『有鄰』最新号(P1) 『有鄰』バックナンバーインデックス 『有鄰』のご紹介(有隣堂出版物)



有鄰
(題字は、武者小路実篤)
有鄰の由来・論語里仁篇の中の「徳不孤、必有隣」から。 「鄰」は「隣」と同字、仲間の意味。

平成22年5月10日 第508号 P1


○特集 P1 城山三郎との縁
  P2 竜馬の妻 お龍
○海辺の想像力 P2 長屋と港の江戸学
○人と作品 P3 道尾秀介と『光媒の花』
○有鄰らいぶらりい P3 岩崎元郎:著『山登りの作法』辻井喬:著『茜色の空』佐々木瑞枝:著『日本語を「外」から見る』咲乃月音:著『ぼくのかみさん』
○類書紹介 P4 平城遷都1300年…藤原京から奈良の地へ、古代の都城をたどる。



城山三郎との縁

澤地久枝
澤地久枝

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『婦人公論』の編集者として出会う

城山さんが逝かれて満3年が過ぎた。1927年8月18日から2007年3月22日まで、79年と7か月の人生。昭和を丸ごと生き、さらに平成を生きた。

城山三郎展(神奈川近代文学館主催)のため、去年の秋から城山作品を読みつづけ、『小説日本銀行』を読了したところ。ひとくぎりついた気がする。

昨今の出版事情のきびしさと、去る者日々に疎しの世相を考えあわせ、たびたび書店で城山作品の確認をしてきた。

店頭で文庫版だけでも20冊をこえる城山作品を確認できたのは、城山ファンにとって幸せな贈物である。

城山三郎氏
城山三郎氏

版をかさね新版が出ていて、読者が若い人へひろがっていることを示している。
新聞社から訃報と同時に感想をと言われたとき、「たよりにしていた兄貴を喪った気がする」ととっさに答えた。その気持はいまも変わらない。

昭和5年秋の生れのわたしは、3歳下の妹。城山さんは率直すぎるほどのこの後輩にたじろぐことたびたびであったろうと、申訳なく思うが、ゆらぐことなくこちらを直視し、答をはぐらかすことはなかった。

代表作『大義の末』(1959年刊)が最初の出会いである。わたしたちは十五年戦争下の少年少女であり、時代風潮にからめとられ、聖戦完遂を信じ、戦争で死ぬことを求めた共通体験がある。敗戦によって一夜にして価値観逆転の世相に直面し、自らの責任を問うところから出発した戦後。ごまかすことのできない戦争体験をかかえて生きてきて城山さん31歳、わたしは28歳だった。

折柄の「御成婚ブーム」で、歴史としての「天皇制」論議も、「戦争責任の所在」も急速に風化しようとしているかに思えた。時勢に流されまい、という自覚は、敗戦体験によって深かった。

編集者はプランをたて、誰かに原稿を書いてもらうのが仕事である。城山さんが杉本陸軍中佐の遺稿『大義』の影響を受けて海軍へ志願、3か月の海軍生活で地獄につきおとされ、権力と個人の関係を自問自答して生きてきた人であることは、『大義の末』一冊でわかりすぎるほどであった。

昭和13年刊行の『大義』をわたしは読んでいない。当時、小学2年生であり、城山さんとの年齢差は決定的だったし、男と女の違いもある。しかし城山さん以外に執筆してほしい人はなかった。

「何か難しいテーマだなぁと思ったけど、凛として言い張るから困っちゃって。でも、そこに負けて書かされた。なるほど女性編集者は、こう凛々しくなくてはいけないのか、その生きた実例を目の当たりにした気がしました。それから後は女性編集者というと震えちゃって、なるべく受けないようにしようと(笑)」(『対談集「気骨」について』新潮社)

40年ぶりに公開対談の機会を得て、わたしは過去の強引な執筆依頼をまず詫びた。「天皇制への対決」とタイトルをつけた城山さんの文章(『婦人公論』1959年6月号)は、ふりかえると、他にはない烈しい内容のものである(佐高信編『城山三郎の遺志』岩波書店)。

つぎの小説の準備に伊豆へこもろうとしていた城山さんは、茅ヶ崎から京橋の中央公論社へ立ち寄られた。おそらく、ことわろうとされての来社だったと思う。当時の城山家には、電話は引かれていなかった。

このあと、17歳の海軍軍人としての経験を裏打ちとした誠実かつ妥協のない「御成婚ブーム」批判を書かれた。

『大義の末』には、入隊後の夜間訓練中、岩場で転倒し、天皇陛下の紋章入りの銃をかばおうとして三八式銃を捧げもち、前歯を折る海軍飛行予科練習生(予科練生)が描かれている。

終戦の2週間後、軍服姿で復員してきた城山少年は、「痩せこけ、前歯は折れ、別人かと思うような顔をしていた」という(加藤仁『筆に限りなし-城山三郎伝』講談社)。いわゆる「私小説」を書くことはなかった城山さんは、皇国史観絶対の時代の、軍隊生活の具体的な内実を書くとき、実体験を土台にしたことを語る前歯の受難である。

海軍特別幹部練習生としての戦争最末期の3か月は、その後の人生、とくに作家生活の原点になった。

『辛酸』には「公害日本」を見通した先見性が

1959年4月の「御成婚」をきっかけとした文章は、微妙なタイミングの執筆となっている。60年安保、浅沼社会党委員長刺殺、「風流夢譚」事件(中央公論社社長嶋中夫人ほかの殺傷)とつづいて、萎縮した言論界は、「自粛」あいつぐ。城山さんが正面切って天皇制を論じる機会は失われる。代表作の一つ『辛酸-田中正造と足尾鉱毒事件』は、『中央公論』61年6月号に第1部発表、第2部は掲載見合せとなって、単行本出版により完結する。城山さんが標的になったということではない。反権力の表現を警戒し自粛する空気が、言論界に浸透したということである。勇気が求められていた。

