Web版 有鄰

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有鄰


平成15年9月10日  第430号  P3

 目次
P1 ○有鄰——かならず仲間がいるよ  高島俊男
P2 P3 P4 ○座談会 中世鎌倉の発掘 (1) (2) (3)
P5 ○人と作品  石田衣良(いしだいら)と『4TEEN(フォーティーン)』        金田浩一呂

 座談会

中世鎌倉の発掘 (2)
仏法寺跡と由比ヶ浜南遺跡をめぐって




元弘の乱の帰趨を決した稲村ヶ崎一帯

編集部 仏法寺のあった場所は、元弘の乱のときに、新田軍との間で激しい攻防がありましたね。

松尾 まず一つは仏法寺のある場所の通行路との関係なんです。極楽寺の切通は、忍性が極楽寺に入ってから以降につくられたものだと言われています。それ以前に西に向かう道はどこにあったかというと、『吾妻鏡』とか『海道記』その他、実際に稲村ヶ崎を通ったという記録がありますから、通行路としては存在していたんではないかと思います。

それ以降の『太平記』とか『梅松論』などでは、「稲村崎の波打ち際。石高く道細くして」という記録がありますし、極楽寺の切通ができてから以降も、なおかつ存在はしていたと考えております。

この道の問題なんですが、霊山崎と稲村ヶ崎は二つの区域に分かれると考えられます。近世の鎌倉の図にしても、それ以降の地形図にしても、霊山崎と稲村ヶ崎とは二つに区分されています。

平成12年の山稜部の調査の中で、地形調査を行ったんですが、この二つの山と山との間を通っていく細い道が今でも残っています。そこからさらに東側の海岸のほうは、山崩れや地震で崩落したようですが、推定としては霊山崎と稲村ヶ崎を分ける細い道が、仏法寺跡の下を通りながら坂ノ下のほうに抜けていたんではないかと考えています。

 
  新田義貞軍が仏法寺に籠もっていた鎌倉方を打ち破る

松尾 元弘3年(1333)に鎌倉に攻めてきた新田義貞が、稲村ヶ崎のところから黄金の太刀を竜神に捧げたら、にわかに潮が引いたという『太平記』に基づいた伝承がありますけれども、実際にはどうかということを、今回の調査の結果を踏まえて検証してみました。

実は、明治35年に歴史学者の大森金五郎先生が、実際に自分で、引き潮のときに徒渉を試みたという記録があり、海中を渡るのはそれほど困難ではないという実験結果を紹介されております。

それから、東海大学の山中一郎さんという水産海洋学の先生の論文によると、元弘3年5月22日は現在の暦では7月11日なんですが、干潮は午前2時50分と午後2時半ごろ、二回あったことが究明されております。

『梅松論』では、5月18日、新田軍の一部、大館宗氏の一軍が鎌倉に侵入したと書いてある。これは恐らく仏法寺の跡を新田軍が占拠して、稲村ヶ崎から坂ノ下に向かう道筋を通って、鎌倉に一時侵入したんだろうと思います。それが鎌倉方の反撃を受けて、「其手引退て霊山の頂に陣を取」とありますから、恐らく霊山山、つまり、今の仏法寺あたりに大館宗氏の軍勢は引き揚げて、また陣を構えた。

その後19日、20日、21日とすさまじい攻防戦があったことが、軍忠状の中でも明らかにされております。5月21日に鎌倉方が霊山寺の大門に引きこもり、稲村崎の攻撃方に散々矢を射たので、なかなか破ることはできなかったけれど、三木俊連が自ら峯を駆けおりて、多分奇襲戦法でもしたのか、それで大門を打ち破って、さらに霊山寺の峯を攻め登る。そういう中で夜中まで戦いが続いたと書かれています。

それと、先ほどの引き潮の時間を考えて分析してみますと、三木俊連の奇襲によって勢いを得た新田軍が、最後に仏法寺に籠もっていた鎌倉方を打ち破り、そして午前2時50分ごろの干潮の時期に、ちょうど潮が引いた砂浜と、稲村路を通って鎌倉に攻め込んだんだろうと思います。

