Web版 有鄰

533平成26年7月10日発行

鶴見川にみる都市流域の治水戦略 – 1面

岸 由二

行政区分を超えた流域思考による連携で氾濫のない川へ

鶴見川と聞いて連想されるのは、汚染、ごみ、それとも洪水でしょうか。高齢の皆さんは洪水の記憶が強烈かもしれませんね。その洪水の危機をめぐる鶴見川の治水対策の状況が、いま転換期をむかえいます。横浜市をつらぬく唯一の一級河川、鶴見川の治水を巡る危機と対応の歴史、そして気候変動時代への新たな挑戦をご紹介します。

バクの形をした鶴見川流域と鶴見川水系図(下)
バクの形をした鶴見川流域と鶴見川水系図(下)

鶴見川は町田市の多摩丘陵を源流として、町田、川崎、横浜市をつらぬき、途中、何本かの支川を合流させ、横浜市鶴見区生麦で東京湾にそそぐ一級河川です。本流・支流で構成される鶴見川水系に雨の水の集まる<バクの形をした>その流域は、多摩田園都市、港北ニュータウンなどの大規模住宅地、鶴川、玉川学園、長津田、市が尾、新横浜、日吉、綱島、鶴見などの拠点都市、さらに河口の工業地帯をふくみ、人口にまるまる200万人に近く、典型的な都市流域の姿です。

その流域は50年ほど前まで緑深い田園地帯でした。一部の古い街を除き、流域の85%が農業地帯だったのです。しかし戦後復興に続く高度成長時代、ベッドタウン開発の波が到来。緑の急減で流域の保水力は一気に低下し、河川・下水道整備も追いつかず、下流は大氾濫に見舞われるようになりました。1958年の狩野川台風による水没は2万2千軒。1966年の梅雨台風では1万2千軒が水没。大水害は1982年まで続きました。私の故郷・鶴見区向井町は、1966年の水害時、全域が床上浸水となり、1か月の長きにわたって汚物と異臭の世界に変貌したものでした。

この時代の治水は多難でした。洪水・氾濫を発生する大地は<流域>という地形なのですが、行政はその地形を人為的に分断した行政区で実施されるのが常識。鶴見川流域の場合、洪水を起こすバクの形の流域を、東京都と神奈川県が分割し、東京都はさらに町田市と稲城市の一部がその区分にかかわり、神奈川県は川崎市と横浜市が分割してさらに区に区分し、それぞれ独自の利用管理をすすめていました。これらの行政の諸事業を治水の必要で統合・連携させるのは、自治体では到底不可能なことでした。

難題に取り組んだのは建設省でした。開発で大水害の危機はさらに深まると判断した同省河川局は、1977年の第三次全国総合開発計画と連動させる形で行政区を超えた流域連携による「総合治水対策」を提案。1980年、鶴見川を全国初の適用河川としたのです。この枠の下、浚渫を含む河川の大改修、貯水量390万㎥の鶴見川多目的遊水地の建設、大規模な雨水地下貯留施設などの河川・下水道対策に加え、流域各地における大規模緑地(=保水地域)の保全や、増水した川の流れを一時滞留させる遊水機能を発揮する河川沿いの水田地帯の維持支援、流域に散在する4400か所をこえる雨水貯留施設(全体貯水量300万㎥)の設置など、多様な施策が流域対策として実施される計画となったものです。

対策は目に見える成果をあげました。1982年を最後に大規模な氾濫はとまっています。現在の鶴見川流域は10年に一度程度の豪雨(2日間の流域平均雨量250㎜程度)でも下流部で大氾濫のない治水安全度を達成したといってよい状況。50年、100年に一度の規模の豪雨への対応はまだまだですが、洪水の川・鶴見川は、治水対策一安心という状況となりました。

地球温暖化による新たな危機に対する取り組みを

1990年以降、鶴見川の総合治水はアメニティー(快適さ)や緑や文化にも配慮する展開となりました。

この新展開は、1991年、流域規模の連携で総合治水対策を応援する市民活動である、鶴見川流域ネットワーキング(TRネット)の形成を誘発し、その後、河川管理者と流域市民活動の現在にいたる連携を生み出すことになったのです。自治体の枠をこえて総合治水の啓発や実践を応援するばかりでなく、子どもたちの学習支援をとおして次世代の流域文化育成もすすめ、さらには流域視野のアメニティー、自然環境保全の活動も促すTRネットの連携活動は、1996~2001年には環境省主催による「生物多様性モデル地域計画(鶴見川流域)」の受け皿ともなりました。そして2004年夏、一連の成果を総括するかたちで、総合治水対策を多自然・多機能化する流域統合計画として国土交通省関東地方整備局と鶴見川関連自治体の長が誓約し、「鶴見川流域水マスタープラン」(水マス)がスタートしました。総合治水対策を下敷きとし、
①豪雨に対応する治水対策(総合治水)②平常時の河川の水質・水量などの管理 ③自然環境の保全回復 ④地震災害への対応 ⑤水辺ふれあい活動の応援を通した河川・流域文化の育成を5本の柱として推進される、さらに統合的な流域管理計画です。

