Web版 有鄰

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有鄰
(題字は、武者小路実篤)
有鄰の由来・論語里仁篇の中の「徳不孤、必有隣」から。 「鄰」は「隣」と同字、仲間の意味。

平成16年6月10日  第439号  P1

○座談会 P1   話題の新人作家たち (1) (2) (3)
黒井千次
清原康正鵜飼哲夫藤田昌司
○特集 P4   新発見の大日如来像と運慶   山本勉
○人と作品 P5   伊坂幸太郎と「アヒルと鴨のコインロッカー」



座談会

話題の新人作家たち (1)

作家   黒井千次
文芸評論家   清原康正
読売新聞文化部記者   鵜飼哲夫
文芸評論家・本紙編集委員   藤田昌司
 

右から鵜飼哲夫氏、黒井千次氏、清原康正氏、藤田昌司氏の各氏
右から鵜飼哲夫氏、黒井千次氏、清原康正氏、藤田昌司氏の各氏

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    はじめに
 
藤田   芥川賞を史上最年少の女性作家が受賞して話題になり、それがきっかけになって新人の作品が売れています。 また、全般的に文芸書の人気が上がってきているという現象も見られます。

そこで、本日は、最近の新人の作家たちが、なぜそれほど話題になっているんだろうか。 どういうところに人気の秘密があるのかということを、話しあっていただければと思います。

ご出席いただきました作家の黒井千次さんは、日本文芸家協会の理事長でもあり、芥川賞の選考委員を長いことお務めになっておられます。

清原康正さんは、主として大衆文学を中心に、文芸評論家として活躍されております。

鵜飼哲夫さんは、文芸ジャーナリストとして読売新聞の文芸欄を長年担当していらっしゃいます。


  ◇若い女性ふたりが芥川賞を受賞
 
藤田   蹴りたい背中』の綿矢りさ、『蛇にピアス』の金原ひとみが、若い作家のブームのきっかけをつくったと言っていいでしょうね。

黒井   先回の芥川賞が綿矢りさと金原ひとみの2作受賞となって、しかも、その二人が20歳前後の若い女性だったので、非常に評判になりました。 選考過程でも、もう少しもめるかと思ったら、意外にすんなりと、さしたる反対もなく決まった経緯があります。 もちろん賛成しなかった人もいますけれども、全体としては余り長い時間がかからなかった。

作者が若いということが一つはあると思うんですけれども、出てくる人物もそれぞれ若い。 『蹴りたい背中』は高校の女生徒で、『蛇にピアス』は、何をやっているのかよくわからないけれども、いずれにしても主人公の若い女性が、今を生きている姿を非常にストレートに表現している。 その内容が一種時代の共感を呼んだということじゃないかと思うんです。

日ごろあまり小説を読んでいない人に会うと、なぜあれが芥川賞になるんだと文句を言われたり、ひんしゅくを買ったりすることもなくはないんですけれども、僕としてはそういう作品が出てくるのは必然であって、それぞれいい作品だと思っています。

   
『蹴りたい背中』表紙 『蛇にピアス』表紙 『リトル・バイ・リトル』表紙 『お縫い子テルミー』表紙
綿矢りさ
蹴りたい背中
竏忠ヘ出書房新社刊竏
金原ひとみ
蛇にピアス
竏衷W英社刊竏
島本理生
リトル・バイ・リトル
竏注u談社刊竏
栗田有起
お縫い子テルミー
竏衷W英社刊竏

ほかにも、島本理生[しまもとりお]という人は、『リトル・バイ・リトル』と『生まれる森』で2度芥川賞候補になっているんですが、芥川賞の二人と年齢がほぼ同じで、同じ時期に飛び出してきた。 この三人は、元気のいい作家で、先が楽しみですね。

すばる文学賞の『お縫い子テルミー』を書いた栗田有起も比較的若い女性だと思いますし、『袋小路の男』(※『文学 2004』収録)でつい最近、川端康成文学賞を受賞した絲山秋子[いとやまあきこ]という女性もいます。


    共通しているのはひたすらさと純愛
 
藤田   『蹴りたい背中』はどちらかというと心理的な作品で、『蛇にピアス』は、もう少しどろどろしたセックスの世界と、自虐的な世界も書いている。 内容が対照的な感じがしますね。

黒井   ほんとうのところを言うと、二つはそんなに対照的じゃないのかもしれないという感じがするんです。 例えばセックスということで言うと、綿矢りさのほうは高校生の女の子と男の子の二人の間に肉体的な接触はほとんどない。 金原ひとみのほうはやたらに接触する。

しかし、どちらも性というものがそんなに大きな主題にはなっていない。 露悪的か、禁欲的かの違いはあるけれども、成熟した大人の男と女の関係は、ここにはないわけです。 とにかく走っている、疾走している感じはあるけれども、人間の男と女にとって、性というのは一体いかなるものかを問題にしている小説ではないところがある。

いずれにしても、この人たちの書くものは、屈折はしているんだけど、ある種訴えかけるもののストレートさが、鮮烈に表現されているところが共通しているように思うんです。

もうちょっと含みを持った意味で言うと、いずれも純愛だという傾向があるように思うんです。 とにかくひたすらに何かにとらわれて、そこに突き進んでいく感じがある。 『蹴りたい背中』は、女子高校生の男子高校生に対するある種のひたすらな関係があるし、『蛇にピアス』は、自分の体を痛めつけていくことによる、一種の自己確認みたいなものと、それから男に惹かれていくところの、哀しみを含んだ、一種の純愛、ある特殊な形における純愛ものであると。

『蛇にピアス』は、やたらに肉体関係が出てくるけれども、『蹴りたい背中』も、島本理生の作品も、そんなに肉体関係が前面に出てくるものではない。 けれど、底に流れているものはみんな似たような傾向があるのではないか。

