だからそういう点では丸の内の計画とか、戦後は新宿の西口とか、ちゃんとした計画でつくられた所は当時としてはよかった。



ページの先頭に戻る

Copyright © Yurindo All rights reserved.