Web版 有鄰

529平成25年11月3日発行

絵本と出会って60年 – 1面

かこさとし

絵本のない家

私は大正15年、北陸福井の武生(現越前市)で会社員の末子として生れた。その昔、国府であったこの町は、周辺の山や川と人情が優しく、その中で楽しい幼年期を過した。しかし恥ずかしい事に、絵本はおろか文化的な書など1冊もない家で、その上幼い私が絵なんかかいていると、父に叱られるのが常だった。理由が解るのはずっと後年のことだ。

それ故野山を走り、虫や小魚を友として、厳寒期は紙工作などをしていた。

昭和8年、私が小学2年の春、一家は東京板橋に移った。さすがに家も人も多く、初めて銭湯や街頭紙芝居屋に接して、都会生活の厳しさを知った。しかし当時は、まだ武蔵野の面影や大根畠も多く、そうした丘に赤屋根の画家の家があり、何れも奥さんが内職している状況で、父の叱責は私の絵好きが高じて、貧乏画家になるのを予防しての配慮の実体だった。

しかし小学校で自由画教育に熱心な教師に選ばれて、放課後直接指導を受け、親には知られず絵をかく楽しさを満喫していた。

また進学した中学校には、立派な図書室があったので、忽ち入り浸って本をよむ一方、美術専科の先生から、絵画教室の特別許可を得たので、通学は愉悦の毎日だった。このまま過ぎたなら、私の人生は全く違ったものとなったことだろう。

目標の模索と彷徨の果てに

中学2年になった早々、学年主任の教師が「諸君の同級生が、既に幼年学校(上級軍人養成の士官学校前の少年期の学校・筆者註)と商船学校に合格、転校し、自らの人生に進んで行った。諸君も近々元服の年となり、自らの将来を選び、開拓してゆく時となるから、充分考慮し努力せよ」と、喝を入れられた。

私は10日ほど考え悩んだ。自立にはもっと実力が必要で、それには上級の学校へ進む必要があるが、我家の経済状態から親に頼るのは無理。働き乍らの夜学より、学資不要の士官学校に行くのが、親にも社会にも最善と思案し、当時はトンボから航空機に熱中のヒコー少年だったから、航空士官を目標とし、その実現に必要な理数学科に集中し、他の学科はもちろん、図書室美術室への出入を禁じ、軍人志望の同級生と、心身練磨に励んだ。

やがて受験可能の4年生になるや、近視が進み受験不可と宣告された。折から米英と開戦の興奮からか「軍人になれんような奴は」という周囲に反撥し、軍人以外にも社会に貢献する道はある筈と、工学を目指した。

そして旧制高校理科に入ったものの、授業は僅か1年のみで、2年生になるや全員戦車工場で三交替勤務、従って自他共に「最低学力クラス」のまま、東大工学部の学生となった。

戦局は益々悪化し、連日の空襲で講義はなく、戦火による延焼防止の間引きと称する地域の木造家屋倒壊作業の間、自宅も消失。防空壕や仮小屋を転々の末、6月父の郷里三重にやっと疎開。鍬一つないので木の枝で開墾中に敗戦となった。

9月単身上京し、ようやく講義を受けたが、騒然混乱の中、軍人の学校に進んだ級友の多くは、数え年20歳で少尉に任官、「特攻」を志願して死亡を知り、本来なら同様なのにおめおめ死に残った恥辱、惨愧に苦しんだ。

講義も身に入らず、なんとか生きる目標を得たいと、法文経の著名な教授の講義にもぐり込み、講義ではなく時折洩らされる憂国の言や警世の辞から、灯を得ようとしたが、連日食物を追い求める「食うため生きる」情けない身となったのは、浅薄な判断と偏った勉学の結果で、この過誤は何としても正したいと願った。悔悟の中から、大人は全員この戦いと敗戦に責任があり、私も同罪。その償いは罪のない子らに捧げねばならぬ。せめて私のような過ちをせぬよう、自らを鍛えかしこくなるよう努力する子のお手伝いを、昭和20年以後の私の余命の目標と決した。

だが子どもについて全くの無知なのを、どうしたらいいのだろうか。

演劇、人形劇、子ども会

当時の大学構内は、復員してきた陸海軍の軍服や国民服などの交った学生達が、政治的な全学連や軽佻なダンス研究会など、各種の同好サークルを作っていたが、私の望む子ども関係の会は見当らなかった。それでついふらふらと演劇研究会に入会した。(これが後に正解になるのだから、この世は不可解)

会のメンバーは多くは文系で、工系の私は裏方の装置設営担当となったが、リーダー格の3人が真面目で実力があり、演劇の主軸は脚本にあり、人体による形象で人間を表現する基本を実践で知る事が出来た。特に食料難の解決もあって、度々農村に行ったが、先ず子ども対策が必要となる。期待が大きければ比例して早々と子らが集る。狭い場所に蝟集した子らのエネルギーは、時に設営途中の舞台を壊したりする。こうした対策が舞台設置と共に私の出番となり、それは子らの集団対応、指導、統御のよい習練となった。

