Web版 有鄰

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有鄰


平成15年9月10日  第430号  P2

 目次
P1 ○有鄰——かならず仲間がいるよ  高島俊男
P2 P3 P4 ○座談会 中世鎌倉の発掘 (1) (2) (3)
P5 ○人と作品  石田衣良(いしだいら)と『4TEEN(フォーティーン)』        金田浩一呂

 座談会

中世鎌倉の発掘 (1)
仏法寺跡と由比ヶ浜南遺跡をめぐって

鎌倉考古学研究所所長   齋木 秀雄
神奈川県立金沢文庫主任学芸員   西岡 芳文
聖マリアンナ医科大学教授・医学博士   平田 和明
鎌倉国宝館副館長   松尾 宣方
        

座談会出席者
左から齋木秀雄氏、平田和明氏、松尾宣方氏、西岡芳文の各氏

(大きな画像はこちら約~KB)… 左記のような表記がある画像は、クリックすると大きな画像が見られます。
 
  はじめに

編集部
仏法寺跡(手前)から由比ヶ浜方面を望む
仏法寺跡(手前)から由比ヶ浜方面を望む 
↑印は由比ヶ浜南遺跡
鎌倉市教育委員会提供

中世の鎌倉は、近年の発掘調査によって、従来の文献からだけではわかりにくかった都市のあり方や、庶民生活の実態が次第に明らかにされてきました。

本紙では、これまで鎌倉で行われた発掘調査の成果の幾つかを紹介させていただいております。本日は、平成12年度と13年度に、世界遺産登録に向けて鎌倉の山稜部で実施された調査のうち、仏法寺跡の成果と平成七年から調査が行われ、大量に出土した人骨の分析結果が明らかになった由比ヶ浜南遺跡を中心に、お話をお聞かせいただきたいと思います。

ご出席いただきました齋木秀雄さんは、鎌倉考古学研究所所長、鎌倉遺跡調査会代表でいらっしゃいます。由比ヶ浜南遺跡では発掘調査団長を務められました。

西岡芳文さんは、神奈川県立金沢文庫主任学芸員で、中世史をご専攻です。金沢文庫があります横浜市・称名寺は仏法寺と同じ真言律宗ですので、仏教史の面からのお話もお聞かせいただきたいと存じます。

平田和明さんは、聖マリアンナ医科大学解剖学教室教授でいらっしゃいます。由比ヶ浜から見つかった人骨の鑑定を担当されましたので、分析結果などをご紹介いただきたいと思います。

松尾宣方さんは鎌倉市教育委員会で長年にわたり鎌倉の各所で行われた発掘調査に携わられ、また山稜部に残る要害遺跡などの調査をされました。現在、鎌倉国宝館副館長でいらっしゃいます。


要害遺構が山稜部につくられたのは13世紀後半

松尾 鎌倉では世界遺産登録を目指してさまざまな事業を行っており、文化財調査もそのひとつです。

従来、鎌倉は三方を山に囲まれ、一方が海に面し、攻めるにかたく守るにやすいという地形的条件が、源頼朝がここに幕府を開いた最大の要因だと言われておりました。

『吾妻鏡』にもそういう表現がありますが、ただ、実際にはそれについての具体的な調査例がなかった。また平成12年当時、要害に立地した城塞都市であるということを、鎌倉の大きな特性として世界遺産登録をという運動がありました。

そのバックデータを得るためにも調査を行ったわけです。

調査は鎌倉を囲む山を、七切通と東勝寺、釈迦堂口の中央部の各要所を中心に八つの地区に分けまして、それぞれの周辺の山稜部の中に約百三十か所の調査区を設定して行いました。調査区の面積は、約2,300平方メートルありました。その結果、いわゆる要害遺構が多数検出され、祭祀と葬送に関する遺構も数多く見つかっております。

祭祀の遺構については、塚を中心にした遺構、葬送遺構につきましては、荼毘(だび)の跡が何か所も見つかっています。主として仮粧(けわい)坂と名越坂のあたりに荼毘の跡が発見されました。

その他、岩盤を加工して石塔をつくるような生産場所も発見されております。つまり鎌倉の山は防衛的な側面だけではなくて、宗教的な側面、生産的な側面もあるということで、鎌倉市街地と一体となった場所であることが確認されたわけです。

 
  掘割や平場など山城特有の遺構が鎌倉西部に集中

松尾 要害遺構の代表的なものとして、桝形遺構があります。土塁を方形に囲んで形成する。これは元来は城門の外につくるものですが、それを山の中でもつくったことがわかりました。

