別れの言葉もなく去った立花涼子が生きていると知った楢崎透は、新米探偵の小林に調査を依頼した。〈会わない方がいい〉と言う小林の警告をよそに、楢崎は涼子の消息を追うことにする。
まず訪ねたのは、涼子が所属していた宗教団体だ。教祖は松尾正太郎という、アマチュア思索家を名乗っていた男で、祀る神も信者の概念もない、そもそも《神はいるのか?》を問うような、ゆるい団体だった。涼子の姿はすでになく、別の宗教団体にいるらしい。高学歴の人々を松尾正太郎のもとから引き抜き、巧妙に姿を消した「教団X」とは?袋小路に迷い込むように、楢崎、涼子らの運命が絡まりあっていく。
1995年3月の「地下鉄サリン事件」から20年。高校生のときに起きた、一連のオウム真理教事件に衝撃を受けた著者が、人間とは、神とは何かという根源的な問いと、デビュー以来、追求してきた「悪」の問題とを掘り下げて、スリリングな物語に結実させた大作である。紛争と貧困が引き続く世界状況において、パンドラの箱の底に残る希望を探る。2009年刊行の『掏摸〈スリ〉』が翻訳され、米紙「ウォール・ストリート・ジャーナル」年間ベスト10小説に選ばれるなど、世界的な注目を集める著者による、圧巻の最新作。
2014年2月、静岡県熱海市で60代後半の自営業Sさんの遺体が見つかり、婚約者で35歳の元スナック従業員、佐竹純子が殺人容疑で逮捕された。ほかの男性とも婚約し、かかわった男性が次々と不審死を遂げていた「伊豆連続不審死事件」の容疑者、佐竹純子の容姿が明らかになると、世間は騒然となった。男たちを手玉にとる美貌の悪女のイメージとかけ離れた、”残念な容姿”だったからだ。高級品を身につけ、貴婦人のように振る舞う佐竹純子は関心を集め、中学時代の同級生、篠田淳子のもとに、田辺絢子という女性がやってくる。売れっ子ジャーナリスト・久保田芽衣のアシスタントを務める彼女の名も「ジュンコ」だった……。
“稀代の毒婦”の腹心の友だった女、ジャーナリストの助手、諄子という名の母の事故死で決壊した資産家一族……など、「ジュンコ」という名前を符号にして、予測のつかない展開へとリンクしていく連鎖ミステリー。とある女性名を機縁に、さまざまな場所で、さまざまに生きている人々の心理に潜む、犯罪の萌芽をみつめる。どれほど外見を取り繕っても、内に潜む悪意は連鎖する。これでもかと描写される、悪意のグロテスクさが凄まじい。先が気になって引き込まれる。怖くて面白い快作である。
『火桜が根――幕末女志士多勢子』
中央公論新社:刊
信州南部に位置し、天竜川に沿ってのびる盆地に田畑が開かれた伊那谷。肥沃な場所には皇族の荘園や上皇の寺院領が広がり、土地の人々は尊皇の魂を抱いていた。歌人で国学者の岩崎長世が説く古道学平田派の教えは、国情を案じる人々に影響を与える。19歳で嫁ぎ、田畑を耕して10人の子を産み、主婦の座を嫁に渡して”女隠居”になっていた松尾多勢子も、歌会での議論に感化され、勤皇活動に身を投じる決意を固める。すでに52歳。余生を無難に送るより、したいことをして生きたかった。
夫の理解を得て、単身、京に赴いた多勢子は、公家の歌会に出入りして情報収集にいそしむ。同じく古道学を学んだ絵師の藤本鉄石、角田忠行、美丈夫の長尾郁三郎らと交流し、岩倉具視にも女勤皇家として認められる。そして郷里に戻り、追われる志士たちをかくまうのだった。
幕末動乱期、老境の女性の身で一念発起し、武家出身の若い志士たちと並ぶ活躍をしてみせた女傑、松尾多勢子の生涯を描く。西洋史を題材にした著作で知られ、近年は日本の群像を続々と描いている著者の、幕末シリーズ最新作。
“暴れ天竜”のように既定の枠に埋もれず、女隠居という持ち味をフルに生かして生き抜いた、多勢子の快活な勇気に励まされる。
1922年、米ニューヨークに生まれたドナルド・キーン氏は、学業優秀で飛び級をし、名門コロンビア大学に16歳で入学した。必修科目のひとつ「世界の古典」の授業で文学の面白さと教師の熱意を学び、中国人の友人ができて中国語の勉強を始める。太平洋戦争勃発により、米海軍日本語学校に入学。1942年2月から、わずか11ヵ月の勉強で飛躍的に修得した日本語が、人生を決定づける、運命的な存在になった――。
海軍日本語学校でキーン氏が学んだ教科書、長沼直兄『標準日本語讀本』が2011年、東京外国語大学図書館に寄贈されたことを機縁に、日本語と日本文学と教育について、キーン氏本人に取材した内容をまとめたのが本書。日本語学校入学の経緯と思い出、漢字と音の面白さなどの話を、キーン氏独特の温かなユーモアとともに聞きだしている。また、コロンビア大学での最終講義を受講した孫世偉さん(台湾)ら教え子にも取材し、日本文学に対する師弟の考えを紹介する。
ドナルド・キーン氏の人生は、スペイン内戦と太平洋戦争に大きな影響を受けている。どのような状況下でも常に学び、フェアな姿勢を貫いて学問の成果を伝えていく。研究者の真摯さに触れ、日本語について改めて見直すことができるインタビュー集。
(C・A)