Web版 有鄰

537平成27年3月10日発行

激動の時代の中での幕府軍艦 – 2面

西川武臣

ヴィクトリア女王が将軍に献上した蟠竜丸

有隣堂出版部から浦賀奉行所に関する本(有隣新書『浦賀奉行所』)を執筆して欲しいと頼まれたのは一昨年5月のことで、その後、私は奉行だけでなく与力や同心、奉行所の支配地の住民に関する古記録を読み進めた。そうした古記録と奉行所の人々の活躍については新書で詳しく紹介したが、その過程で浦賀奉行所に関わった人々だけでなく、与力や同心らが乗船した幕府海軍の艦船についても多くの記録が残されていることを知った。新書ではこうした軍艦の動向についても簡単に触れたが、紙数の制約もあり必ずしも充分な紹介はできなかった。そこで、ここでは執筆余話として幕府海軍の蟠竜丸を例に、激動の時代の中での軍艦の歴史を紹介したい。

蟠竜丸(370トン、全長約42メートル)は、安政5年(1858年)にイギリスのヴィクトリア女王が将軍に献上した船で、イギリスのブラックウォールの造船所で前々年に建造された豪華船であった。当時、イギリスは日本と通商条約を結ぶことを望んでおり、イギリス側全権代表エルギン卿は幕府との交渉に際して、この船を贈答品として用意した。蟠竜丸(当時はエンペラー号と呼称)が初めて東京湾に姿を現したのは同年7月4日(日付は旧暦)で、エルギン卿が率いる他の艦船とともに品川沖に錨を下ろした。

蟠竜丸は7月18日の日英修好通商条約の締結と同時に幕府に引き渡され、以後、幕府所有の艦船になった。蟠竜丸の内装は豪華なものであり、階段や手すりには彫刻がほどこされ、壁一面に鏡がはめ込まれた部屋もあったと伝えられる。蟠竜丸は東京湾内に置かれたが、文久3年(1863年)になると、日本と通商条約を結ぶために来日したスイス使節団が乗船した船として再び歴史に登場する。当時の日本では攘夷事件が続発し、江戸に滞在したスイス使節団を攘夷派浪士が襲撃するという噂があった。そのため幕府はスイス使節団を品川沖に碇泊する蟠竜丸に避難させることを決定した。

スイス使節団が蟠竜丸に乗船したのは同年4月14日で、使節団の一員であったカスパー・ブレンワルドは日記の中で「私はイギリス女王から大君に贈られた豪華な蒸気帆船エンペラー号に連れていかれるという幸運を得た。この船にはこの上なく洗練されたオリエンタル風の贅沢な装備が整っているのを見て少なからず驚いた。サロンにある本当に絢爛豪華なソファーを就寝用に一人ずつあてがわれたが、四方の金箔の壁から察するに昔は女王自身が使っただろうことは間違いないと思われた。女王もこの豪華な船を江戸に送った時は、まさかスイス使節団の寝室として使われようとは夢にも思わなかったことだろう」と述べている。

幕府海軍の軍艦として将軍の上洛や箱館戦争に従軍

スイス使節団が蟠竜丸に乗船した頃から幕府海軍の軍艦は、幕府要人の移動手段としても利用されるようになった。蟠竜丸の場合、文久3年10月26日に、将軍後見職の徳川慶喜を乗せて江戸から大坂に向かい、同年12月28日には14代将軍の徳川家茂が軍艦に乗って上洛した際には蟠竜丸が供艦として随行した。幕府要人が陸路で移動するのにくらべて軍艦で移動すれば費用も日数も少なくて済むため、幕府海軍の軍艦は軍事行動だけでなく輸送手段としても次第に重要な役割を果たしていくことになった。

蟠竜丸「遊撃隊起終並南蝦夷戦争期」より
蟠竜丸 「遊撃隊起終並南蝦夷戦争期」より
函館市中央図書館蔵

蟠竜丸が軍艦として軍事面で本格的に活躍するようになったのは明治元年(1868年)に入ってからで、榎本武揚が率いる旧幕府海軍の軍艦(蟠竜丸・開陽丸・回天・千代田丸・長鯨丸・神速丸・大江丸・鳳凰丸・回春丸)は、最終的に箱館に向かい、新政府軍と戦うことになった。この時、多くの浦賀奉行所の与力や同心、彼らの子どもたちが軍艦の乗組員として箱館に赴いたが、この点については『浦賀奉行所』で詳しく紹介した。また、この時の蟠竜丸の動向については、いくつかの資料に記述がある。たとえば、浦賀奉行所の与力をつとめた中島三郎助は、次男の恒太郎が明治元年11月4日におこなわれた攻撃に蟠竜丸に乗って参戦したことを手紙に記している。手紙には、この時、敵弾2発が蟠竜丸に命中したとある。

