大島幹雄
ガス灯、ビール、鉄道、電信、競馬など横浜で生まれた日本最初のものは数々あるが、サーカスもそのひとつだったということはあまり知られていないように思える。
元治元年(1864)横浜の外国人居留地で中天竺舶来軽業と名乗る外国サーカス団が公演している。これが日本で初めてのサーカス興行となったのである。公演をプロデュースしたのはリズリー。「リズリーアクト」という、足で人間を蹴り上げ、回転させるという技をつくった伝説的な芸人でもある。リズリーは、横浜とは縁が深く、居留地を舞台に一攫千金を夢見て、牛乳、アイスクリーム、氷販売などさまざまな事業を興している。山師的なところもあったこの男は、浅草や両国の見世物小屋で活躍していた軽業師や曲芸師たちの卓越した技術に目をつけ、海外に連れていき一儲けをしようとした。「帝国日本芸人一座」を組織し、横浜から旅立ったのは慶応2年(1866)のことである。この時芸人たちは日本人として初めて海外旅券を交付されていた。
幕末からサーカス芸人たちは、次々に海を渡り、アジア、欧米、オーストラリア、南米、さらにはアフリカまで足を伸ばし、妙技を披露し、喝采を浴びていた。私はこうした海を渡ったサーカス芸人たちの足跡を追い続けている。海外のサーカスを呼ぶことを生業にしていることもあるのかもしれないが、淡々と身軽に国境を越え、しぶとく生きる、そんな庶民のバイタリティーに魅せられたのだと思う。
8月に出した『明治のサーカス芸人はなぜロシアに消えたのか』(祥伝社刊)は、こうした海を渡ったサーカス芸人の足跡を30年近く追ってきた、ひとつの区切りとなった本だ。ほとんど記録を残していない芸人たちの足跡を、わずかに残っていた小さな点を拾い上げ、それを線にすることができたのではないかと思っている。
この本にも登場する沢田豊は、当時ヨーロッパ最大のサーカス団であったサラザニサーカスのスターだった。明治35年(1902)日本を出てから日本に戻ることはなかったが、彼の息子マンフレッドが野毛大道芸ふぇすてぃばるの特別ゲストとして横浜の地を踏んでいる。取材のためドイツに行き、彼と会ったとき、父の故郷日本、そして横浜を見てから死にたいとぽつりと語ったことが忘れられず、知り合いの新聞記者に話したところ、大きな記事となった。この記事を見て、最初に電話をかけてきたのが、野毛大道芸(現ヨコハマ大道芸)のプロデューサー福田豊さんだった。「芸人さんの大先輩、ぜひ特別ゲストとして野毛で招待したい」と言ってくれたのだ。1991年マンフレッドは横浜にやって来た。特別ゲストとして、野毛の街を親戚たちと一緒に歩きながら、観客の声援に答えていた姿がいまでも目に焼きついている。やはり横浜はサーカスの街である。世界のサーカスの人々をこうしてつないでいったのだから。
(サーカスプロデューサー)