Web版 有鄰

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有鄰
(題字は、武者小路実篤)

有鄰の由来・論語里仁篇の中の「徳不孤、必有隣」から。 「鄰」は「隣」と同字、仲間の意味。

平成17年2月10日  第447号  P1

○座談会 P1   京浜地域の近代化遺産 (1) (2) (3)
堀勇良/清水慶一/鈴木淳
○特集 P4   幕末の冒険写真家たち  斎藤多喜夫
○人と作品 P5   白岩玄と「野ブタ。をプロデュース」


座談会

京浜地域の近代化遺産 (1)

文化庁建造物課主任文化財調査官   堀勇良
国立科学博物館・産業技術史資料情報センター主幹   清水慶一
東京大学文学部助教授   鈴木淳
 
ドックヤードガーデン
ドックヤードガーデン
(旧横浜船渠2号ドック・国重文)
(横浜市西区) 撮影/森 日出夫

<画像の無断転用を禁じます。 画像の著作権は所蔵者・提供者あるいは撮影者にあります。>

    はじめに
 
編集部  

幕末の開港にともない、日本は西欧の産業技術を導入し、近代化を大きく推し進めました。 その後、現在にいたるまで、さまざまな新しい産業技術が数多く生み出され、社会や人びとの生活を大きく変えてきました。

しかし、これらの産業技術は時代の進展とともに次第に忘れられ、失われつつあります。 近年、それらの遺構や遺物を「近代化(産業)遺産」として調査し、また、各地で保存・活用しようという動きが出てきています。 とくに京浜工業地帯の中核をなす横浜や川崎では、いくつかの企業博物館も開設され、重化学工業の製造機械から家庭電化製品にいたるまで、さまざまな産業遺産を見ることができます。

そこで本日は、西欧の新技術によって造られた建造物や、社会や人びとの生活を大きく変えていった技術や製品などをご紹介いただきながら、現在、それらが産業遺産として残され、活用されている具体例などをお話しいただければと思います。

  左から堀勇良氏・清水慶一氏・鈴木淳氏
  左から堀勇良氏・清水慶一氏・鈴木淳氏
 

ご出席いただきました堀勇良先生は近代建築史がご専門で、長年、横浜開港資料館調査研究員をお務めになり、現在は文化庁建造物課に勤務されております。

清水慶一先生は国立科学博物館・産業技術史資料情報センター主幹で、建築技術史がご専門でいらっしゃいます。

鈴木淳先生は東京大学文学部助教授で、日本近代史、とくに幕末から明治期の機械工業や産業技術の歴史がご専門でいらっしゃいます。
 


  ◇技術や機械が大きな役割を果たした近代
 
編集部  

日本の近代化の中で横浜や川崎などの地域はどのような役割を果たしたのでしょうか。
 

鈴木  

西洋技術が入ってきた一番最初を言えば長崎かもしれませんが、明治になってからの窓口は横浜あるいは横須賀で、ここから技術の時代が始まるわけです。 それが東京へ導入され、全国に広がっていく。 大正期からは京浜工場地帯として成長し、そこでつくられた製品が全国の家庭にまで入っていくという、非常に興味深い地域だと思います。

私は技術の専門でも工学系の専門でもなく、歴史のほうから考える立場なんですが、この面から見ますと、近代は歴史の中で技術、あるいは技術の産物である機械や土木施設が大きな役割を果たしてくる時代だと思うんです。

そして、産業遺産ということでは、近代の場合、工場とか、機械とか、港湾の施設とか、いろいろなものが残っている。 そのこと自体が、近代はどういう時代だったかをよく示してくれているのではないかと思います。
 


   「絹と軍艦」が東日本の近代技術の導入の象徴
 
 

私の先生で建築史家の故村松貞次郎先生は、昔、東日本の近代技術の導入を「絹と軍艦」と、わかりやすい言葉で言われた。 軍艦は横須賀、絹は群馬県の富岡ですね。

建築のほうでも、横須賀製鉄所の建物と富岡製糸場の建物をつくった人が同じフランス人のバスチャンなんです。日本の近代、とくに明治の初めの象徴として、絹でお金をかせいで、それで軍艦をつくり、近代化を図る。 すると、京浜を飛ばして上州の生糸生産地と横須賀、その間に横浜があるという図が一つ描かれるんです。

生糸以外でも、群馬県の高崎とか館林、埼玉県の深谷あたりに、かなり特徴的な形態の製粉工場が随分たくさんあった。 それが大正期ぐらいになると、原料が輸入に変わるということなんでしょうが、海岸のほうに出てきて、京浜工業地帯になる。 日清製粉とか、日本製粉などですね。

横浜、横須賀と上州とを結ぶ鉄道のつながりとか、時代の流れ、関東近辺の配置の関係、そういうかなり領域の広いところから、京浜にどう絞り込まれてくるかを見ていくとおもしろいんじゃないかと思っているんです。
 

鈴木  

最近、富岡製糸場の工場で、V字型に板を並べた木の扉のデザインを見たんですが、明治13年か14年ごろの横須賀の工場の図面があって、扉のV字型がまったく同じ形なんです。 担当者は違うんですが、前にならって同じデザインでつくっているんだなと思いました。
 

清水  

明治30年代まで、あるいは明治いっぱいと言ってもいいと思うんですが、日本の工業というか、外国に向かってモノを出したり、外貨を獲得していった最大の輸出品は生糸ですね。

