Web版 有鄰

557平成30年7月10日発行

横浜海軍航空隊を知っていますか – 2面

大島幹雄

桜並木の由来と池波正太郎の回想

横浜の花見名所のひとつ、金沢区の富岡総合公園の桜が咲き始める3月下旬から4月上旬にかけて、桜並木のあちこちに屋台が立ち並ぶ。桜の木の下にはいくつもの円座ができ、桜の花びらが舞い散るなか、宴を楽しむ人でにぎわう。ここから少し離れたところに、かつて浜空神社という神社があった一画がある。ここに桜並木の由来を記した小さな碑が建っているのを知っている人はあまりいないのではないだろうか。

この碑には、富岡総合公園の桜の由来について記してある。

この桜は昭和十一年十月に 横浜海軍航空隊がこの地に 開隊されたとき隊員の手で 植樹され大切に育てられたものである。

年々歳々花変らねど

征きて還らぬ戦友多かりき

この桜を植樹したのは横浜海軍航空隊(浜空)の隊員だった。

屋台が並んでいる道路沿いに、この航空隊の正門となっていた「横浜海軍航空隊隊門」が残っている。ほとんどの人が見逃してしまうこの門が、昔この一帯が海軍の基地であったことを物語っている。

作家の池波正太郎は、戦争末期のおよそ1年余り、毎日のようにこの門をくぐっていた。彼は浜空の隊員だった。池波はここで電話交換士の仕事をしていたのだ。「桜花と私」というエッセイの中で、彼はここで見た桜の花びらの思い出を書いている。用事があって士官室へ行った時のことだった。ここで大尉が戻るのを待っていると、開け放った窓から桜の花びらが舞い込んできた。

それを見ているうちに、胸が熱くなり、おもわず眼がうるみかかるのを、どうしようもなかった。悲しいというのではない。ただ、自分は来年の春に、ふたたび桜花を見ることはできまいというおもいが、胸にこみあげてきたのである

桜のはかないいのちの先に、池波は自分の未来を重ね合わせていたのである。

ここに飛行艇部隊の基地があった

隊門から700メートルほど海の方に向って歩いていくと神奈川県警第一機動隊がある。ここはかつて浜空の本部があったところである。いまでも機動隊の構内には、燃料や爆弾を運んだレールやもやい綱を結ぶポラードなど、ここに航空隊があったことを偲ぶものが残っている。なによりも最大の遺構は、機動隊正門の右手にある全長170メートルもある格納庫である。現在は車庫として使われているこの格納庫は、戦前に複数つくられた格納庫として現存する唯一のものである。

この巨大な格納庫で翼を休めていたのは飛行艇であった。飛行艇とは、船に翼をつけた形をしたもので、胴体を海につけたまま、滑走して飛び立つことができる飛行機、あの宮崎駿の名作映画『紅の豚』に出てくる飛行機である。

富岡にあった浜空は、飛行艇の部隊だった。ここから根岸湾の海上を滑走して飛行艇が飛び立っていた時代があったのだ。

富岡に住むようになって30年以上にもなる私がこのことを知ったのはごく最近のことである。最初は花見の時期に、花見客とはまったく異質な集団が、かつて浜空神社があった一画にいるのを目にしたのがきっかけだった。あれは何だったのだろうと気になり、あとでそこを訪ねた。神社があったところだけに、参道となっていた細長い砂利道があり、それを歩いていくと正面に「鎮魂」と刻まれた大きな碑が目に入った。そして鳥居があったらしきところに、前述した桜の由来を刻んだ碑があり、その隣に「浜空神社の由来」と彫られた碑もあった。

昭和十一年十月一日飛行艇隊の主力として横浜海軍航空隊が当地に開設されたその守護神として造営されたのがこの浜空神社である。昭和二十年八月十五日大東亜戦争終結後当航空隊跡地は横浜市富岡総合公園として生まれ変わったのである

(中略)

横浜航空隊は浜空神社を中心とした広大な陸上の敷地と現在埋立てられた根岸湾に水上の飛行艇発着場を専有していた隊員約一千名大型飛行艇二十四機を有する海軍最大の飛行艇専門航空隊としてその威容を誇ったものである 今なお隊門付近の桜並木と飛行艇大格納庫が当時を偲ぶ面影を残し訪ねる者に静かに語りかけてくれる

(後略)

ここに海軍飛行艇の基地があった、新鮮な驚きだった。これが浜空との最初の出会いだった。そしてあとであの時目にした集団が、毎年4月第1日曜日に行われていた浜空戦没者慰霊祭の参加者だったことを知った。

知らなかった歴史と伝えたい思い

まもなく有隣新書として世に出る『語り継ぐ横浜海軍航空隊』(仮題)は、富岡に30年以上住みながら知らなかった、この地にひっそりと建っていたこれらの碑と出会ったことをきっかけに、この航空隊にまつわる歴史と、そこに関わった人たちの生きざまを追ったノンフィクションである。

戦後70年以上経ったいま、戦争を実際に体験した人たちの声を拾うことは難しくなっている。そんないま本書では、大正10年(1921)生れの元浜空隊員、さらに浜空会という亡くなった戦没者の慰霊を目的とした会の会長をつとめている昭和2年(1927)生れの元特攻隊員が登場し、戦争の体験を存分に語ってくれている。このことにより浜空の歴史を追うだけでなく、戦場を体験した人たちの肉声を通じ、ここで生きた人たちの生きざまを浮き彫りにすることができた。

「鎮魂」の碑

「鎮魂」の碑

富岡総合公園の一画にある「鎮魂」と刻まれた立派な碑は、かつて浜空がここにあったこと、そして浜空の隊員たちが先の戦争で死んでいったことを後世に伝えようとしたものであった。それは戦争の悲劇を伝えることでもあった。本書では戦争を繰り返してはならないという思いに駆られ、懸命にこの悲劇を「伝えよう」とした人たちのことにも焦点をあてている。

ソロモン諸島ガダルカナル島に隣接した小さな島ツラギで浜空部隊は玉砕し、400人近くの隊員が命を奪われた。

この仲間の思いを伝えるために、戦後戦友たちの遺族を訪ね歩いた元隊員。ガダルカナル島に散らばっていた日本軍兵士の遺骨の収集を続けた、ツラギで勤務していた国際協力機構の職員。ツラギの戦いで生き残り、連合軍の捕虜となり戦後帰国、公式記録では明らかにされなかったこの戦闘のありさまを明らかにしようとした元隊員。さらには昭和20年(1945)6月10日富岡を襲った空襲の悲劇を伝えるために寺の境内に戦争供養碑を建立した住職。

これらの戦争を「伝えよう」とした人たちのその熱い思いを、この書に込めることになった。

浜空に関わりを持った人たちが、志をもって「伝えよう」としたその思いを、ここで明らかにすることができたと思っている。

本書を書き上げるまで、3年間の取材や調査を要した。その中でひとつだけ確実に言えることは、語り伝えようとした人たちの思いを知れば知るほど、私もまた彼らの思いを受け継いでいかなければならないということだった。

この書を書くことによって、私も浜空のことを未来に語りついでいく、語り部のひとりになった、そう思っている。

大島幹雄 (おおしま みきお)

1953年宮城県生まれ。ノンフィクション作家。著書『明治のサーカス芸人はなぜロシアに消えたのか』新潮文庫 520円+税、『満州浪漫』藤原書店 2,800円+税 ほか多数。

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