Web版 有鄰

531平成26年3月4日発行

なぎさについて – 1面

山本文緒

久里浜を舞台にした15年ぶりの長編小説

昨年、5年ぶりに新刊小説『なぎさ』を上梓した。

帯に「15年ぶりの長編小説」と謳って頂いたせいか、長期に及ぶ休業からの復帰作、15年ぶりの本、というふうに受け取った方が多かったようだ。

正確には吉川英治文学新人賞を頂いた『恋愛中毒』という長編小説から数えて15年であって、その後には『落花流水』や直木賞を頂いた『プラナリア』も書いている。そのあと体調を崩して仕事を数年休んでいたが、2008年に復帰作として『アカペラ』という中編集を出版して頂いた。なので自分ではそこまで長く休んでいたという意識がなかったのだが、今回『なぎさ』を上梓すると、驚くほど多くの方から「復帰本当におめでとう」「よくぞ帰ってきてくれました」と温かい言葉を頂いて、非常に面映ゆく嬉しい思いをした。

確かに『アカペラ』以降、他の方との共著やアンソロジーは出していても、小説の単行本を出すのに5年も間があいてしまった。今の日本の文芸界で、5年も小説を出さないというのは普通ではないことなのだと改めて実感した出来事だった。

その15年ぶりの長編の舞台は、横須賀市の久里浜である。

小説を書くための取材で久里浜を訪れたのが2009年の夏だった。そして書き終えたのが2013年の2月だったので、脱稿までに3年半かかっている。大まかなプロットを作った期間と、書き終えてからの推敲の時間を足すとやはり全部で5年くらいはかかった計算になる。一年に1本は長編を書く作家さんも多いので私は本当に筆が遅いのだと思う。

久しぶりに長編小説を書くにあたって私は最初から最後までとても緊張していた。もしかしたら長編を書くのは最後かもしれないと思ったからだ。これを書き終えたら筆を折る、というふうに考えていたわけではなくて、この小説を書き終わった後、再び長くて密度の濃い、集中力の継続を必要とする作品を書ける気がしなかったのだ。

だから、今回の長編は今まで後回しにしていたものを書いておこうと強く思った。

それまで後回しにしていたこととは、舞台を生まれ育った土地に設定することと、いつか年齢がいったら書こうと思っていた古いアイディアを使うことだった。

初めて好きな町を意識して描写した

私は横浜市南区で生まれ育った。25歳で実家を出るまで、ずっと南区に住んでいた。その後は結婚して川崎市に住み、32歳の時に東京へ移り住んだ。それから何度か引っ越しをしたが、もうずっと神奈川県以外の場所で暮らしている。

小説の舞台を決める時、私はわりとピンポイントでそれがどこであるかを想定するのだが、作中で地名を明らかにすることはほとんどしてこなかった。

神奈川県内の土地を舞台にしたことは何度かあった。たとえば『群青の夜の羽毛布』は通っていた高校が坂の上にあり、その急坂をイメージして書いたし、『アカペラ』で主人公の女の子が海水浴にゆくのは三浦半島の水戸浜だ。

どうして明確に地名を出さなかったかというと、小説というのは観光案内とは違うのでネガティブなことも書くし、考えすぎかもしれないがそこに住んでいる方が気を悪くされるのではないかという危惧からだった。それに必ずしもその土地でなければいけないという必然性もなかったので、読み手の方の想像にお任せしようと地名をぼかしてきた。だがネガティブなことも書くと言っても、舞台にするというのはその土地のことをとても好ましいと思っているから設定するのである。特に長編の場合、長期に渡ってその土地のことを考えなくてはならないので興味のない土地のことを書こうとは思わない。そのことをちゃんと伝えられる自信が今まで持てなかった。

『なぎさ』では初めて久里浜という地名を明記することにした。そして私の目に映った久里浜の町を意識して細かく描写した。久里浜だけではなく、自分が子供の頃から親しんできた京浜急行沿いの雰囲気が出るように気を配った。

これが最後の長編になるかもしれない、そして書きあげるのにとても時間がかかるかもしれないというふたつの理由で選んだ土地が久里浜だった。


久里浜港から房総の金谷に渡るフェリー

ご存知の方も多いと思うが、横須賀市の久里浜はそれほど華やかな観光地ではない。くりはま花の国やペリー公園、房総に渡るフェリーも出ているが基本的には普通の住宅が立ち並ぶ町である。

