Web版 有鄰

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有鄰
(題字は、武者小路実篤)

有鄰の由来・論語里仁篇の中の「徳不孤、必有隣」から。 「鄰」は「隣」と同字、仲間の意味。

平成16年12月10日  第445号  P1

○座談会 P1   鯨捕りと漂流民 — ペリー来航前夜 (1) (2) (3)
大隅清治/川澄哲夫/春名徹/松信裕
○特集 P4   島崎藤村はなぜ大磯に終の棲家を求めたのか  黒川鍾信
○人と作品 P5   津島佑子と「ナラ・レポート」



座談会


鯨捕りと漂流民 (1)
ペリー来航前夜


財団法人日本鯨類研究所顧問 大隅清治
ニューベッドフォード捕鯨博物館学術顧問 川澄哲夫
作家・歴史研究者 春名徹
 有隣堂社長  松信裕
  



松信裕 川澄哲夫氏 大隅清治氏 春名徹氏
右から、春名徹氏・大隅清治氏・川澄哲夫氏と松信裕


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    はじめに
 
松信  

ことしは、ペリー艦隊が横浜に来航してから150周年に当たり、各所でさまざまな展覧会が開催されました。 ただ、ペリーが来航することになった背景にまでさかのぼって紹介されることはほとんどなかったように思います。

日本が鎖国制度のもとで外国との交易を拒んでいた1800年代前半、日本の近海には、アメリカやイギリスの捕鯨船が出没するようになりました。 一方、それらの捕鯨船によって救助された日本人の漂流民たちが、日本の開国に果たした役割も大きいと言われております。 本日は、捕鯨業の発展と、救助された漂流民の足跡についてご紹介いただきながら、日本の開国に至る経過をお話しいただければと存じます。

ご出席いただきました大隅清治先生は、財団法人日本鯨類研究所で、この1月まで理事長などをお務めになられ、現在は、同研究所顧問でいらっしゃいます。 ご専攻は鯨類資源生物学で『クジラと日本人』などをご執筆になられました。

川澄哲夫先生は、慶応大学教授などを歴任され、ニューベッドフォード捕鯨博物館学術顧問でいらっしゃいます。 『中浜万次郎集成』『資料日本英学史 ※』などのご著書がございますが、12月には有隣堂から『黒船異聞−日本を開国したのは捕鯨船だ』を出版いただく予定です。

春名徹先生は、東アジア海域史をご専攻で、ご研究の中で、アメリカ西海岸に漂着したものの帰国できず、上海にいた漂流民の生涯に関心を持たれ、『にっぽん音吉漂流記』を出版していらっしゃいます。

  ※『資料日本英学史 1(上)1(下)2』 大修館書店
 


  ◇日本は網取式、アメリカは帆船を母船にして捕獲
 
松信  

まず最初に、当時の捕鯨の、日本と欧米のやり方の違いからお話しいただけますか。
 

大隅  

去年がペリー来航150周年、ことしは日米和親条約締結150年ということで、日本鯨類研究所は横浜市とタイアップしまして、去年、「横浜開港150周年プレ・イベント」の一環として、「何が日本を開国させたか?」というシンポジウムをパシフィコ横浜で行いました。 そのとき「黒船来航当時の日本近海捕鯨の日米比較」のテーマで、私も講演をいたしました。

日本の捕鯨、いわゆる古式捕鯨は、初めは、座礁したり岸に近づいてきたクジラを利用していただけだったんですが、次第に技術を発展させて17世紀初頭には、産業規模にまで拡大・発展しました。

それに伴って捕鯨文化も随分盛んになりました。 天保3年(1832年)の長崎県平戸での鯨捕りの様子を描いた彩色の『勇魚取繪詞[いさなとりえことば]』という史料が北海道大学大学院水産科学研究科図書館に残されており、我々の研究所で今年、復刻版をつくりましたが、そのあたりが実によく描かれています。

日本の捕鯨は、徳川幕府の鎖国政策によって海外に進出することはもちろん、沖合へ行くことも禁じられていたために、日本の近くに接近してくるクジラを利用するという極めて受け身的な操業でしかなかったんです。

  日本の網取式捕鯨
  日本の網取式捕鯨
(大きな画像はこちら約171KB)
 
『勇魚取繪詞』から 生月御崎沖背美鯨一銛二銛突印立図・北海道大学大学院水産科学研究科図書館蔵
 

日本独特の技法としましては、1675年に開発された網取式捕鯨というのがあります。 これは、クジラの前のほうに仕掛けた網まで、勢子舟[せこぶね]といわれる小舟でクジラを追い立てて網に絡ませ、行動を鈍らせてから、もりを投げてクジラを弱らせてしとめるという方法です。

それに対して、アメリカ式捕鯨は、帆船を母船にして、クジラを発見すると、それに搭載した数隻のボートをおろしてクジラに近づいて捕獲するというやり方で、基地にとらわれずに操業ができる。

日本がクジラの処理場を中心にした操業であったのに対し、アメリカは、帆船を母船として、自由に動ける外洋で操業するという、大きな違いがあったわけです。
 


   アメリカの捕鯨は17世紀後半に東部で始まる
 
川澄  

捕鯨は、アメリカよりも日本のほうがはるかに早くからやっていたわけです。 1606年に和歌山県の太地浦[たいじうら]で和田忠衛門が突取式捕鯨を始めたということが史料に出てきます。

アメリカでは、捕鯨は1660〜70年ごろ、東部にあるナンタケットという島で始まるんですが、最初は、小型のボートで、海岸近くにいるセミクジラを捕っていた。 そして1690年に、ケープコッドからイカボッド・パダックという鯨捕りの名人を呼んで捕鯨技術に改良を加える。

