Web版 有鄰

536平成27年1月1日発行

神奈川の大地 1億年の歴史をたどる – 2面

藤岡換太郎

神奈川の大地の生い立ち

恐竜が地球上を闊歩していた白亜紀後期、今から7000万年前頃の日本列島はアジア大陸の縁にあり、海溝から沈み込むイザナギプレートが付加体を作っていました。神奈川県の北部に位置する小仏山地の周辺にはその頃の付加体であった小仏層群が分布しています。

付加体とは、海洋プレートが海溝から地球の内部に沈み込む際に、海洋プレート上の堆積物が沈み込まずに剥ぎ取られて陸側に押しつけられたもののことをいいます。その付加体は白亜紀から古第三紀にかけて、小仏層群の南側に次々と形成されてきました。その後、イザナギプレートは海溝に沈み込んで消滅し、新たに太平洋プレートが沈み込みを始め、さらに新しい時代の付加体を作りました。

今から2000万年前頃から日本列島が分裂を始めて日本海が形成され、1500万年前頃までに日本列島は現在の位置にまで移動してきました。一方、神奈川の南に続くフィリピン海プレートの一部を形成する伊豆・小笠原弧が古い南海トラフに沈み込みを始め、伊豆・小笠原弧の地殻の一部が本州に衝突し、諏訪湖より南の地域に寄せ集まりました。櫛形山や巨摩山地、さらに丹沢山地などです。約100万年前には、現在の伊豆半島となる古伊豆島が本州に衝突しました。駿河湾と相模湾は、この衝突によって一続きの海溝であったものが別々の湾になってしまいました。

その後、富士火山や箱根火山の噴火による火山灰や溶岩が大地をおおうようになり、ついに現在の神奈川の大地が形成されました。

このように、神奈川の大地の生い立ちを知るためには、単に神奈川県内の地質がわかればいいというものではありません。もっと広い地域の地形や地質の変遷を読み取ることが必要なのです。それらについて、もう少し詳しくみていくことにします。

日本海の形成と拡大

日本海は、アジア大陸と日本列島との間にある縁辺海です。明治以降、多くの人たちが日本海はその海底が大きく陥没してできたと考えてきました。一方、物理学者の寺田寅彦は、日本海が大陸移動で説明できることを初めて提唱しました。大陸移動説は、1912年にドイツの気象学者アルフレッド・ウェゲナーによって提唱された考えです。ウェゲナーは多くの人に反対されながらグリーンランドの調査で1930年に亡くなりましたが、寺田の発表はそれから4年後のことでした。

日本海が陥没でできたとする考えであれば、日本列島は昔から今の場所にあったことになりますが、大陸移動の考えでは日本列島は日本海ができる前には大陸の縁にあったことになります。大陸移動説は、その後、海洋底拡大説からプレートテクトニクス説へと発展しました。日本海の成り立ちについて、現在では多くの地球科学者がプレートテクトニクスの立場を唱えています。

京都大学の研究グループは1985年に古地磁気の研究により日本海が短い間に拡大したことを提唱しました。古地磁気とは、岩石に残されている過去の磁気的な性質のことです。日本列島の陸上にある岩石を調査したところ、東北日本列島と西南日本列島では異なった磁気の方向が確認されました。しかも岩石の年代測定を行うと、今から1500万年前頃を境に岩石に残されている磁気の方向が劇的に変化したことが分かりました。

そのことから、今から2000万年前頃にアジア大陸の東の端に大きな地割れができ、その後、現在の東北日本列島は反時計回りに、西南日本列島は時計回りに回転し、その空いた隙間に日本海ができ、日本列島は現在の位置にまできたというわけです。

日本海の成因に関しては他にもさまざまな考え方があります。1973年と1990年には日本海で国際深海掘削計画による深海掘削が行われ、堆積物や岩石が採集され、その地層の積み重なり方や年代などが明らかになってきました。しかし、日本海の形成に関する決定的な試料は得られませんでした。