私は10代の頃から何故か久里浜が好きで、友人を誘ってよくフェリーに乗りに行った。自宅から日帰りで行くことができるのに、金谷港と往復するだけで充実した旅気分が味わえたからだ。日常的に暮らしている場所から、ひょいと非日常の船という乗り物に乗って、対岸へ渡ることができる。その感覚に魅了された。自力で実家以外の場所へ移り住めるようになるまで、なかなか簡単に非日常の世界に浸ることができなかったからかもしれない。とても好きな久里浜という町を、曖昧にぼかさずに書いてみたいと思ったのだ。

渚で一歩踏み出す人の姿を描いた『なぎさ』

『なぎさ』は、海のない長野県で生まれ育った夫婦が、ある事情で久里浜に移り住み、そこで根を下ろすかどうか試行錯誤する物語だ。


KADOKAWA:刊

この物語の漠然としたアイディアは、実はかなり昔からノートに書きとめてあった。そもそもの始まりは、アン・タイラー著の『歳月のはしご』という本だった。

『歳月のはしご』は、心が満たされない中年女性が、ある日はっきりとした理由もなく家出をする物語である。私はこの作品をとてものめりこんで読んだ。普通の人達の居場所探しと日常生活の中の鈍痛は、この仕事を始めた時から自分のテーマでもあったからだ。

主人公の主婦は家族から疎まれていると感じ、不自由のない日常生活を送りながらもだんだんと鬱屈を深めてゆく。そして家族で海水浴に出かけたとき、そのまま衝動的に家出をしてしまうのだ。初めての町に降り立つと、何とか住むところを確保し、自力で新しい生活をはじめ、人間関係の輪を作りあげてゆく。こんな優柔不断で何もできないおばさんが、見知らぬ土地で一から生活を築くことができるわけがないと最初読み手は思うのだが、人の親切に助けられながら徐々に自活してゆく課程がとても綿密に綴られており、後半この主婦を心から応援したくなる。とても厚い本で、あやふやだった彼女の輪郭がくっきりと強い線を持つまで相当なページをめくることになるのだが、心理描写がきめ細かく素晴らしいので長さを感じさせない。

なのに、そのお話の最後で私は衝撃を受けた。夫に見つけられた彼女は、まるで何事もなかったかのように一旦捨てた家庭に戻ってゆくのだ。そこに大した葛藤は書きこまれておらず、家出をする前の日常生活に戻って、やっぱり家族が大切だと実感するという結末だった。

私ならこうは書かないとその時強く思った。家族が大切なのは分かるが、自分で選んで築き上げた人間関係を捨てるにはとても大きな痛みが伴うはずだし、できれば捨ててほしくなかった。私はその時駆け出しの作家だったが、いつか私なりにそうでない物語を書こうと思ったのだ。

『歳月のはしご』でも主人公が家を出る決心をするのは海辺である。私も渚で一歩踏み出す人の姿を書きたいと思った。それが『なぎさ』の始まりだった。

私は何故だか最果てと呼ばれる場所が好きなのだが、海辺というのはとても分かりやすい最果てであると常々思っていて、久里浜の町で初めて海を見た時に、なんという日常のすぐ近くにある最果てなのだろうと思ったのだ。住宅街をただ歩いていると急に小さな湾が現れて、そこからフェリーが出ていて異世界へ渡ることができるのだ。

波打ち際というのは陸でも海でもない、地図には書けない唯一の場所だ。

ただ歩いていたらいつの間にか波打ち際まできてしまった人が、引く波に足を取られる姿を私は書きたかった。渚はそのまま入水するか後戻りするかの瀬戸際である。瀬戸際という単語を調べたら、両側の陸地が接近して海が狭くなっている所という意味もあるようだ。そうなると益々久里浜はこの物語にぴったりな場所だった。

もしかしたらこれが最後の長編になるかもしれないという思いで完成させた『なぎさ』だったが、書き残したものがないわけではなかった。生まれ育った土地を書きたいと思ったのに、久里浜は横須賀市である。横浜市のことはほとんど書いていなかった。

普通の人達を書くということはデビューした時から一貫してやってきたことだけれど、何が普通かというのかは刻一刻と変わっている。普通に平凡に生きているだけでいつの間にか瀬戸際に追い込まれる現代の人達の様子を、まだまだ私は書いていきたいような気がしている。

山本さん・写真
山本文緒 (やまもと ふみお)

1962年横浜市生まれ。作家。
著書『恋愛中毒』角川文庫 629円+税、『落花流水』集英社文庫 476円+税、『プラナリア』文春文庫 486円+税、『アカペラ』新潮文庫 520円+税、『群青の夜の羽毛布』角川文庫 552円+税、ほか多数。

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