同時に、山稜部を、稜線を断ち割るような掘割の跡、山腹部に形成された平場、そういう山城特有の遺構も数多く見つかっております。その多くが極楽寺坂、大仏坂、仮粧坂、巨福呂(こぶくろ)坂にかかる、主として鎌倉の西部、つまり、京都の方面を向いたあたりに集中している。それと、東勝寺を中心とする区域にも集中していた。ですから、実際に戦争があった場所に防衛遺構が多くあったという結果になるわけです。

編集部 東勝寺は北条高時が最後に立て籠もった葛西ヶ谷(かさいがやつ)のところですね。

松尾 はい。多くの要害遺構は山の中なので、遺物は少ないんですが、それでも数十点が収集されました。その一番古いのが13世紀の後半代のものを上限とする遺物でした。

ですから、頼朝が鎌倉に入るときに、要害の地として築いたのではなくて、もっと時代が下がった13世紀の後半になって初めて鎌倉の山に人工的な手を加えて、要害遺構をつくったということが、今回わかったわけです。


仏法寺跡と忍性の雨乞い池を発見

松尾
仏法寺の池と建物跡
仏法寺の池と建物跡
鎌倉市教育委員会提供

極楽寺境内絵図
極楽寺境内絵図 (大きな画像はこちら約60KB)
極楽寺蔵

最も注目すべき成果は極楽寺の切通の南側に霊山山(りょうぜんざん)という地域がありますが、その山中で極楽寺の支院の一つである仏法寺という寺院の跡が発見されたことです。

場所は、坂ノ下地区の海岸に面した山の中腹です。そこに人工的な平地があることがわかり調査しようということになりました。

これは東西が30メートル、南北70メートルほどの規模の平地で、鎌倉の海岸線、由比ヶ浜、和賀江嶋を眼下に見下ろす眺望が可能な場所です。

仏法寺につきましては、その後、平成13年に再度調査を行い、建物跡が発見されました。それは安山岩の礎石を伴う建物で、山が崩れた中に少し入り込んでいますので、全容はわかりませんが、東西二間で6メートル以上、南北四間で12メートル以上の規模を持つ礎石建物が発見されました。 また、年代は下がりますが、二間四方の柱穴2メートルの建物跡も発見されている。

極楽寺境内絵図の一番下、南側に仏法寺と書かれています。その建物の向かって右わきに、請雨池(しょうういけ・大きな画像はこちら拡大図参照)があります。雨乞いの池だと思いますけれども、元徳元年(1329)に成立したという『極楽寺縁起』をみますと、忍性(にんしょう)の雨乞いの場所として、田辺(鎌倉市七里ヶ浜)と江ノ島と霊山の三か所を選定している。ですから、これは忍性の雨乞池といわれています。

池の範囲は推定もありますが、東西6メートル、南北8メートル、水深は2メートルのハート形をした、ちょうど境内絵図に描かれたような形です。池の中に堆積している土層は二つに分かれまして、一番下の、池の底に堆積している層から出てくる遺物は13世紀の後半期、その上の中間に堆積している層からは14世紀の末から15世紀にかけての遺物が出土し、大きく二つの時期に分かれます。ここから約千点の柿経(こけらきょう、“薄い板に書かれたお経”)が発見され、そのほとんどに法華経が書かれている。

池の底からは、箱根から採取されたと思われる、溶岩が含まれた礫岩が幾つも見つかりました。同じような礫岩は永福寺でも見つかっていますが、庭石に使ったんだろうと思われます。

 
  14世紀末には塚や桝形遺構の土塁に石塔が収納される

松尾 先ほど申しました桝形遺構の代表例としては、極楽寺の切通をはさんで両側に発見されたんですが、北側に一升桝、南側に極楽寺を見下ろす成就院の上に五合桝という名前の桝形遺構がつくられております。いずれも13世紀の後半期につくられたことが、かわらけや卸ろし皿などの出土遺物からわかります。

石塔を埋納した塚 (仏法寺跡出土)
石塔を埋納した塚 (仏法寺跡出土)
鎌倉市教育委員会提供

そして、塚もその周辺から多く見つかりました。極めて大きな塚も見つかり、その中には13世紀から16世紀ぐらいにかけての石塔類がたくさん中に入っていた。五合桝の土塁も、14世紀の末ぐらいに土塁を削って、その中に石塔を収納する。五合桝の南側にも、雛壇状に造成したところに多数の石塔が集積されている。一か所に集めたりとか、塚の中に収納したりすることが今回の調査でわかったわけです。