そのころの日本は、もう太地では捕鯨が盛んになっていて、『日本永代蔵[にほんえいたいぐら] ※』にあるように、天狗源内という鯨捕りが大金持ちになっている。

アメリカの場合、決定的なのは、1712年に、ハセイという人がマッコウクジラを捕って帰ってくるんです。 そのマッコウクジラがセミクジラよりもはるかに価値があって、「油一升金一升」というものだったので、それからナンタケットの人たちはマッコウクジラに特化していく。

  ※『日本永代蔵』 岩波書店 他
 

大隅  

捕鯨ボートがシケで沖に流されて、そこで偶然、マッコウクジラを見つけて、捕ったということです。
 

川澄  

沿岸でセミクジラを追っていた小舟が、嵐で沖に流されて、今までとは違ったクジラに出会うわけです。 そして、もりを打ち込むと、そこから流れ出た血で波が静まったといった伝説的な話が伝えられています。
 

春名  

ナンタケット島が舞台の、フィルブリックの『復讐する海−捕鯨船エセックス号の悲劇』はおもしろい本ですね。 メルヴィルの『モービィ・ディック(白鯨 ※)』の基になったといわれるものです。

  ※『白鯨 上』 講談社 他
 


   アメリカ式捕鯨は油とヒゲ以外はほとんど海に投棄
 
大隅  

日本の捕鯨が、岸に近づくどんな種類のクジラでも捕獲でき、体のすべての部分を利用するのに対して、アメリカの捕鯨は、泳ぐ速度が遅く、しかも死んだ後、浮くクジラでないと利用できなかった。 さらに、皮を利用して油をとるだけで、骨とか、肉とか、内臓はすべて海洋に投棄していたので、利用の面でも大分違っていたということがいえると思います。
 

春名  

鯨骨をペティコートなんかに利用したと聞いていますけれど、量から言うとどうなんですか。
 

大隅  

鯨骨と言ってますがヒゲなんです。 セミクジラとホッキョククジラのヒゲにはバネのような性質がありますから、それを利用して、ペティコートの芯に使ったわけです。 ですから、アメリカ式クジラの利用の形態としては、油とヒゲの二つが主な用途です。
 

川澄  

ヒゲはウエールボーンとかベリーンと言い、縄とかコルセット、乗馬用の鞭、傘の骨などに加工される。 西洋社会の必需品ですね。
 

春名  

文楽の人形とか日本のからくり物のゼンマイに使われたのは何クジラのヒゲですか。
 

大隅  

主としてセミクジラです。 日本の江戸時代の捕鯨の主なクジラの種類はセミクジラでして、そのヒゲが非常に良質なんです。

ところが、アメリカの捕鯨船が日本近海まで進出してきて、セミクジラを沖のほうで捕るようになった。 日本の沿岸に近づく前に捕られてしまうので、日本の古式捕鯨は、大きな打撃を受けました。 アメリカ式捕鯨が原因で日本の古式捕鯨は衰退していったんです。
 

春名  

セミクジラのことを英語ではright whale[ライトウエール]というのだそうですね。 正統的クジラですか?正統的とはおもしろいなと思いました。
 

川澄  
  欧米における鯨の利用法
  欧米における鯨の利用法
(大きな画像はこちら約172KB)
  照明用の燃料や傘の骨、農業用の肥料などに使われた。
  日本鯨類研究所提供
 

ライトウエールのライト(right)は、「人間に都合のよい」という意味でつけられたものです。 比較的おとなしくて、捕え易いし、しとめても沈まない。

アメリカが捕るのは、大体マッコウクジラとセミクジラで、マッコウクジラからとれるマッコウ油が照明用、あるいは灯台に使われるんです。 当時は、照明用に使われる油はほかにはなかったんです。 アメリカから帰ったジョン万次郎も、日本のような種子油ではなくてクジラの油が用いられていると話しています。

もう一つはマッコウクジラの頭部からくみ出す鯨蝋[げいろう](スペルマセティ)という油で、ロウソクになるんです。 これが上流社会で使われます。

それから、シェークスピアの『ヘンリー四世 ※』に、「うちみの傷には鯨の脳みそからとった鯨蝋にまさる妙薬はない。」と出てきますが、鯨蝋は薬としても重んじられていたんですね。

セミクジラからとった油は「鯨油[げいゆ]」という日本語がついていまして、ウエールオイルと言うんですが、これが一般的な照明や、あるいは、当時勃興しつつあった産業革命で機械油として利用されるわけです。

  ※『ヘンリー四世 第1部第2部』 白水社 他
 


   一種のふんのようなものが珍重される香料に
 
松信  

油やヒゲ以外に利用されたものはなかったんですか。
 

川澄  

竜涎香[りゅうぜんこう]、アンバーグリスというのがあります。 これはマッコウクジラの腸が腐ったものなんです。
 

大隅  

腐ったものではなくて、一種のふん詰まりのふんみたいなものですね。
 

川澄  

それが香水とか、薬品だとか、媚薬に使われたんです。 『モービィ・ディック(白鯨)』に、「アンバーグリス」という章があり、クジラの油でつくったロウソクのそばで、竜涎香の香水を、ご婦人方や紳士たちが喜んでつけているということが出てきます。
 

松信  

実際ににおいをかがれたことがありますか。
 

大隅  

すごくいいにおいです。 今でもアラビアあたりでは売っています。 海にぷかぷか浮いて、それがだんだんにさらされて白くなって、岸に寄ったものが本当のアンバーグリスなんです。 それはすごくいいにおいです。
 

川澄  

もう一つは、マッコウクジラの歯を、鯨捕りたちが捕鯨船に乗っている間、とりわけ帰りの長い時間をかけて、彫刻を施すんです。 これをスクリムショーといいますが、19世紀のものは、今、一千万円もする鑑賞価値の高いものです。
 

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