Web版 有鄰

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有鄰

平成16年6月10日  第439号  P4

○座談会 P1   話題の新人作家たち (1) (2) (3)
黒井千次/清原康正/鵜飼哲夫/藤田昌司
○特集 P4   新発見の大日如来像と運慶   山本勉
○人と作品 P5   伊坂幸太郎と「アヒルと鴨のコインロッカー」


新発見の大日如来像と運慶


山本勉
山本勉氏
山本勉氏


  

「運慶の如来像発見」。 今年3月13日の読売新聞朝刊は一面カラーで、この大日如来像の発見を報じた。 前日に取材をうけた当人であり、記事の内容を前夜遅くに聞いていたわたしも、駅の売店でもすぐに目にはいる金色の仏身の写真に心がおどった。 同日の朝刊では、朝日新聞にも記事が掲載され、夕刊以降は他紙にも後追い記事がつづいた。

後に聞いたところでは、新幹線車内の電光ニュースにも流れたという。 東京国立博物館で像の公開がはじまった4月6日にはNHKテレビのニュースでも放映された。

「運慶」という名前の大きさに、あらためて驚くばかりであった。

 

運慶作と推定される大日如来像

運慶作と推定される大日如来像
運慶作品と評価した足利市・光得寺像によく似た像容
 
  

この大日如来像を所蔵する個人から照会の書状を頂戴したのは昨年7月だった。 同封の写真から、わたしが16年前の論文で運慶作品として評価した、栃木県足利市の光得寺[こうとくじ]大日如来像によく似た像容であることがわかっていたが、9月後半に所蔵者のお宅にうかがって実際に調査してみると、想像をはるかにこえる優作であった。 細部まで光得寺像と同じ形で、像高はほぼ倍の66.1cm(光得寺像は31.3cm)。 光得寺像同様、作風・構造技法いずれも運慶自身の特色を濃厚に示し、上げ底式に刳[く]り残した像底部に台座との接合用の金具を打ち込む点は、光得寺像との共通点としてことに興味深かった。

衝撃的な新発見の像をどう位置づけてよいものか、正直なところ、最初はかなり悩み、迷ったのだが、調査データを整理して写真をくりかえしながめるうちに、像は多くのことを語りはじめた。 しだいにさまざまなものがみえてきた。

 

樺崎寺赤御堂の後身樺崎八幡宮に祀られていた光得寺像
 
  

わたしはかつての論文で光得寺像を鎌倉時代初期、建久年間(1190〜1199)後半の運慶作品と考えた。 光得寺像は足利市樺崎[かばさき]町の樺崎八幡宮に伝えられ、明治初年に光得寺に移されたものである。

樺崎八幡宮は鑁阿寺[ばんなじ]奥院として経営された樺崎寺の中にあった赤御堂[あかみどう]の後身である。 鑁阿寺の縁起の最古本『鑁阿寺樺崎縁起并仏事次第[ばんなじかばさきえんぎならびにぶつじしだい]』の中には、鑁阿寺開基足利義兼[よしかね]がその開山理真上人と、子息の誕生に際して出会ったのちに出家して造立した「金剛界大日并三十七尊形像」のことがみえる。 これらを入れた厨子は近世の『鑁阿寺別縁起』では樺崎の赤御堂にあったという。 厨子入りで、光背の周囲に三十七尊の小像をとりつける光得寺像はまさにこれにあたるとみることができる。

足利義兼の出家は別の史料から建久6年と知られ、これをめやすに造像年代を考えると、文治5年(1189)の横須賀市浄楽寺[じょうらくじ]阿弥陀三尊像と正治3年(1201)の愛知県岡崎市滝山寺[たきさんじ]諸像との中間的な特徴を示す作風とも適合するのである。

 

 横須賀市浄楽寺像と同時期の製作 
 
  

あらたに知られた大日如来像を他の運慶作品と比較してみると、その作風は浄楽寺阿弥陀三尊像にかなり似ており、これと同時期の製作と考えられた。 しかし姿は光得寺像とそっくりで、しかも像底の金具という他に類例のない共通点がある。 光得寺像と無関係のものとはちょっと考えにくい。 そこで浮かびあがってきたのが、『鑁阿寺樺崎縁起并仏事次第』にある、別の大日如来像の記事である。

樺崎寺にあった下御堂[しもみどう]の仏壇の下には同じ日に没した瑠璃王御前・薬寿御前の二人の兄弟の骨を納め、両人の孝養のために、三尺皆金色[かいこんじき]の金剛界大日如来像を彫刻した。

この像は累祖相伝の犀[さい]皮の鎧で造り、宝形厨子に安置したが、厨子には建久4年11月6日の願文があったというのだ。 兄弟二人は足利義兼の縁者であろう。 ともあれ、この像に注目しないわけにはゆかない。

新出の大日如来像は髪際高[はっさいこう](髪際で測った高さ)が45・5cmだが、この数値は一尺五寸にあたる。 中世以前の古記録では法量の規準は髪際高で、坐像は立像に換算した数値を記すのが一般的であるから、この像は三尺像なのである。 そして漆箔[しっぱく]に覆われた皆金色像である。 樺崎下御堂の大日如来像にあたる資格を十分にもつのである。