そして一挙に戦いが新田方のほうに有利に展開して、最後は5月22日の東勝寺での北条一族の滅亡へと進んでいったんだろうと考えております。

 
  『太平記』は鎌倉の内側から、『梅松論』は外から攻める側の目で

西岡 軍忠状は、どこでけがをしたとか、戦死したとかいう証明書です。ですから、非常に断片的な記事しか書いていない。ただ、年月と場所はしっかり出てくる点では貴重な史料です。けれども戦局の帰趨がどうなのかということまでは、そこから読み取るのはむずかしいですね。

この戦いの場合は、『太平記』と『梅松論』という二つの史料を使わざるを得ない。

一番新しい研究ですと、磯貝富士男さんという中世史家が、実際に暦を見て潮の干満を計算した上で、学生たちを連れて稲村ヶ崎を渡ったことがあるんです。この地域は大地震のたびに隆起したり、沈降したりしてますし、大きい気候変動で、この時期は海面が下がってもいたようです。

『太平記』はどちらかというと、鎌倉の内側から戦局をながめている。ところが『梅松論』は足利方といいますか、外から攻めるほうの目で書いている。それをうまくかみ合わせれば、大体5月18日から21日ぐらいまでの戦局が復元できるだろうという研究があります。

松尾 立地から考えた場合に、仏法寺の場所をとるかとらないかで、頭上の安全を確保できるかどうかといった地形的条件は備えていると思うんです。最初に破られたのが稲村ヶ崎側ということは、それが帰趨を決したと考えてもいいんじゃないでしょうか。

編集部 仏法寺はいつごろまであったんでしょうか。

松尾 明暦3年(1657)に仏法寺を移して極楽寺の方丈にしたという記録が残っていますから、江戸時代前半までは存在したようです。


由比ヶ浜南遺跡から大きな屋敷と大量の人骨が出土

編集部 由比ヶ浜南遺跡の調査の成果はいかがでしょうか。

齋木
集積墓の埋葬遺構 (由比ヶ浜南遺跡)
集積墓の埋葬遺構 (由比ヶ浜南遺跡)
由比ヶ浜南遺跡発掘調査団提供

由比ヶ浜南遺跡は鎌倉海浜公園内の遺跡です。この遺跡の発掘調査は地下駐車場建設に伴う工事に先立って行われました。

鎌倉市内では一番海に近い地域を10,000平方メートルの広さが調査できたことで大きな成果がありました。

検出されたのは大きな礎石建物を持つ屋敷を中心とした小規模な建物群とそれに前後する埋葬人骨群です。 人骨は、計算方法によって多少数字が異なりますが、恐らく五千体ほどが見つかっています。埋葬方法は二通りあります。一つは単体埋葬で一体が一つの穴に埋葬されます。もう一つは集積埋葬と呼んでいます。これは、大きな穴に人間、動物等を乱雑に埋葬しています。

埋葬体の多いものでは骨が数10センチの厚さで確認されています。骨の検出状況は脊椎が繋がっているものや、そうでないものがあります。脊椎同士が入り組むように見つかっていますので、かなり乱雑に投げ込まれたようです。この他に火葬骨埋葬等もありますが、実際の埋葬体数は正確に把握できていません。

 
  異様に防御的に造られた生活臭のない屋敷

齋木
屋敷跡と建物 (由比ヶ浜南遺跡)
屋敷跡と建物 (由比ヶ浜南遺跡)
由比ヶ浜南遺跡発掘調査団提供

大きな礎石建物と屋敷は13世紀後半になって造られます。

この屋敷と建物の特徴は、北側が敷地外で調査されていないので判りませんが、屋敷の入り口である門が南の海に向かって造られていることです。門の両側には塀がありますが、その塀の板が造られた当初は線路の枕木みたいに太い角材を使っています。

屋敷の東と西には鎌倉石を使った大規模な土塁か築地があります。屋敷の西側土塁の外には木組み護岸の河川が流れて、その西には御成(おなり)小学校の前を通る今小路(いまこうじ)に真っ直ぐに延びて行く、丁寧に造られた道路があります。

この土塁と強固な塀で囲まれた屋敷と建物は、鎌倉でこれまでに見つかっている屋敷にくらべて異様に防御的に造られていると思います。防御的な屋敷の門が海側にしか無いということも不思議な点です。