さらに少し年代がたって、もっと具体的に言えば、元弘の乱(元弘3年=1333)が終わって、供養のためでしょうか、いろいろな石塔がそういうところに祀られていく現象がみられます。元弘3年11月の銘が入った五輪塔も見つかっていますので、仏法寺周辺は、この戦いで亡くなった人々を供養する場にもなったと思います。

 
  極楽寺は福祉、土木、建設などの機能を持つコンビナート

編集部 極楽寺と仏法寺はどういう関係なのですか。

西岡
極楽寺周辺の遺跡地図
極楽寺周辺の遺跡地図
(大きな画像はこちら約186KB)

鎌倉市教育委員会提供

極楽寺は、最初は極楽浄土を拝む念仏系の寺で、そこに忍性が入り込んできたと、一般的に言われていますが、ちょうど鎌倉の東の端と西の端に、称名寺と極楽寺という律宗の寺があるのは、鎌倉を見るときに重要な意味があるだろうと思うんです。

叡尊(えいそん)が鎌倉に入るのが弘長2年(1262)、そのころ弟子の忍性も常陸からやって来る。極楽寺に大規模な伽藍が造営されるのは忍性が来てからです。極楽寺絵図がどこまで本当にそのころの様子を示しているのかはわからないのですが、中央に大規模な七堂伽藍に当たるような堂や塔があり、その周囲をいろいろな支院が取り巻いている。

これは普通に考える大きな一つのお寺というよりは、さまざまな個別の機能を持った支院がその周りを取り囲む、一種のコンビナートというんでしょうか、そういう存在であるだろう。現代のお寺とは違って教育から福祉、土木、建設、何でもやるんです。例えば病人に対して施薬院や悲田院など病院的な設備をつくる。 それから土木関係をやる人も極楽寺の中には大勢いただろう。

当時の極楽寺は、現在、極楽寺がある場所だけではなくて、かなり周囲に広がっていたと思われます。ですから今回出てきた、仏法寺と言われる遺跡も、広い意味での極楽寺の一つと考えていいのではないかと思うわけです。

 
  極楽寺は蒙古襲来に備える西の守りのポイント

西岡 この極楽寺の持つ意味ということで言いますと、鎌倉の西の守りというんでしょうか、そういう重要なポイントにあることが、まず大事なことだろうと思います。先ほど松尾さんから、遺跡はだいたい13世紀後半というお話がありましたが、まさにその時代、鎌倉を防衛する一番の目的は、やはり蒙古襲来への対応なんです。鎌倉への入り口に当たる西の外れを押さえるという意味が大変大きかったのではないかと思うんです。それを象徴するいい例が二度目の蒙古襲来(弘安4年)のときに、祈祷によって蒙古を調伏するという修法をやっていることです。

そのとき忍性の師匠の叡尊は京都の石清水八幡宮で護摩をたきますが、ほぼ同時に忍性は稲村ヶ崎でやっている。恐らく仏法寺、霊山寺と呼ばれるお寺があった稲村ヶ崎の山上辺りが一番ふさわしい場所になるだろう。そういう意味でのお寺としてのさまざまな活動、そして鎌倉を鎮護するという意味での非常に重要なポイント、その辺が極楽寺の役割なんだろうと。

中世の律宗は、ほかの宗派に比べて、ほんとうに何でもやる。それはすべて蒙古襲来に対する幕府の政策を請け負う形でやられています。

 
  忍性と日蓮が雨乞い合戦をやったというのは伝説か

編集部 忍性が幕府と強く結びついていたことに反発したのが日蓮ですが、対立の象徴が雨乞いでしょうか。

西岡 日蓮の伝記には、忍性と雨乞い合戦をやったということが必ず出てくるんですが、日蓮宗側の史料を見ますと、日蓮の自筆のものにはそれは余りないようで、後世になってつくり上げられた伝説のようにも思えるんです。

ただ、忍性の伝記に、諸国干ばつで雨乞いの祈祷をしたら成功したという記事がありますから、実際にそういうことをやっていたのは確かだろう。特に当時の密教のお坊さんのパワーで一番期待されたのは、雨乞いなどの現世利益です。それに忍性が奇特をあらわしたことは、忍性在世中から信じられていたことなんだろうと思います。

編集部 池から柿経が出たのは珍しいことなんですか。

西岡 真言系ならば大概やりますけどね。ただ、遺物として残る例は少ないと思います。池のようなところがあると、お経を書いたものを水に浮かべて供養するとか、今でも高野山では、卒塔婆を川の中に置いて、流れ灌頂(かんじょう)というのをやっております。それと似たような意味があったと思います。



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