Web版 有鄰

530平成26年1月1日発行

山田洋次監督「小さいおうち」をめぐって – 1面

川本三郎

舞台は東京郊外の丘の上に建つ赤い屋根の文化住宅

東京に郊外住宅地が開けていったのは、関東大震災のあと、東京復興が行なわれていた昭和のはじめのこと。

関東大震災によって東京の市中が破壊されたあと、人口の西への移動が始まった。現在の杉並区や世田谷区、大田区や目黒区あたりの人口が急増した。

そこには、当時、生まれつつあった新しい中産階級が暮すようになった。今日でいうサラリーマン家庭である。


映画「小さいおうち」より
「女中」(黒木華・左)と「奥様」(松たか子)
(C)2014「小さいおうち」製作委員会

中島京子原作、山田洋次監督の「小さいおうち」(脚本は山田洋次と平松恵美子)は、この新しく開けてゆく郊外住宅地に暮す中産階級の家庭を、そこで働くタキという「女中」(黒木華)を通して描いている。

主人の平井(片岡孝太郎)とその妻、時子(松たか子)、それに小さな男の子の三人家族。現在でいう核家族である。従来の家父長的な大家族とは違う、夫婦を中心にした家族が、この時代に生まれて来ている。

郊外住宅地には和洋折衷のいわゆる文化住宅が数多く建てられ、そこが中産階級の小さな城になった。

「小さいおうち」では、丘の上に建つ赤い屋根の文化住宅がキー・イメージになっている。赤い屋根は当時としてはハイカラ、昭和モダニズムをあらわしている。

玄関のドアにはステンドグラスが入れられている。床はタイル。しゃれている。玄関の横に洋風の客間があり、ソファが置かれている。他方、家族が食事をする居間は、和室で、一家は、畳の上に座る。机は四角い卓袱台。洋間と和室が組合わされた典型的な和洋折衷住宅になっている。

昭和6年(1931年)に松竹で作られた日本最初のトーキー映画、五所平之助監督、田中絹代、渡辺篤主演の「マダムと女房」や、昭和九年の松竹作品、島津保次郎監督、大日方傳、逢初夢子主演の「隣の八重ちゃん」に描かれた郊外住宅地の文化住宅を思わせる。

松竹は、昭和初期、若い撮影所長の城戸四郎の下、旧来の新派調映画にかわって、台頭しつつある都市のサラリーマン層の哀歓を描く家庭劇、いわゆる小市民映画を作るようになった。「小市民」とはプチブルジョアの訳語で、資本家でも労働者でもない中間の階層をさしている。具体的には、第一次世界大戦のあと日本の工業社会化にともなって都市に大量に出現したホワイトカラー、和製英語でいう「サラリーマン」を中心にしている。

「マダムと女房」や「隣の八重ちゃん」、あるいは小津安二郎監督の「大人の見る絵本生れてはみたけれど」(昭和7年)などは松竹が始めた小市民映画である(これがのちのテレビのホームドラマにつながってゆく)

戦前の昭和、小市民の平穏な暮らしぶりを女中の目で回想

山田洋次監督の「小さいおうち」はこの松竹小市民映画の伝統を受継いでいる。


『小さいおうち』 文春文庫

平井家という小市民の一家が住む家がある場所は、原作ではただ私鉄沿線としてしか書かれていないが、映画では現在の大田区、池上線の沿線とされている。「マダムと女房」や「隣の八重ちゃん」の舞台に近い。

黒木華演じるタキという「女中」は、山形県の田舎から東京に働きに出て来た。気立てのいい働き者で、一家のなかで働くことを誇りにしている。

この時代、中産階級の家庭では「女中」を置くのは普通のことだった。女性史の研究者、奥田暁子の「女中の歴史」(『女と男の時空【日本女性史再考】⑩ 鬩ぎ合う女と男-近代【下】』所収)によれば、女性の職業が限られていた時代には「女中」になる女性は多く、昭和15年までは年間5、60万人の女性が「女中」として働いた。大正から昭和初期にかけての女子有職者の数は千万人前後だったというから約6パーセントにあたる。

「女中」は行儀見習いの面もあり、学歴は意外に高く、女学校を卒業した者も多かった。タキは小学校卒だが、頭はよく、気転もきく。


©2014「小さいおうち」製作委員会

「小さいおうち」は、現在、年取ったタキ(倍賞千恵子)が、戦前のことを回想するという形をとっている。彼女は孫の世代の若者(妻夫木聡)に向けて回想記を書くのだが、文章はしっかりしている。小学校卒とはいえ勉強好きだったことがうかがえる。