『袋小路の男』は高校のときの男の子に、ずっと大人になっても惹かれっ放しみたいな話で、『お縫い子テルミー』も、流しのお縫い子のテルミーというのが、禁欲の中で、ある男にひたすら惹かれ続ける。 一種のひたすらさ、その勢いで書いているところはいずれも共通しているんじゃないかと思います。

鵜飼   僕も芥川賞の2作については、あまり違いは感じなかった。 むしろ、同系じゃないかと思います。


    書き手だけでなく読む人にも意識の変化が
 
藤田   最近の若い女性の小説は、過激な表現というか、汚い言葉が多いように思うんですが。

鵜飼   かつてで言えば安部公房や石原慎太郎、大江健三郎や、村上龍が芥川賞を受賞したときがそうでしたが、若くて先鋭的な人が登場すると、えてして「こんなひどい文章はない」と言われましたよね。 今回は、反発というか「これが通るようならやめる」という意見がまったく出てこなかったのが意外と言えば意外だった。 若い書き手の変化もあるけれども、読み手側の意識の変化も若干あるのではないかと思いました。

『蹴りたい背中』は100万部を超えるベストセラーになっていますが、綿矢さんはもうすでに売れている作家で、芥川賞を取る前に『インストール』が30万部以上売れています。 いろんな青春小説があるけれども、同世代の代弁者が欲しいという欲望が若い世代のなかにはあるんじゃないか。

一方金原さんの本は、年配がすごく読んでいる。 「今の子供はわけがわからん」から知りたいと読んでみたら、やっぱりよくわからん(笑)。 そういう感想も多いようなんですが、その辺の読まれ方の違いは、おもしろいですね。


    読後に残る澄んだ音のような悲しみ
 
鵜飼   綿矢さんのほうが、ご自身の声のつぶやきがあると思うんです。 文章ははっきり言って読みにくいところがあって、何ともひっかかりのある書き方ですが、独特の呼吸とポエジーがある。 ある意味では綿矢さんにしか書けないような文章で新鮮でした。 この文章のリズムに、恐らく若い世代は共感できるのではないか。

金原さんについては、『文學界』の3月号で村上龍さんが金原さんと対談して、「わりとありふれた言葉が続いている」と欠点を指摘していますが、展開の仕方とかに小説家としての本能があると言っているんです。

一読者である僕には、小説家の本能というのはよくわからないんですけれども、たとえば、ある種キラリと光るものとか、何かゾクリとするものを選考委員の方は感じられたんでしょう。

黒井   『蛇にピアス』について言えば、一番残るのは、舌に穴をあけたり、刺青をしたりと、いろいろ出てくるわけだけれども、最後に鳴っているある澄んだ音みたいなものが、まぎれようもなく鈴の音みたいなものが聞こえてくる。 その調べに悲しみみたいなものがある。 そんなふうに書けるのは、ある種の才能だろうと思います。

藤田   それは恐らく計算して出てきたものではなくて、彼女の素質みたいなものじゃないでしょうか。

黒井   そうでしょうね。 あれは計算して出るものじゃない。


    青春の困惑を表現するとマイナス方向に
 
鵜飼   庄司薫さんの『赤頭巾ちゃん気をつけて』(※ 1969年度上期芥川賞受賞)を、三島由紀夫さんが「まさに青春とは困惑だということで書いている」と言った。 今度の芥川賞の2作も、困る、惑うというのを非常にうまく書いている。 ただ、書き方がマイナス方向なんです。 何かをやろうとして困惑するんじゃなくて、今いる空間に、居場所がうまく見つけられない。 『蛇にピアス』では、自分自身を傷つけたり、むちゃくちゃな生活をする中で、マイナス方向でようやく自分というものを見つけていく。

『EXIT』表紙
雨宮処凛
EXIT
竏註V潮社刊竏
『蹴りたい背中』はそこまで激しくはないにしても、学校の中である意味ではのけ者になっている子が、その中で自分の居場所を探す。 これはどの世代の子供たちにもある種共通する感覚はあると思うんです。 思春期は、一方で群れたがる部分もあるけれど、群れることに対する何とも言えない拒否感もある。 そのへんの青春の普遍的な心理が、今はポジティブな方向ではうまくいかない。 社会も本人も閉塞していて、マイナス方向にいってしまう。 そういう意味で同系統の作品が多いように思いますね。

たとえば、雨宮処凛[あまみやかりん]さんの『EXIT』という本は、自傷系サイトに登録する男の子や女の子たちが、お互いの自傷行為を競い合うという話なんです。 結果的にはサイトが暴走し始めて、一人の女の子を死に追いやってしまう。 普遍的な青春の困惑を書きながら、その書かれ方が変わってきている。 むしろ違いがあるとするなら、島本理生さんはそういうマイナス部分ではなくて、時代の中での明るさとか光というものを探し求めて描いている。 特に『リトル・バイ・リトル』はそうだと思うんです。 文章においても、一番素朴なのが島本さんじゃないかと受けとめています。

黒井   全体的に見ると、やや女性のほうが優位で、それに対して男性作家のほうは、歩が悪いという感じもありますけれども、男性は男性なりにいろんなことを試みて頑張っています。 若い女性の作家たちのストレートさでは書き切れないようなことを、何か書こうとしている。 そのためには作品に構造と構成がなければいけないし、その姿勢と対象との切り結びみたいなものが、今の世の中は複雑であるだけに、女性たちのように直線的でないだけにうまくいかない。 成果を上げにくいところがあって、そこで苦闘をしているようなんですね。 でも、可能性としては、ここら辺からおもしろいものが出てくる感じはかなりあります。

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