『辛酸』は、衆議院議員の職をかけ、直訴に踏みきった田中正造の最晩年の姿と、1913年秋、73歳の窮死、あとに残った少数谷中村民のたたかいを描いている。公害をあつかった先駆的作品だが、城山さんは、「公害問題のテキストとしてでなく、何よりも人生の書として読んで欲しいものである」と「あとがき」に書いた。わたしは、公害告発の書である以上に、勝ちめのない闘争をした老人と農民たちの群像を描くべく、構成に非常な苦心があること、残留農民の童といる田中正造が雪に降られ、「もう雪か。悪魔が満ち満ちると、天もまた、くみするのかのう」と口にする情景を挿入するなど、文学作品としてなみなみならぬ意欲がこめられていることを読みとるべきなのだと思っている。鉱毒事件の訴訟記録、新聞記事、田中正造がのこした文章などを調べぬいて、足尾鉱毒事件でたたかいつつ敗れざるを得ない人たちを描いた。城山さんは渡良瀬川でボートを漕いだという。取材の果てに、川の流れ、水の匂いを実感し、主人公たちに寄りそおうとしたのだろうか。

正造に人生をあずけ、遺志をつぐ宗三郎は実在で、島田宗三という。その息子が城山さんの大学時代の友人であり、城山さんは宗三に会っている(城山三郎・佐高信『人間を読む旅』岩波書店)。レイチェル・カーソンが『沈黙の春』を発表するより早い執筆であり、「公害日本」を見通した城山さんの先見性を感じる。

こういう書き手の登場は、城山さん以前にはない。構想をたて、小説を書く土台として、関係者の膨大な証言をあつめた。機を失すれば、永遠に死の沈黙にとらえられる証言者たちである。そこに、わたしたちが受けとる城山文学の恩沢がある。

編集者としての出会いの直後、わたしは第1回の心臓手術を受け、4年後に仕事を去る。そして五味川純平氏の『戦争と人間』の助手の日、ただ一人の文官A級戦犯として処刑の、広田弘毅を描いた『落日燃ゆ』を手にした。

二・二六事件以後の、推定される政治裁定への動かせない「証言」がそこにあった。ほかでは目に出来ない一級資料である。広田が首相に任ぜられて宮中退出後、家族に洩らした言葉は、戦争の昭和の根幹部分にかかわっていた。

広田弘毅の遺族が、遺言にしたがって完全に沈黙し通した壁の内側へ入り得てのことである。広田の長男と大岡昇平氏の交友、その大岡氏の仲立ちによって実現した「秘話」の記述であることは、いまではよく知られるようになった。

当時のわたしは文学作品を読むというより、「戦争の昭和」の追跡資料として、城山文学を読んでいた。助手は、見落しをしてはならなかった。

明治人の骨太さ、器の大きさを書きのこす

90年代が近づいた日、講談社ノンフィクション賞選考の委員として再会。城山さんは事前に辞意を伝えられていて、わたしは「兄」の仕事をひきつぐ「不肖の妹」めいていた。

やがて戦争文学を論じる場へ出る日がわたしにも訪れ、『大義の末』『一歩の距離』を書かずには死ねないと考えた城山さんの作品にまたもや出合う。それはとても切実で、少年の眼が見、その肉体が記憶している戦争をつぶさに伝えてくれている。戦争など知らない若い世代にそれを伝えてゆく役割をわたしは自覚した。

一人の書き手として、わたしは、金子直吉を描いた『鼠-鈴木商店焼打ち事件』に圧倒された。城山さんはかつての新聞報道に導かれ、「証言者」に証言の内容を確認して歩く。舞台になる神戸滞在が長びき、神戸に住もうかというほどの傾倒である。焼打ちの最初の火、放火した人をも確認、会いにゆく。風評は風評に過ぎなかった。それを事実と認定した歴史家の歴史を、城山さんは打ち砕いていった。これは、「事実」を調べる人間に課せられているいわば初歩のことであり、執拗に調べ、さりげなく簡潔に書けばいい。だが、容易なことではない。

容子夫人に先立たれてからの7年間、城山さんはよく耐え、よく生きのびた。魚を食べるとき、妻がまず身をほぐして骨をとり、それから食べた(『対談集「気骨」について』)。夫婦で散歩中、「おんぶして」と言い、妻に背負ってもらったこともあるという(『筆に限りなし』)。これを「幼児性」などと言いたくはない。逆風に孤立して震えても、心安らぎたい心情をあずけられる人、妻。束の間の平穏。無惨であった17歳の日が、死ぬまでの原点となり、組織と人を問いつづける志を支えていても、少年にかえるひとときはあった。

城山さんが書きのこしたのは、女もふくめて、明治人の骨太さ、器の大きさである。人を得ない組織は劣化を避けられない。明治人が第一線からことごとく退場した現在を問い、暗示をのこしていると思う。端整でおだやか、しかし激情を秘めていた「城山三郎の魅力」を伝えてゆきたい。



澤地久枝 (さわち ひさえ)
1930年東京生まれ。ノンフィクション作家。
著書『妻たちの二・二六事件』中公文庫 660円、『密約-外務省機密漏洩事件』岩波現代文庫 1,050円、ほか多数。

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