そしていま、総合治水・水マスを通してしばしの一安心を享受してきた鶴見川流域は、新たな危機に挑戦する新時代を迎えています。

新しい危機の一つは近年増加が顕著な局所的集中豪雨による氾濫被害です。1時間100㎜規模の豪雨が襲うと、下水排水が追いつかず町が水没(内水氾濫)したり、中小の支流が氾濫したり、斜面地では局所的な土砂災害を招く事態となるのです。

さらに大きな危機は豪雨・海面上昇時代の到来です。本年3月末、横浜においてIPCC(気候変動に関する政府間パネル)第五次報告にむけたワーキングⅡの国際会議が開催されたことは記憶に新しいところです。会議は、地球温暖化で、モンスーンアジアでも豪雨、高潮、海面上昇の危機が進行すると予測し、これらに対応するための温暖化適応策を討議しました。総合治水・水マスタープランの鶴見川流域は、アジアモンスーンの典型的都市河川流域として、いよいよ文明的な課題に直面しているといってもよいのです。

そんな今年、水マスタープランは10周年を迎え、見直しが始まっています。責任機関は、水マスタープランを推進する関連自治体と国土交通省が構成する行政連携機関である「鶴見川流域水協議会」。これを学識者の「流域水委員会」が専門的に補佐し、流域市民と自治体職員で構成される「流域水懇談会」が意見提供の方式でサポートし、10年の成果の見直しと新しい方向が示されてゆきます。評価、集約の作業が順調にすすめば、IPCC第五次全体報告をうけて温暖化論議が世界的に高まるこの秋、鶴見川流域における次の時代の治水対策・減災対策の展開にむけ、次期水マスへの本格的なとりまとめ作業が始まるはず。

見直しのポイントは、総合治水34年の歴史に刻まれた流域連携の基本を行政、市民、企業が再確認し、実践・連携に生かして行くことと思われます。特に重要なのは<保水>、<遊水>、<減災>という概念の再確認でしょう。総合治水の流域計画において鶴見川の流域は、中・上・源流の丘陵域を保水地域、下流域を低地地域、そして川沿いの農地を大きく遊水地域と3区分されました。これは、丘陵地は森も田畑も公園も街区の緑も雨水貯留地も挙げて流域への保水貢献を重視し、沿川の田園地帯は遊水地としての貢献を再確認し、下流低地地域は洪水緩和への公共の貢献・流域の支援を期待しつつ、同時に温暖化豪雨・海面上昇を覚悟した減災への自助・共助の文化を育ててゆこうという流域暮らしのモラルとも読みとれるものです。流域の都合を重視して行政連携をすすめる鶴見川の流域思考は、このモラルのもと、さらにさらに洗練されてゆかなければなりません。

アジアの都市河川流域治水の未来へ

昨年、私は、横浜市の依頼で二度、フィリピン・パナイ島を訪問し、洪水多発地帯の街の減災活動の支援を経験しました。都市化の波の中で河川整備も下水道整備もすすまないまま、汚染激しい川辺で日々洪水の危機にさらされる市民の暮らしは、50年前、故郷の鶴見の下町で私が経験したものと、うり二つでした。

そんなアジアの諸国から、治水事業の研修等で訪問者のふえる施設が、鶴見川多目的遊水地脇にあるのをご存知でしょうか。JR小机駅から徒歩8分。雨観測のレーダー鉄塔のある国土交通省鶴見川流域センター。ここは鶴見川の災害や自然、総合治水や水マスタープランを学べる総合的な研修施設として、火曜日を除くほぼ全日、一般開放される情報センターです。土曜・日曜にはたくさんの子どもたちも訪れ、広報員から水害や治水の歴史をまなび、ボランティア運営の水族館で水質改善なった鶴見川に遡上した若アユたちの遊泳なども存分に楽しみ、流域総合治水・水マスタープランの世界に浸ることができるのです。

鶴見川下流の水害地帯で育った私の希望は、鶴見川の治水の歴史と未来を象徴するこの施設が、温暖化豪雨に苦しむアジアの市民や子どもたちともつながり、アジアモンスーンの都市河川流域を支援してゆく国際的な情報交流センターに育ってゆくこと。国や地元自治体や企業や市民が志を連携すれば、きっとそんな未来もあるような気がするのです。

岸さん・写真
岸由二 (きし ゆうじ)

1947年東京生まれ。
慶應義塾大学名誉教授。NPO法人鶴見川流域ネットワーキング代表理事。
著書『「流域地図」の作り方』ちくまプリマ―新書 740円+税ほか。

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