一方、蟠竜丸は、明治2年5月11日に、新政府軍の朝陽丸を撃沈したが、この時の様子を旧幕府軍の陸軍奉行大鳥圭介は、「蟠竜艦の弾、七里浜近くにありし朝陽艦に中り、正に其の薬室に的中せしを以つて瞬間に破裂し黒煙山の如くに沸騰せり。予初めは其とも知らざりしが黒烈晴れて見れば船の全体既に沈没し帆檣とやり出しのみ水上に出たり。有川辺より救助船を出したる由なれども乗組の者多くは戦死し魚腹に葬られたる趣なり」と記している。その日の内に蟠竜丸は新政府軍からの集中砲火を浴び、弾丸が尽きた後、艦長の松岡盤吉は機関を破壊し、乗組員の退艦を決めた。同時に新政府軍は蟠竜丸に放火し、同艦は午後になって弁天台場付近の浅瀬で横転し沈没した。

雷電丸と名を変え軍艦そして捕鯨船として明治期を

明治30年(1897年)9月14日、大阪に住む横井時庸は「幕府の軍艦蟠龍丸の記」と題した記事を執筆し、この記事を同年10月20日発行の『旧幕府』第7号に掲載した。記事には蟠竜丸の歴史が収録され、箱館戦争後の同艦の動向が報告された。記事によれば、蟠竜丸は箱館戦争終了後、イギリス人によって引き上げられ、上海で修理されたと言う。記事には上海で「上部を拵え直した」とあるから焼けた部分を改修したと思われる。修理後は、明治6年(1873年)に開拓使が同艦を購入し、雷電丸と名前を変えている。さらに、明治10年(1877年)には横須賀造船所で建造された函陽丸との交換で所属が海軍に移り、横須賀に配備された。雷電丸が軍艦として廃艦になったのは明治27年(1894年)で、その後、民間に無償で払い下げられた。

横井の記事によれば、購入者は土佐(高知県)の平松與一郎で、彼は捕鯨船として同艦を利用しようとした。しかし、捕鯨船としての利用にも堪えられなかったのであろうか、間もなく大阪の豪商福永正七に転売され、最終的には名古屋の汽船会社が雷電丸を引き取ったとある。雷電丸が解体されたのは明治30年で、横井は当時の状況を「此頃、全く老朽、用に堪へさるを以て大坂木津川大字難波島、前川造船所に於て解放しつつあり。近日、湯屋の鑵下、一片の煙と消へ去らんとす。幕府の軍艦多かりしといへとも蟠龍の如く其終りを全くしたるものあるを聴かす」と記した。

横井の記事が正しいものであるならば、蟠竜丸は建造後約40年を経て、最終的には風呂屋の焚き付けになったことになる。横井は先の文章に続けて「軍艦としては本邦古来未曾有の功を奏し、商船としては能く貨物・旅客を運搬し、明治30年、今月今日、木津川河畔、秋風吹く処、一条の龍骨を残すや。余故ありて今夏以来、木津川に往来すること数回、今昔の感に堪へす。ここに同艦の為めに一篇の念仏に換へて此記を作る。余白を賜はらは幸甚」と記したが、蟠竜丸が徳川慶喜も乗船し、浦賀奉行所の関係者とともに華々しく戦った艦船であったことを考えるとなんとも寂しい感がある。

浦賀奉行所の与力や同心あるいは浦賀で活躍した船大工たちが日本の近代化に大きな足跡を残したことは間違いない。特に、海防・外交・造船・海軍の創出など、明治時代に繋がる基盤を作り上げる上で、彼らは大きな役割を果たした。また、機械にしかすぎない軍艦も激動の時代の中で次の時代に向けてなんらかの役割を果たしたことも間違いない。浦賀奉行所の人々については今回刊行された『浦賀奉行所』を読んでいただきたいが、必ずしも全国的には有名ではない浦賀奉行所や軍艦の歴史について、これを機会により多くの方に知っていただければと思う。

西川武臣  (にしかわ たけおみ)

1955年愛知県生まれ。横浜開港資料館・横浜市都市発展記念館副館長。
著書『亞墨理駕船渡来日記』神奈川新聞社 1,400円+税、共著『横浜歴史と文化』有隣堂 7,000円+税、ほか。

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