それだけでなく子らは芝居が始ると、我慢強い大人達と異り、好ければ歓声、つまらないと騒ぎ、好悪良否を行動で示すのを知った。それは単なる気まぐれでなく、卒直な人間性のあらわれと感じた。

演劇を通してこうした子らへの手掛りを得て、昭和23年大学を卒業、数件の候補の中から選んだ化学会社に入社した。腰を落着けて勤務しながら、社会と子どもの実体を把握する計画だったが、社長が疑獄で逮捕され、銀行融資が止り、給料は遅配、分割、やがて金銭の代りにツクダニの現物給与となり、またも判断の誤りと選択眼のなさを後悔した。

演劇などの状況でないので、子らにより適する人形劇の技術習得に、退社時間後「人形劇団プーク」に日参した。熱心さからか観客組織の会長を押付けられ、以後春秋の休日、数百人の子ども達をゲームや大型紙芝居で対応することとなった。

そうしたある日、準劇団員から子ども会の手伝いを頼まれ、行った所が大井町の保育園で、診療と子ども会活動をしていたのは東大セツルメント(以下セツルと略記)だった。


セツラーと子どもたち。(1964年、川崎。左端が筆者)

セツルとは大学延長運動の社会改良組織で、私は高校以来秘かに憧れていたが、学生の時はセツルは無く、卒業後台風による下町水害救援活動から復活した由だった。やがて活動拠点を川崎に移し、そこは私の住む寮の隣町なので、以来子ども会の担当となった。

絵本との幸福な遭遇

セツルの周囲は、川崎臨港地帯の工場労働者の長屋街で、遊んでいる多くの子らに、休日広場でお伽話や紙芝居を見せたりした。テレビはもちろん玩具も乏しい時代だったので私が作った紙芝居を喜んでくれると思ったのに、1人減り2人欠けして、残ったのは幼児と老母だけの有様。見放されたかと思っていると「オワッタノー」と子らが帰ってくる。聞くとトンボやザリガニとりにいってたという。要するに「見ちゃおられん」のを態度で示してくれたので、ザリガニの魅力にまけぬ内容にかきかえ、次週見せたら、後半ざわついたので、また後半をかきかえ、なんとか終りまで見てくれるのができた。

こうして紙芝居やお話の内容や、画面の大きさ、枚数、提示の方法などなど、子らの反応が的確に問題点を教示してくれ、次々新しい作品や方法が作られていった。

更に子ども達は、その後鬼ごっこや石けりなどをやり始めるので、セツラー(セツルの活動をするメンバー)は一緒に入って遊び、その難易や面白さを体感。こうした遊びの要点をメモしてゆくうち、子らの時代や地域感覚、遊びの改良工夫の跡や巧みなユーモアなど数々の特長美点が見出せた。(詳細は『伝承遊び考』全4巻・2006~7年・小峰書店参照)

子ども会担当のセツラーは、教育系や文法理系の学生に、保母学院など他校女子が加わり、毎回4~5名が当番で内容を連絡ノートに記録した。学生だから2年も続けられるのは稀で、社会人の私は専らそのつなぎ役をしていた。

そうした中、1人の浪人中の女子学生が来てくれたが、案の定、数ヶ月で見えなくなった末、突如その方から「絵本を出すから来れ」との連絡を受け、驚き疑いながら指定の所へ往き、会ったのが福音館書店の松居直編集長だった。女子学生は後に堀内誠一氏夫人となった内田路子さん。

戦後日本の絵本を世界水準に高められた名編集長と、オカッパ髪の女神の盡力で、私の最初の絵本『ダムのおじさんたち』が出版となり、その後各社から依頼をうけ、子ども会で直しに直した紙芝居が次々絵本となり、いつの間にか600冊をこえてしまった。


『からすのおかしやさん』
偕成社:刊
40年ぶりに刊行された『からすのパンやさん』の続篇の1冊。
成長した4羽の子ども達がそれぞれ主人公の話。

この間読者から多くの感想、励ましの手紙を頂いた。特に子どもさんからのお便りは、私を絵本へ育ててくれた先生なので、必ず返事をかく事にしてきたが、「続きをかいてください」という要望に、おこたえしようと、続篇の素案を何度もかいては直しているうち、10年、20年がすぎ、折悪しく眼疾や頚椎症などが重なり、やっと40年かかって『からすのパンやさん』の4羽の子からすが成長したお話をお届けできた所です。

以上のように、私と絵本との出会いは全くの偶然、僥倖、幸運の重なりで、読者の皆様に見て頂く幸福に達したことを、感謝をこめて御報告と致します。

かこさとしさん・写真
かこ さとし

1926年福井県生まれ。
絵本作家、児童文化研究者。著書『からすのパンやさん』偕成社 1,000円+税、『だるまちゃんとてんぐちゃん』福音館書店 800円+税、ほか多数。

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