Web版 有鄰

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有鄰


平成16年5月10日  第438号  P3

○座談会 P1   横浜・山手公園を語る (1) (2) (3)
進士五十八
鳴海正泰堀勇良松信裕
○特集 P4   海から生まれた神奈川   藤岡換太郎
○人と作品 P5   垣根涼介と「ワイルド・ソウル」



座談会


横浜・山手公園を語る (3)
窶披剥早u名勝」の指定にちなんで窶披


(大きな画像はこちら約〜KB)… 左記のような表記がある画像は、クリックすると大きな画像が見られます。


  ◇ヒマラヤスギの種子をブルックがインドから
 
松信  

山手公園にはヒマラヤスギの大きな木があって、独特の景観をつくっていますね。
 

鳴海  
J・H・ブルック
J・H・ブルック
(『ジャパン・パンチ』 1882年8月   横浜開港資料館蔵)
 

J・H・ブルックという人が、1869年、スミスの7年後に横浜にやってくる。 彼はイギリスのジャーナリストの家に生まれ、若くしてオーストラリアに出ていく。 大いなる希望を抱いて移住して、いろんな仕事をしたけれども、政治的な事件に巻き込まれて失脚している。 それでインドを回って、無一文の状態で横浜に来る。

ブルックは、馬とマグサと娘2人を連れてきた。 その娘の姉のほうがガティといってものすごい美人だったそうですが、そのガティを奥さんにしたのがスミスです。

ブルックは、横浜で『ジャパン・ヘラルド』の編集者になって、10年ぐらいたってようやく地位を築き、生活が安定してきたところで、1879年にインドのカルカッタからヒマラヤスギの種子を取り寄せるわけです。 恐らくそれを助けて、そうしろと勧めたのはスミスだったのではないかと思うんです。
 

進士  

スミスもブルックもイギリス人でしょう。 イギリス人はガーデニングは基礎教養ですから、特にふつうの教養人の家庭なら、子供のときからやっていますよ。
 

鳴海  

ブルックがカルカッタから種子を取り寄せたということを書いているのは、東京農業大学の上原敬二教授なんです。 『樹木大図説』という著作の中にあります。

しかし、ヒマラヤスギの種は、実生で育てるのは難しいんですってね。 何回か失敗しているらしい。 種を取り寄せてすぐ播種して、1879年に芽が出たということでは必ずしもないようです。

山手公園のテニスコートとヒマラヤスギ
山手公園のテニスコートとヒマラヤスギ
 

その苗が、山手公園だけじゃなくて、山手の遊歩道に沿って数百本、植えられたということなんですけれども、現在は、その当時植えられた木はほんの少ししか残っていません。

関東大震災で倒れ、そして宅地化が進むと、ヒマラヤスギは円錐形に下枝を張るので、狭い宅地の中では邪魔になる。 それで、みんな切り倒してしまうんです。

現在では、ブルックが植えたものとして残っているのは山手公園に9本、それとワシン坂には2本ぐらいでしょうか。 それから山手の元街小学校の校庭に1本植えられています。 1970年代に私が調べたときには、もっとあったんですけれどもね。
 


    ヒマラヤスギを植えるのは欧化政策の一つ
 
進士  

鳴海さんは前に、キリスト教のミッションとともにレバノンシーダー(レバノン杉)が普及するはずが、そのかわりにヒマラヤスギが普及したのではと言っておられましたね。

イスラエルとヨルダンの国境で、本当にレバノンシーダーが見事に生えているのを見たんですよ。 キリストのころからきっとあったんですね。
 

鳴海  

そうですね。 旧約聖書に出てきますからね。
 

進士  

それが日本ではヒマラヤシーダーになってしまった。 確かに教会に多い。 あとは公共施設ですね。 学校とか役場とか、みんなヒマラヤシーダーです。 文明開化の象徴みたいにして、多分相当歓迎されたんでしょう。 あれは公共空間を象徴する樹ですね。
 

 

洋館を建てると、それにふさわしい庭園樹として必ずヒマラヤスギを記念植樹する。 明治政府の欧化政策の一つに使われたんですね。
 

進士  

洋館にはヒマラヤシーダー、和館にはサクラというようなことだったと思います。
 

鳴海  

上原敬二教授の資料にあるんですが、横浜で育てた苗を皇居に献上した。 それから新宿御苑が150本買い上げるんです。 新宿御苑にはいろんな外来植物があるんですが、そのヒマラヤスギが、今、大樹に育っています。 新宿御苑に行かないと、ヒマラヤスギの本来の形、自然樹形は見られないんです。