出土している遺物には生活臭がありません。かわらけという灯明皿として使う素焼きの皿は多いんですが、例えば、生活する鍋、釜とか碗、皿類や燃焼施設のかまどなどは全くありません。居住性がほとんど感じられない。それと、何回も建て直されてないこともわかりました。

 
  集積埋葬が40基、一番多い穴には五百体分の遺骨が

齋木 埋葬人骨には、特殊な例が多く、分析も全部は終了していないのですが、集積埋葬だけで40基近くありまして、一番多い穴には500体ぐらい埋葬されています。だいたい200年で40基ぐらいですから、数10人から2、300人が死ぬ状況が、数年に一回、鎌倉の中であったということになります。

編集部 合戦だけではないということですね。

齋木 はい。刀創(とうそう)が残っているのは意外に少ないです。浜の大鳥居の辺りまでは集積埋葬がありますので、鎌倉全体では、200前後の集積埋葬遺構があると思います。いろんな状況で死んだ人がいたのだと思います。

 
  住んでいたのは革なめしをしたり骨製品をつくる職人層

齋木 大きな建物の東西には居住区があり、バラック的な建物と井戸も見つかっていますので、海の間近でも生活をしていたと思います。現在の海抜で2メートル前後まで生活面がありますので、かなり海の近くまで生活範囲が広がっていたと考えられます。

編集部 ここには、どのような人たちが住んでいたのでしょうか。

齋木 遺物からは職人が考えられます。牛馬の頭の頭頂が割られて脳髄がとられたのがいっぱい出てきますので、まず革なめし職人、それと骨を切って笄(こうがい)やサイコロをつくった痕跡が出てきますので、骨製品の加工職人。石をのこぎりで切って硯の形にしたものとか、大きい石を切ったのとかも結構出土しますので、石材加工職人もいます。

それと、中国製とは断定はできませんが、布袋様とか、日本の外から持ってきた人形が浜の空間から出ることが多いので、貿易関係の人もいたようです。

銭や鍋などの鋳型も出ていますので、鋳造関係の職人もいたと思います。

職人がいて、鎌倉の中に向けて生産活動をしていたと考えています。

 
  墓域をくずし海岸線を埋め立てて生活空間をつくる

齋木 建物を造るとき、一部お墓を壊しています。一時期墓域だったところに急激に遺構がつくられます。その大半が方形竪穴という半地下式の建物ですが、それが居住空間なのか、それとも倉庫なのかは、はっきりしない部分もあります。

編集部 それは13世紀の後半ですね。

齋木 由比ヶ浜南遺跡から100メートルほど北側の調査では、13世紀前半の火葬址が見つかっています。13世紀前半の、人骨埋葬区域は、もっと北にあったのです。

由比ヶ浜南遺跡では、埋め立て土があって、それから建物ができますので、100メートルぐらい、内陸の土で海岸線を埋め立てているということなんです。その中には一体分の骨とかが土層に入ってきますので、内陸の墓域まで壊した形で海岸線を埋めて生活空間をつくったんじゃないか。

編集部 どうしてそうなったんでしょうか。

齋木 町の中で、スペースが不足して、古くから残っていた空間を都市化していったのだと思います。

松尾 例えば、今小路西遺跡(御成小学校)では、道路によって居住区域をつくって職種や職能によって住み分けを調整していた。空間地が管理されていたことがうかがえます。 そういう点から、海岸地域も同じように管理されていた可能性が高いんです。

編集部 大きな屋敷は何だったのでしょうか。

齋木 屋敷の性格は三通り考えました。まず蒙古軍が襲来した時の防御施設。余りにも海に向かって防御的な構造なので考えました。

二つ目は極楽寺に関わる貿易関係施設。これは建物の礎石にカキ等の貝殻が付着している事から考えています。鎌倉で海中に沈んでいる石は貿易港の和賀江嶋に多くありますが、この和賀江嶋は極楽寺が管理していたようです。

三つ目は幕府関係の海浜管理施設。これは屋敷の土塁や道路が鎌倉石や土丹(どたん)で造られていることや河川の木組みが鎌倉中心部のものに似ていることなどから考えています。報告書では広い意味での貿易関係の施設としました。

松尾 付近の土壌の花粉分析の結果、寄生虫が多い。住環境は非情に悪かったようです。



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