像を実査してから一月ほどたった頃だったろうか。 ここまでの推論を所蔵者にお話したところ、像を東京国立博物館に寄託すると申し出てくださった。 願ってもないことだった。 また所蔵者にこの像を売った古美術業者は像を北関東で入手したといっているというお話もうかがったが、光得寺像との関係を想定するうえで有力な情報だった。

 

X線写真によって光得寺像の前段階の像内納入品を確認
 
  
大日如来像の像内納入品をとらえたX線写真

像内納入品をとらえたX線写真
 

さて、文献的に運慶作品と確定する証拠をもたない光得寺像が運慶作品の範疇でとらえられるのは、Ⅹ線写真によって像内に一連の運慶作品と共通する納入品、すなわち五輪塔形の木柱、心月輪[しんがちりん](仏像の魂)としての水晶珠[すいしょうしゅ]、舎利[しゃり]とその容器の存在が確認されたことも大きな根拠であった。

それらは文治2年の伊豆願成就院[いずがんじょうじゅいん]諸像や同5年の浄楽寺諸像の納入品から発展して、早くも運慶晩年、建暦2年(1212)の興福寺弥勒仏像納入品のレベルに達したものだった。 新出の像も光得寺像同様の像内を密閉する構造から、当然、納入品の存在が予想された。 それらが確認でき、そこにも光得寺像との若干の年代差を証しうる特徴がみいだせれば、わたしの推論に傍証がえられるはずだ。 東京国立博物館への搬入に先だち、隣の東京文化財研究所で、協力調整官三浦定俊氏をわずらわせてX線撮影を実施した。

はたして像内には予想とたがわぬ納入品が確認された。 像内中央に立つ五輪塔形の木札は願成就院諸像納入の五輪塔形木札と光得寺像納入の五輪塔形木柱の中間的なものであったし、心月輪として納入された水晶珠は光得寺像と同工のものであった。

木札を銅線で固定したり、水晶珠の蓮台の茎を木柱に巻きつけて留めたりする手法はいずれも光得寺像にみられる手法にくらべて未熟の観があった。

舎利を入れた水晶製五輪塔は建久3年(1192)に快慶が造った京都醍醐寺弥勒菩薩像など運慶以外の慶派仏師の作品に類例があった。 運慶作品特有の納入品であり、同時に、その形態や納入方法は光得寺像のそれらの前段階の特徴をもっていたのである。

それは作風の検討からえられた年代観とみごとに符合している。 なおこまかい検討を残してはいたが、Ⅹ線写真の映像をみた段階で、わたしは自分の推測に確信をもった。 断定こそできないが、この像は運慶作品にちがいない、そして、かつて足利樺崎寺の下御堂にあった、建久4年銘の厨子にはいっていた大日如来像であると。

 

運慶と東国との関係が一門の東大寺再興造像独占の布石
 
  

冒頭にものべたように、この像はいま東京国立博物館の平常展で光得寺像とともに公開されている(6月30日まで)。 公開開始後まもなく、以上の経緯と所見をまとめた論文も公刊されたが(「新出の大日如来像と運慶」『MUSEUM』589号)、実際に像をみて論文を読んでいただいた多くの専門家からも共感の声を寄せていただき、意をつよくしている。

論文中にもふれ、新聞記事でも特筆されたことだが、これまで空白であった、建久年間前半の運慶を考える材料があらわれた意義は大きい。

文治元年(1185)に源頼朝が開いた鎌倉勝長寿院[かまくらしょうちょうじゅいん]本尊を本家筋にあたる成朝[せいちょう]が造ったのに続いて、運慶は、同2年に北条時政の願成就院諸像、同5年に和田義盛の浄楽寺諸像を造っている。

だから、建久4年以前に、源頼朝とは血縁関係も姻戚関係もある足利義兼の造像を担当することもきわめて自然であるが、この時期の彼の中央における事績が不明であることをふまえて、さらに憶測をくわえれば、運慶はこの頃ずっと東国にいて頼朝政権要人の造仏需要にこたえていたのかもしれない。 むろん師であり父である康慶の意をうけてのことであろうが。

運慶の造像を通して築かれた東国武士との強固な関係は建久中盤以降の康慶一門による東大寺大仏殿関係の再興造像独占の布石となった。 そしてほかでもない運慶自身の、その後の栄達の基礎にもなったのである。
 



 
山本勉  (やまもとつとむ)
1953年横浜生まれ。 東京国立博物館教育普及室長・神奈川県文化財保護審議会委員・鎌倉市文化財専門委員会委員。

著書:『大日如来像』(日本の美術 No.374) 至文堂 1,650円(5%税込) 他。
 

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☆有鄰431号(平成15年10月10日号)に、水野敬三郎氏による
特集「運慶と東国 窶煤w日本彫刻史基礎資料集成』刊行にちなんで」
が掲載されております。 そちらもぜひご覧ください。



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