横浜のものは、みんな下枝を切られてしまって、上にちょこっと枝が残っている。
 

進士  

だって、枝張りの直径が30メートル以上になって、一軒分の庭が埋まってしまいますからね。
 


  ◇日本の造園学の粗、上原敬二教授
 
松信  

上原敬二先生は、どういう方ですか。
 

進士  
上原敬二氏
上原敬二氏
 

上原先生は日本の造園学の創始者です。 もともとは木場の材木関係者ですが、死んだ木を扱う材木屋は面白くないと、林学科に入って森林美学を志向します。 農学の世界で「美」を扱うのは造園だけなんです。 美しいダイコンづくりを目指すとはいわないでしょう。 樹木だけに美がある。 その究極が、応用樹木学、造園学なんですね。 英語だとランドスケープ・アーキテクチュア、景観をつくるということですね。

東京帝国大学の林学科を出られて大学院生だったとき、明治神宮の造営が始まって、技師として明治神宮の森の計画を立てる。 その後、アメリカ留学もされ、『都市計画と公園』という立派な本も出版されています。 これはアメリカの大都市の公園事情を詳しく分析しています。 樹木から庭園、公園、都市まで、非常に幅広い方です。

上原先生は関東大震災の直後、東京市や横浜市の嘱託でいろいろ仕事をしています。 そして都市の復興には、アーキテクト、建築家はもう育っていますから、今度はランドスケープ・アーキテクト(造園家)を養成しなければいけないと学校をつくる。

大正13年に、すぐにも技術者養成を始めたいというので、当時渋谷の常磐松にあった東京農大の一角を借りて始まった学校が東京高等造園学校です。 木場の家作を全部売って、弱冠34歳で自分の学校をつくったんですから、すごい人ですよね。 これが後に東京農大に吸収され、現在の造園科学科になるんです。

さきほど鳴海先生が言われた『樹木大図説』は全3巻、索引を入れて4冊、ものすごく分厚い。 牧野富太郎さんもすばらしい人なんですが、ほとんど草本[そうほん]ですね。 木本[もくほん]であれだけのことを書いているのは上原先生以外いません。
 


    横浜公園の開港記念バザーは上原教授の発案
 
鳴海  

横浜の開港記念バザーにも関係されていますね。
 

進士  

6月の開港記念日をはさんで、横浜公園で植木市をやっていますね。 ご本人に直接聞いたんですが、あれを提案されのは上原先生なんです。 アーバー・デー、「植樹の日」というのがアメリカにあるんですが、それがヒントだと思います。

大正12年の関東震災後の焼け野原になった横浜公園で、植木市を開いて植木屋に空き地に仮植させる。 それで売れ残った木は、横浜市が安く買い取る。 植木屋は持って帰るのは面倒ですから、安くても売る。 そうやって緑化をする。

上原先生は現場の職人さんとうまくやるという感性をもっていたんですね。 当時の帝大卒、内務省の官僚などは、そういうことはやらなかった。

でも上原先生は役人が嫌いで、内務省もすぐやめちゃう。 自由気ままにやりたいわけです。 だから、横浜市の嘱託などで楽しくやった。 いろいろプランニングも提案されたんです。
 


    震災後、公園の西半分を初めて日本人に開放
 
松信  

震災の後、山手公園はどうなるんですか。
 

鳴海  
震災後の山手公園
震災後の山手公園
(横浜開港資料館蔵 大きな画像はこちら約160KB)
 

山手公園は、ずっと外国人のクラブが管理していて、日本人は原則的には立ち入り禁止地帯になっていました。 関東大震災で横浜は壊滅的な打撃を受ける。 それで横浜市は初めて、災害時に避難すべき防災緑地がないことに気がついたわけです。 そこで市は山手公園の西側半分、あの段々になったところを横浜市に譲ってくれと、政府に対して働きかける。

それで国は、今の山手公園の半分を、横浜市に無償で譲るんです。 横浜市はそこを2万円かけて整備して、初めて山手公園の半分が日本人が自由に使える公園になった。 それが昭和4年なんです。
 

 

