Web版 有鄰

559平成30年11月10日発行

ブルゴーニュの丘に打ち寄せる波 – 海辺の創造力

青柳いづみこ

クロード・ドビュッシーの交響詩『海』は1903年に着手された。当時ドビュッシーは妻の実家があるブルゴーニュ地方のビシャンに滞在しており、指揮者の友人に宛てて次のような手紙を書いている。

「私は次のような題を持った3つの交響楽的素描を作曲しています。1:「サンギネール諸島付近の美しい海」、2:「波の戯れ」、3:「風が海を踊らせる」、総題は『海』です」
(1903年9月12日)

このうち第1楽章のタイトルは、友人の詩人カミーユ・モークレールの短編小説からとったもので、のちに「海の夜明けから正午まで」に変更された。

この手紙の次のくだりが面白い。

「あなたは前述の作品に関連して、大西洋は必ずしもブルゴーニュの丘に打ち寄せはしないと私におっしゃるでしょう!…それはまさに画家のアトリエで描かれた風景画に似たようなものだと! でも私には無数の思い出があります」

ドビュッシーが『海』を作曲したとき滞在していたのは、海のない地方だった。このことから、彼が音楽による「海」の描写を試みたのではないことがわかるだろう。

ドビュッシーは「印象主義音楽の創始者」としてモネなどの絵画とむすびつけて語られることが多い。しかし、印象派の画家たちがうつろいゆく自然の様相をすばやく描きとめたのに対して、ドビュッシーの場合は、「記憶」のフィルターが大きな役割を果たしていた。自分の作曲方法について彼は、自然がもたらした「ひしめき合う印象」が突然外にひろがり、その記憶のひとつが「音楽語法となって表出する」という言い方をしている。

『海』は1905年10月に初演されたが、難解すぎて理解されなかった。ある批評家は「私には海が見えず、聞こえず、感じられない」と書いてドビュッシーを激怒させた。

初演したシュヴィヤールをはじめ指揮者たちも、スコアのむずかしさに辟易し、次第に逃げ出すようになった。1908年のコロンヌ管弦楽団による公演では、ついにドビュッシーみずから指揮棒を握ることになった。胸をドキドキさせて人生初の指揮台に登ったドビュッシーは、意外にも快感をおぼえたらしい。若い友人への手紙でこんなことを書く。

「自分の音楽の真意が本当に身をもって感じられます…。それがひじょうに見事に『響く』時には、自分自身が、小さな指揮棒の動きだけで炸裂する全部の音響を一手に引き受けた楽器になったような気がします」

このときドビュッシーは、「海辺」ではなく「海の中」にいた。彼の類まれな想像力は自分自身のまわりに音楽による「海」を生じさせてしまったのである。

(ピアニスト・文筆家)

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