Web版 有鄰

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有鄰


平成16年2月10日  第435号  P3

○鎖国から開国へ   P1   加藤祐三
○座談会 関家住宅   P2 P3 P4   関 恒三郎関口 欣也西 和夫神崎 彰利井上 裕司
○人と作品   P5   いしい しんじと『絵描きの植田さん』

 座談会

東日本最古級の民家
国指定重要文化財 関家住宅 (2)



(大きな画像はこちら約~KB)… 左記のような表記がある画像は、クリックすると大きな画像が見られます。
 

  ◇建物が不同沈下し、部材も傷み、全解体修理

編集部 関さんのお宅は重要文化財ということで、その修理は、たいへんなお仕事だと思いますが。

西 重要文化財に指定されていますと、修理するのに資格がありまして、今、井上さんが担当してくださっているわけですけれども、文化財建造物保存技術協会には、その資格を持っている技術者がたくさんいらっしゃる。そういう方たちにお願いしているんです。

建物の価値の一つは、古いということです。古いから重要だという単純な話ではなくて、まず、それを先人たちが今日まで大事に伝えてくださった。それは大変な価値だと考えていいと思うんです。

もう一つは、これは住宅、住まいですから、当然いろいろな変遷を経てくる。長い年月を保ってきた建物であれば、その変遷を追うとき、それだけたくさんの情報があるということです。建物の変遷は、生活の変化に伴っているわけですから、生活の様相をたどることもできる。我々にそれを見る能力、探す能力さえあれば、建物が包み込んできた、たくさんのことを知ることができる。そういう意味でも非常に大事な存在です。

建物を丈夫にして生き返らせればいいというだけじゃなくて、この機会に、中に包まれてきた生活そのものもできるだけたどりたい。建物自身はものを言いませんが、それを語らせるのが、井上さんたち技術者、専門家ということになる。

どこまで建物に語ってもらえるか。それが、われわれの課題です。修理とはそういうものだと、私は考えているんです。

関家住宅配置図
関家住宅配置図
財団法人文化財建造物保存技術協会提供
(大きな画像はこちら約98KB)
主屋復原推定図 (昭和37年)
主屋復原推定図 (昭和37年)
『神奈川県建築史図説』から
(大きな画像はこちら約27KB)

    屋根から順番に材料を取り外す
 
編集部 解体修理はどのように行われているのでしょうか。

井上 関さんから450年たっているというお話がありましたが、長年経ますと、どうしても基礎が沈んできます。不同沈下といって、位置により沈下量がばらばらになってきますと建築的にも非常によくない。また、主要な柱や梁[はり]などにも傷みがあり、今後、保存・維持していくためには、今の段階で修理が必要であろうという、地元の声や文化庁の判断もあって、修理に着手しました。

関家・主屋解体修理状況
関家・主屋解体修理状況
財団法人文化財建造物保存技術協会提供

今回の主屋の工事は、全解体修理といいまして、部材を止める釘を抜いたり、継ぎ手や仕口を一つ一つ分解して、一旦すべての部材を解体する方針をとっています。

まず修理前に、どの部分がどう傷んでいて、またどういった特色があるかを、全体にわたって調べました。それから、屋根から順番に、一つずつ材料を取り外していく作業に入りました。その解体中に行う調査が、先ほど西先生が話された、「語らせる」という部分です。この材料は最初に建てられたときに使われた材料なのか、あるいは後世の修理でつけ加えられたものなのか、材料の種別、仕上げの加工の方法、また取り付けの状況など、材料を一つ一つ見ていくんです。

柱や梁などの建物自体の材料だけでなく、地面の下にある埋蔵物からも情報が得られますので、発掘調査もあわせて行いました。


    ツガを使った「当初材」が現在まで残る
 
編集部 どういうことがわかってきたんですか。

井上 主屋は、修理前は桁行[けたゆき]が十一間、梁行[はりゆき]が五間の規模です。周囲の下屋[げや](庇[ひさし])などは後世に付けられた物です。

調査を進めていくと、「当初材」という、建てられたときに使われた柱がかなり残っていました。一部は後で取り替えたり、足元が切られたりされていましたが、ほとんどの柱が残っておりました。

そこで特徴として挙げられるのは、柱の樹種はツガ(栂)材が多く使われていました。当初の柱は、一部ケヤキ(欅)と、大黒柱はマツ(松)ですが、そのほかの柱はツガ材です。

編集部 ツガ材はマツ科の針葉樹で、堅くて、いい材木ですね。

井上 そうですね。一見するとマツのようなんです。関さんのお宅では、「芯去り材[しんさりざい]」と言うんですけれど、大きな大径材を四つに割ったものが使われている。現在でも足元まできっちりしているものもあって、柱に関しては材料を吟味して使っていると感じました。

ツガはトガともいいますがツガ普請といって現在、国内産のツガ材は、関西ではかなり高級とされています。関さんのお宅で使われているツガ材の産地は不明ですが、今回の修理では、同じような国内産のツガ材を、西日本のほうから手に入れようと考えています。