生糸は養蚕地帯で蚕を飼って、最終的に良質な生糸にして、それを横浜まで持ってきて外国に輸出する。 現在、一般にイメージされている工業とだいぶ様子が違っていた。 生糸が代表的ですが、同じように、お茶も非常に良質なものを横浜を通して外国に送り出す。 そのお金で軍艦や工作機械を買うとか、あるいは外国の知識を取り入れていく。

そういう日本と外国との接点が横浜あるいは横須賀で、ある時代までは非常にその部分が大きい。 そうなると、むしろ港湾施設の跡とか、外国領事館の跡とかが立派な産業遺産になってくるわけです。

産業遺産であるとか工業というと、どうしてもイメージしてしまうのが、大きな工場があって、高い煙突からモクモク煙が出ているような、ちょっと前の工業ですね。 今で言うと、たとえばICをつくっているような、工場地帯・工業団地のような人の住んでいないようなところでモノをつくっていく。 そういうイメージが大きいんですが、当時はそうじゃなかった
 


   外国文化の結節点・横浜と、近代技術の集積地・横須賀
 
鈴木  

産業と言うと、農業、商業、工業と縦割りで分けがちですが、考えてみれば、製糸もお茶も農産加工ですね。 ですから農業とも関係があるし、それを工業で加工して、さらに海外に輸出するわけだから、全部含めて一つの大きな産業で、その結節点が横浜だった。

港湾や鉄道の施設で明治期のものは、横浜に何か残っているんですか。 赤煉瓦倉庫は大正の初頭ですか。
 

 

明治の終わりです。 ただ、赤煉瓦倉庫は保税倉庫なので輸入品が対象なんです。 ですから、あそこを経由して生糸が輸出されたんじゃない。 そういう意味で言うと、残っているものはなかなかないですね。
 

鈴木  

横浜開港資料館などでしのぶしかないという感じでしょうか。 生糸検査所の建物は、壊してつくり直したんですね。
 

 
帝蚕倉庫  
帝蚕倉庫 (横浜市中区)

 

そうです。 検査をしていた場所はもうなくなっています。 かろうじて生糸検査所の奥に倉庫が三棟残っています。 北仲地区の帝蚕倉庫です。 あれは震災復興建築ですから大正期です。 ただ、あれだけの規模のものが当時四棟もあって、震災後でもあれだけの規模を想定していたのは、生糸貿易でのピークがその時代にあったのだと思いますけれども、その象徴みたいなものです。

そういう意味では帝蚕倉庫は、生糸貿易を具体的に残している唯一のものと言えるかもしれません。
 

清水  

横須賀は海軍の基地ですが、近代的な軍艦は、船を買ってきて、そのまま海に浮かべておけば何とかなるというようなものではなくて、それを修理するための膨大なバックグラウンドが必要なんです。 修理をしようと思ったら、鉄をつくらなければいけないので製鉄所が要る。 あるいは工作機械が要る。 さらにその技術者も要る。 それで、莫大な国のお金を投入して、産業技術をそこに集積したわけです。

横浜には外国文化の接点があり、横須賀は近代技術の集積度が高かった。 そういう中で残っているものが、産業遺産になってくるのかなと思います。
 


   「近代化遺産」は平成になってつくられた言葉
 
 

私が近代化遺産といわれるものを調べてみようと思ったのは、昭和57年でした。 ちょうど「みなとみらい」をつくっているときで、三菱重工横浜造船所が全面移転するところでした。

三菱重工は明治22年に設立した横浜船渠会社を引き継いだ工場です。 そこで、当時の産業関係の機械類などをリストアップしようという調査をしたんです。 当時はまだ「近代化遺産」という的確な言葉がなかったので、横浜開港資料館では「土木産業遺構調査」と言っていたんです。

「近代化遺産」という言葉は、最近はかなり定着してきましたが、この言葉は、平成2年に文化庁が近代化を支えた交通、産業、土木の遺構の全国調査を始めたときに使い出したんです。

「近代化遺産」というのは文化庁の建造物課が使っている言葉で、文化庁の記念物課では「近代遺跡」と言ってますし、旧通産省系は「近代化産業遺産」、国土交通省では観光と結びつけようと、「産業観光」と言っている。 言葉としては「近代化遺産」がいいかなと思っていますけど、これだというのはまだ決まらないんです。
 

鈴木  

「遺跡」という言い方は、行政的には筋が通っていますけれども、遺跡と言われてしまうと絶対さわれなくなるような感じがあって、ちょっとマイナスイメージがあるみたいですね。
 

清水  

工場などはいやがるでしょうね。 (笑)
 

 

今はユネスコの「世界遺産」の影響か、かなりプラスのイメージで見られるようになりましたけれどね。 街づくりをやっているほうから言うと、横浜市では歴史的資産とか、「資産」という言い方をしたいという考えもありますね。
 


   日本語と英語で微妙にとらえ方が違う「遺産」
 
清水  

もともとは英語のインダストリアル・ヘリテイジで、産業遺産、資産と言っているんですけど、日本語に直すと、古めかしいものとか骨董品みたいになってしまう。 だけど、そうじゃないわけです。 遺産ということ自体が日本語と英語では微妙に違っているんですね。

遺産というのは、西欧では割といいことで、遺産で生活することが社会的に認められているんだけれども、日本ではなぜか手放しで喜べないところがあるし、「負の遺産」などという言葉がある。
 

鈴木  

経済成長が上り調子ではなくなって、遺産が大事なんじゃないかという社会になってきている。 だからこそこういうのが振り返られている。 「遺産」という言葉自体が、社会の産業遺産に対するとらえ方の変化を示しているような感じがします。
 

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