そのときの設計図があるんです。 その図は北海道大学農学科を出られ、横浜市公園課の技師であった星野奇[くすし](旧姓置塩)さん、北大の学生歌「瓔珞[ようらく]みがく」の作曲者でもある方ですけれど、そのご遺族から横浜開港資料館に寄贈していただいたんです。 1929年のもので、残っているのは青焼きですが、他に色が塗ってあるものもあります。
 


  ◇横浜の中で最後まで残った「外国」
 
松信  

山手公園と横浜の市民との関係についてはいかがでしょうか。
 

鳴海  

今でも山手公園は、横浜市民からも、「どこにあるの?」とか、「テニスコートがあるだけじゃないか」なんていわれますね。 全国的にも、公園としてさっぱり有名ではないし、名勝に指定されるような公園だという感じはなかったと思います。
 

進士  

みんなテニスクラブだと思っていますよね。
 

松信  

私も、横浜生まれ、横浜育ちですし、山手公園でテニスをしたこともあるんですが、山手公園については、不勉強にしてほとんど何も知らないですね。
 

鳴海  

山手公園は、横浜市民にとっては異国の場所、日本人は立ち入り禁止で、外国人がテニスをやっているところだったと思うんです。 居留地の公園としてできて、明治32年には不平等条約が改正され、居留地制度が廃止されて、居留民の特権はなくなりますが、山手公園だけは、外国人の組織による管理がそのまま続く。

関東大震災の経験から、半分だけは日本人に公開しましたけれども、東側は外国人のテニスクラブとして、ずっと続いていくわけです。

第二次大戦中に、公園全域が横浜市の所有になりましたが、敗戦後は米軍に占領されて、広場には将校の住宅が建てられたりしました。

テニスクラブは、接収解除後の昭和39年に、YITC(横浜インターナショナル・テニス・クラブ)と改称して、日本人も会員として認められ、現在は、横浜インターナショナル・テニス・コミュニティという社団法人となっています。 ですが、閉鎖的な外国人専用のテニスクラブというイメージが非常に強い。

ですから、山手の人たちは余りいい印象を持っていないと思います。 あそこはテニスをやる人たちと、犬の散歩をするところじゃないかと。 日本人にとっては、そんな親しみの持てる公園ではなかったと今でも言っているんです。 けれども、YITCは今、横浜市民に開かれたクラブになるよう、いろいろ努力されています。
 


    市民が入れなかったから原型が残った
 
鳴海  

横浜の中の外国として最後まで残ったのが山手公園だった。 もちろん、居留地の時代から、ここでいろんな欧米文化やスポーツが紹介されたりして、いわば山手文化の中心として山手公園があり、そこに日本人も参加して、欧米文化を吸収するわけですけれども、それと同時に一般の市民にとっては高嶺の花であったのではないかということが言われます。
 

 

今度、名勝に指定された理由の中に、山手公園が1870年に造成された当時の地形とか地割り、景観がそのまま残っているとありますが、これは逆に、市民が立ち入ることができなかったからこそ原型がそのまま残ったとも言えるわけです。
 

鳴海  
桜が満開の山手公園
桜が満開の山手公園
 

私は、山手公園には光と影の部分があると思うんです。 山手文化というか、居留地文化をただ賛美したり、エキゾチックなものとして憧れるだけではなくて、こうした歴史もきちんと押さえておかなければいけないのではないかと思っております。

最後に、ちょっと宣伝ですが、平成10年、山手公園に、テニスクラブ創立120年を記念して、横浜山手・テニス発祥記念館ができました。 ここでは、古い時代のテニスや山手公園の歴史、ヒマラヤスギの由来などを紹介していますので、ぜひ一度たずねてみてください。
 

松信  

きょうは面白いお話をありがとうございました。
 




 
進士五十八 (しんじ いそや)
1944年京都生まれ。
著書『「農」の時代 (スローなまちづくり)』 学芸出版社 2,310円(5%税込)、ほか。
 
鳴海正泰 (なるみ まさやす)
1931年青森生まれ。
著書『横浜山手公園物語』 有隣堂(有隣新書61・詳細はジャンプこちら) 1,050円(5%税込)、ほか。
 
堀勇良 (ほり たけよし)

1949年東京生まれ。
著書『日本の美術No.447 外国人建築家の系譜』 至文堂 1,650円(5%税込)、ほか。

 

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