    当初は桁行が十間、後に一間分を拡張したことが判明
 
井上 材料の加工の仕方や部材の取り合いからも材料の古さを知ることができます。最初に建てるときは、大工さんは丁寧な仕事をしますが、あとの修理ではどうしても雑な仕事になるんです。

これらのことから判断すると、現状で桁行は十一間ですが、建設当初は十間だったと判断されます。東側の土間の部分が一間分小さくなってくる。このことは、番付といって、建物を建てるときに、柱の位置を示す記号ですが、この主屋でも当初の番付が発見されました。この番付からも東側が一間縮まるということがわかりました。


    西側にあった建物を18世紀ごろに移動し、拡張
 
井上 そこで、建物だけでなく、発掘調査を行い、地面の下の情報も確認しようということになりました。発掘調査は横浜市埋蔵文化財センターに全面的に委託して行いました。ところが、はじめの段階では建物から判断した、当初は東が一間縮まるということを示す痕跡が出てきませんでした。そのため発掘範囲を広げていったところ、現状より西側に、かつて建物が存在していたことを示す痕跡が出てきました。土間叩きの面が地面の下に出てきたんです。

発掘を担当された方の話でも、これは旧生活面であるということでした。また、発見遺物から18世紀ごろまではこの面で生活をしていたと考えられました。

つまり、発掘の成果だけで判断すると、現在の主屋が建てられる前に、西側にずれた位置で、18世紀ごろまで別な建物が存在していたことになり、今の主屋は18世紀以降の建物になると判断されてしまいます。

残念ながら今回の解体調査では、建物の建立を示す墨書などの資料の発見はなかったので、主屋の建立時期は明確ではありません。しかし、他の民家建築の類例と比較すると、仕上げに丸刃手斧[まるばちょうな]が使われていることなどから、民家の研究をされている先生方のご意見を伺うと、18世紀以降に今の主屋が建てられたとは考えられないとの判断がありました。

そこで結論としては、現在の建物は、当初は西側にややずれて建てられ、18世紀になって、現状の位置まで移動してきて、その際に、現状規模の十一間に拡張したと判断いたしました。


    民家は「キノコ」土地の気候や風土を反映
 
西 もともとの建物があって、それが東に少し動いたんですね。そのときに一間分が大きくなった。

もう一つ、ツガが使われていた。今お話のように、どこから集めたかはよくわからないんですが、ツガでそろえて建てるのは、民家でもそんなにあることじゃない。一般にあまり使いませんが、手に入る材だったことは間違いないわけで、それは、民家はどういうものかを考えるとき、その当時の社会背景を知る上で非常に興味深いんです。

ある人は「民家はキノコである」という言い方をしている。それぞれの土地の気候・風土を反映してでき上がるのが民家だと言うんですね。自然発生的な要素が非常に強いということで、それは民家の一面を言い当てている。家を建てるとき、その地域にある材料を使って建てるのが民家の基本なんです。遠くから買ってくるようなことをしないのが民家である。

ツガを使ってあるのはなぜか、理由は今のところ解明できていませんけれども、これがもしわかれば大変おもしろい。そういうのも民家の持っている特性の一つですね。

関口 私たちが、神奈川県あたりの民家をずっと歩いていると、古いうちに限ってツガ普請が出てくる。ツガという木は、現在はめったになくて、切り尽くしたんだろうと思うんですね。

西 多分そうでしょうね。


  ◇主屋が1600年代のどの辺りかは研究課題

編集部 今お住まいになっている関さんにとっては、建物として住みいいですか。

私は昔の家が好きだったから、よかったと思っていますよ。夏は、門のほうから風が入ってきて涼しくてね。冬はちょっと寒いので、こたつを使って生活しております。

関口
関家・主屋内部 (修理前)
関家・主屋内部 (修理前)
財団法人文化財建造物保存技術協会提供
(C)JACAM 撮影/小野吉彦
初めて見たときに驚いたのは、広間の表の戸は、普通は引き違いですが、それだけでなく、窓が表の真ん中に残っていた。調べていくと、古い時期に非常に壁がふえる。普通ではちょっと考えられないぐらい、外回りに壁が多い家だった。それは一時的なものかもしれませんけれど、普通の家とはかなり違った要素があるんです。

ちょっと話が行き過ぎるかもしれませんけれど、民家と言うと、柱は太いと考えるでしょう。だいたい八寸(24センチ)ぐらいあるというのが普通の常識なんですが、関さんのお宅の柱は細いんですよ。

柱が細いということは、実はなかなか意味深長でして、これは私流の考えなんですけれど、年代に関係しているかもしれない。例えば、私が昔見たもので、伊豆にある江川太郎左衛門のうちは、土間の柱は非常に太いんですけれども、お座敷の柱は室町時代のもので、細い柱なんです。その目で見ると、日本の中世の住宅の柱は細いんです。