平井家の主人は、玩具の会社で要職に就いている。玩具の会社、というのが、戦争前の平和な良き時代をあらわしている。

一般に、昭和戦前は、軍国主義、戦争の暗い時代と語られることが多い。しかし、東京の小市民の暮しには、日中戦争が深刻化するまで平穏なゆとりがあった。

デパートや遊園地へのおでかけ、映画や芝居、ラジオ放送、コンサートなど小市民は、日々の暮しを楽しんだ。

昭和8年生まれのエッセイスト、本間千枝子は回想記『父のいる食卓』のなかで、昭和初期、東京には「落ち着いた市民の暮らし」「好もしき文化」があったとし、それを「戦前の昭和・束の間の充実」と呼んでいる。

昭和の東京を撮り続けた写真家、桑原甲子雄(大正2年生まれ)も、昭和12年頃までを「いちばんいい時代」と語っている。「昭和の50年間を通じても、あの頃は物もあったし、人口は少なくて公害はないし、都市としてはいちばん住みいい時代でしたね」(戸板康二との対談、『夢の町桑原甲子雄東京写真集』)。

「小さいおうち」の前半は、この「戦前の昭和・束の間の充実」「いちばんいい時代」を描いている。

平井家には、小市民の暮しのゆとりがある。主人の勤める玩具会社は景気がいい。アメリカに視察に行ってきた社長(ラサール石井)が遊びに来て工場拡張を語る。子供が小児マヒになってしまうが、タキが献身的に看病する。子供が大事にされている。

タキは美しい時子のことを敬愛している。子供にはなつかれている。タキは平井家で働いていることを幸せと思っている。

関東大震災は東京に大きな打撃を与えたが、復興は意外に早く、昭和5年には帝都復興祭が行なわれる。昭和7年には東京市の市区大改正が行なわれ、現在の杉並区や世田谷区が誕生する。東京は着実に西へ発展した。

そんな「いちばんいい時代」に少しずつかげりが見えてくる。昭和12年に始まった日中戦争は終わるきざしを見せない。アメリカとの緊張が高まってゆく。戦時色が強まってゆく。

そんな頃、事件が起きる。平井家に、主人の下で働く、板倉という芸術家肌の青年(吉岡秀隆)が遊びに来る。好青年で、そのあと、親しく訪れるようになる。

そして、ある時、タキは気がつく。

時子がどうも若い板倉のことを好きらしいことに。板倉のほうも時子に惹かれているようだ。

この時代、姦通罪という刑罰があった。有夫の女性が、夫以外の男性と関係を持ったら罰せられる。

しかも、世間の目というものがある。噂になっただけで大変なことになる。

タキは動揺する。どうしたらいいのか。時子を慕い、時子の恋愛を見守りたい気持と、平井家の平和を保つために、時子をそれとなく諌めたいという気持に引き裂かれてゆく。

映画では詳しく描かれていないが、原作では、時子は子供を連れて平井と再婚したことになっている。さらにタキの目から見て平井は「男の人の匂いがしなかった」。とすれば時子が板倉に惹かれたのは無理からぬところもある。タキの悩みは深まってゆく。

「束の間」の時代への静かな思い、ノスタルジーが

本間千枝子が「戦前の昭和・束の間の充実」と呼んだように、「いちばんいい時代」は「束の間」だった。

日米開戦、戦局の悪化、空襲、そして敗戦。戦時中、山形の実家に戻っていたタキが、戦後、東京に戻ってみると、あの丘の上に建つ赤い屋根の家は、空襲で焼かれている。そして、平井夫婦が空襲で亡くなったことを知る。さらに出征した板倉の行方は分からなくなっている。戦争が何もかも奪ってしまった。

そしてタキは、平成の世まで生きのびる。平井家で「女中」として働いた日々のことを幸せな思い出としながら。「奥様」にしたことに後悔の念を抱きながら。

この映画には、「戦前の昭和・束の間の充実」への静かな思い、ノスタルジーがある。妻夫木聡演じる現代の若者、つまり、その後の歴史を知っている人間からは「あの時代は、決していい時代ではなかった」と批判されながらも、あの時代を生きてきたタキには、丘の上の小さな家で過ごした日々のことが、かけがえのないものに思える。

戦争の時代、戦後の混乱期を生き抜いてきた女性にとっては、その良き時代の思い出だけが、生きる支えになったのではないか。たとえ思い出のなかに苦しさはあっても。ノスタルジーとは、自分のささやかな過去を生きる支えにすることなのだろう。

川本さん・写真
川本三郎 (かわもと さぶろう)

1944年東京生まれ。
評論家。著書『君のいない食卓』新潮社 1,400円+税、『小説を、映画を、鉄道が走る』集英社 1,900円+税、『映画は呼んでいる』キネマ旬報社 2,000円+税、ほか多数。

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