日本海が海洋底の拡大によってできたとすると、一番底にある基盤岩は海洋底を作る玄武岩溶岩でなければならないのですが、得られた玄武岩は岩床(シル)といって、堆積物がたまった後にその堆積物中に貫入したものでした。従って、日本海のできた年代を表わすものではなく、日本海がいつ拡大を始めたかに関する正確な年代は得られませんでした。

フォッサマグナの形成

フォッサマグナとは、大きな低地あるいは凹地という意味のラテン語です。明治の初めに来日したドイツ人地質学者エドモント・ナウマンは、弱冠23歳で東京大学地質学教室の初代教授になりました。ナウマンは日本の地質を理解するために、日本中の地質旅行をしました。最初の旅行の折に、八ヶ岳の麓の小さな峠付近から南アルプスを眺めて呆然としたようです。甲府盆地の低地からいきなり3000メートル級の山々がそびえたっているのです。ナウマンは日本列島の中央を南北に走るこの低地を「フォッサマグナ(大きな低地)」と名付けました。

日本列島周辺の地質構造図 『日本海の拡大と伊豆弧の衝突』から
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日本列島周辺の地質構造図
『日本海の拡大と伊豆弧の衝突』から 作成/高橋雅紀

西南日本から関東山地へとつながる帯状の構造や古い地層が、フォッサマグナを境に東へは連続しません。どうしてこのような大きな低地ができたのかに関しては、ナウマン以来、さまざまな研究が行われてきましたが、いまだに定説はありません。

フォッサマグナができた当時の海は、深さ6000メートルもある凹地でした。フォッサマグナの東西両側、少なくとも西側は糸魚川―静岡構造線によって区切られた凹地で、その海底を1500万年前より新しい堆積物が急速に埋めていきました。現在は、その上に八ヶ岳や富士山、箱根など第四紀の火山が重なっています。

新潟県糸魚川市にあるフォッサマグナミュージアムには、ナウマンの研究やフォッサマグナに分布する地層や岩石、鉱物、化石が展示されています。フォッサマグナの北部に位置する糸魚川市は、雄大かつ貴重な地形と地質が見られることから世界ジオパークに指定されています。

伊豆・小笠原弧の衝突

神奈川県の南には広大なフィリピン海が広がっています。フィリピン海の海底は一つの海洋プレートを形成していて、真ん中を通る九州―パラオ海嶺によって東側の四国海盆(北側)・パレスベラ海盆(南側)と西側の西フィリピン海盆に分かれます。

今から5000万年ほど前に西フィリピン海盆が南北に拡大し、2500万年前頃から1500万年前頃に四国海盆やパレスベラ海盆が東西に拡大したことが、地磁気の研究や深海掘削の結果からわかっています。四国海盆の拡大が終わった1500万年前頃からフィリピン海プレートの運動の方向が北向きへと変わって日本列島の下に沈み込みを始め、その結果、伊豆・小笠原弧の島々が次々と南部フォッサマグナ地域へ衝突し、丹沢山地や伊豆半島が付加していきました。

このたび、筆者と神奈川県立生命の星・地球博物館の平田大二さんの共編著で『日本海の拡大と伊豆弧の衝突―神奈川の大地の生い立ち』を有隣堂から上梓しました。神奈川の大地の姿を理解するためには、このような広い地域の成り立ちを理解する必要があるという考えに基づき、日本海から、日本列島の真ん中を南北に走る大きな低地であるフォッサマグナを経て、神奈川県とその南に位置するフィリピン海に至る広大な地域の地質や構造発達史を、7人の専門家で執筆しました。

神奈川の大地の生い立ちを知るには、神奈川県をとりまく広い地域の、そして長い年月にわたる地形や地質の変遷を読み取ることが必要であるということが、この本でお分かりいただけると思います。

藤岡換太郎  (ふじおか かんたろう)

1946年京都市生まれ。神奈川大学非常勤講師。元海洋研究開発機構特任上席研究員。理学博士。
著書『川はどうしてできるのか』 860円+税、講談社ブルーバックス、ほか。

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