関さんのお宅は、太いものをよしとした時代の雰囲気ではない。直接年代に関係するかどうかは別として、うちは何百年も続けるんだといって太い柱を使うことは、江戸時代には確かに理想なんだけれど、それとずれている。

本当に古いうちに行くと、大概柱は細い。しかも、関さんのうちで驚いたのは、細いけれど、隅の直角のところも全部手斧でつくった柱で、荒っぽい仕上げなんだけれど、ずうっとそろった幅で面を落としている。ものすごく精度が高い。道具は、かんなではないと思うんですが、非常に上等な仕事です。手斧では、もっと大きい面をつくるのは簡単ですけれど、あんな細い面をつくるのは、ものすごく大変だろうと思うんです。


    非常に古い部分と下がる部分が混在
 
西 今、関口先生がお話になったのは非常に専門的なことで、一般論としては、柱は太いほうが古いんですよ。それも十分にご存じの上で、特別な事情があるんじゃないかということなんです。

技術は非常に高くて、鑿[かんな]で彫るんだけれど、その彫りはすごくシャープです。

年代は非常に大きな課題なんです。あの建物は一体いつ建ったんだろう。棟札[むなふだ]や文書がなくてわからないので、建物に頼るしかないんですが、今までは17世紀の早い時期だと考えられている。関口先生たちがそういう判定をなさったんだけれど、関口先生を信頼しないというのじゃなくて、もう一回白紙に戻して建物の調査をして、検討し直そうという考えで、今やっています。

編集部 具体的な年代はいかがですか。

西 明確な資料は、今のところ見つかっていません。だからこそ今度の解体修理で、その根拠を正確に出して、ある程度はっきりさせなければいけないなと思っているんです。

ただ、非常に古いと思われる部分もあると同時に、いやもうちょっと下がるんじゃないかなという意見も出ているんです。その辺はこれから、もうちょっと詰めなきゃいけないと思いますね。

編集部 ただ、関東で最古というふうなことは。

西 最古クラスは間違いないですね。1600年代の中でどの辺か。1600年代よりずっと降ることはないでしょう。


    書院は半解体で修理、主屋よりは新しく本来は茅葺き屋根
 
編集部 関さんのお宅には書院もありますが、その修理も行われているんですね。

井上 書院は、主屋より新しいと言われています。こちらは半解体と申しまして、柱や梁は残した状態まで解体して調べました。

発掘もしたんですが、規模などは現状と大きな違いはありません。ただ、現状では鉄板葺きの屋根なんですが、小屋組みの梁材などに茅葺きの痕跡がありまして、以前は茅葺きであったことがわかりました。

大正15年に修理をしたという墨書が発見されて、恐らくそのときに鉄板葺きに改造されたと考えました。今回は茅葺きに戻す方針で進めております。

徳川さんが、中原街道を通って、鷹狩りに行かれる途中に、私のうちに寄って休まれて往復された。そのために書院を建てたんだということを、昔からの言い伝えとして私は聞いているんです。18世紀頃に建ったのだとすると、時代が合わないですね。ただ、そのときに徳川さんが置いていかれたという弁当箱が残っているんです。ですから、休まれたことは確かだと思いますね。


    表門は当初は平屋建て 明治期に二階を増築
 
編集部 表門(長屋門)はいつごろのものですか。

井上
関家・表門 (長屋門、昭和60年)
関家・表門 (長屋門、昭和60年)
残念ながら、関さんのお宅の建物は、明確に年代を示す資料がまだ発見されていません。表門は、書院と同じときに重要文化財の指定を受け、昭和60年に、国庫補助事業として半解体修理という根本的な修理を行っています。そのときも年代の資料は出なかったんです。ただ様式的なことから、江戸の末期、幕末ごろではないかと報告書には記載されています。

もとの表門は平屋建てで、規模ももう少し小さかった。関さんのお宅に修理の記録が残っていまして、明治24年に現状規模の二階建てに増築された。それは養蚕を行うための修理でした。

実は主屋も、土間の小屋裏部分が、明治頃に養蚕のために改造されたことがわかりました。


    普通の民家よりも規模が大きく広間型とは違う間取り
 
編集部 神奈川県の民家の中で、関家住宅の特徴ということではいかがですか。

関口 まず立地です。高い山ではないけれど、山を背負っている谷戸の南斜面のいいところに建てている。そして広さです。普通の農家の規模をずっと上回っている。やはり相当なものだと思います。

北条氏以来の屋敷地を保持していて、そこに建っている家は、元禄ぐらいの代表的な神奈川県の民家は、大体八間の四間ぐらいなんですが、それよりぐんと大きい。

ところが、大きさの割に部屋数はそんなに多くない。そして、土間に入ると表から裏まで大きい部屋がどんとあって、その奥に二部屋ある、一般に広間型と言われるタイプとは違う間取りで、前後に二分することを意図したような平面である。それをどう解釈するかが、これからの研究課題なんです。



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